第二話 河口麻由
ちゃぷっ
湯船に同心円状の波紋が広がっていく。
「ふう……暖かい」
さっき、私が食事を作っているときの、お兄ちゃんの態度。
何かを聞きたそうだった。
でも、ちょうどいいところにお父さんもお母さんも帰ってきたので、結局聞けなかったようだった。
お兄ちゃんはきっと気づいている。
お兄ちゃんに噛み付いたとき、私の意識があったことに。
……そう、私はお兄ちゃんに噛み付いたんだ。
あの石を見たとき、私はとっても怖かった。
よくはわからないけど、何か恐ろしいものが近づいてくるのを感じた。
まるで、獲物を追い詰める捕食者のような、何か。
目の前にいたはずのお兄ちゃんの姿が見えなくて、どうすればいいのか全然わからなくなった。
「コノ、愚カナ男ノ体ヲ、戴クトシヨウ」
そんな声が聞こえた。
地獄の底から聞こえてくるような、禍々しい声。
途端に、現実に引き戻されたような感覚があり、お兄ちゃんは目の前にいた。
お兄ちゃんに危険が迫っている。
そう思ったら無我夢中で、自分でも何をしているのかわからなかった。
次の瞬間、背中に殴られたような衝撃。
そして、金縛りにあったように体が動かせなくなった。
「……っ、……っ!」
お兄ちゃんが私を呼んだ。
早く安心させてあげなきゃ。
そう思ったのに、体がいうことをきかない。
目を開けようと思うと開かないくせに、今度は開けようと思っていないのに目が開いていく。
まるで、自分の体ではないみたいだ。
お兄ちゃんは一瞬安心したような顔をしたあと、驚いたように目を見開いた。
そして私は、お兄ちゃんに……
そのあとのことは、あまり思い出したくない。
好きな人を、世界で一番大切だと思っている人を、傷つけた。
私はお兄ちゃんのことが好きだ。
叶わぬ恋だってことは、わかっている。
血の繋がりがないとはいえ、兄妹には違いないから。
確かに、好きな人と両想いになれないのは哀しい。
でも、例え願った形で愛されなくとも、お兄ちゃんは私を妹として愛してくれている。
好きな人の妹になる、と決まったときに覚悟したことだから。
私には、それだけで十分なんだ……
河口兄妹は仲がいい、と近所で評判になるくらいなんだから。
「本当ニ、ソウカ?」
「えっ」
頭の中に響く、禍々しい声。
この声は、あのときの……!
「心ノ奥底デハ、アノ男ノ心ヲ欲シテイルヨウダゾ?」
「そ、そんなことないっ!」
お風呂に響く私の声。
「クク、我ニ嘘ヲツクコトハデキナイノダゾ?我ハオマエ、オマエハ我ナノダカラ」
「私は私っ!お前なんかとは違うっ!」
頭の中で、危険信号が点滅している。
脳の芯が痺れるような感覚がある。
このままでは、また……
「クク、安心シロ。ソノ想イ、我ガ叶エテヤロウ」
「……え?」
叶う?
叶わないと諦めていた、この想いが……?
お兄ちゃんと、両想いになれるの……?
思わず心が揺れてしまった。
「うっ!?」
その瞬間、心が呑まれ、体の感覚がなくなっていく。
だめ……
また、お兄ちゃんを……
体がいうことをきかない。
手足が勝手に動く。
私の体は湯船から出ると水滴も拭かずにお風呂場を出て、服も着ないで脱衣所をあとにした。
がちゃ
「ん?」
お兄ちゃんの部屋のドアを、ノックもせずに開ける。
お兄ちゃんは驚いた顔をしている。
それはそうだ。
妹が、裸で立っているのだから。
「ま、麻由っ、なんて格好でっ……とととにかく服を着なさいっ」
狼狽するお兄ちゃんの胸に飛び込む。
「ま、麻由……?」
私は牙をむいてお兄ちゃんの首筋に……
いけない!
「お兄ちゃん逃げてえええぇぇぇぇぇっ!」
私は力の限り絶叫し、力の入らない腕でお兄ちゃんの胸を押す。
お兄ちゃんの体は2,3歩後ろへさがり、私の牙は空を切った。
お兄ちゃんと目が合い、対峙する。
お兄ちゃんに、警戒……されている。
「ク、今日ハモウ無理ソウダナ……」
頭の中で声がした。
その瞬間、膝ががくんと崩れた。
「麻由っ、大丈夫かっ!?」
お兄ちゃんが慌てて駆け寄る。
私は、また、お兄ちゃんに……
「う……っ、……っ……うう……ひっく……うえぇっ……っ……」
悲しかった。
どうして私が、お兄ちゃんを傷つけるのだろう。
嗚咽が漏れる。
「麻由……辛かったな」
お兄ちゃんが私を優しく抱きしめ、頭を撫でてくれる。
「ひぐ……っ……う……お、にい……っ、ちゃん……」
私はお兄ちゃんの胸にしがみつき、泣いた。
ばたんっ
「どうしたっ!?」
「あ……」
お父さんとお母さんがドアを開け、呆然とした。
……どう思ったのだろう。
髪からつま先までびしょ濡れの娘が、息子の胸にしがみついて泣いている。
しかも裸。
しばらくの間、まるで時が止まったかのように、誰も動かなかった……
あのあと大騒ぎになり、お兄ちゃんと私はお父さんとお母さんに説明するのが大変だった。
なんとなく、石のことは隠した方がいいような気がして、嘘をついてしまった。
でも、事故だった、と説明しようにも「何がどうなったらあんな事故になるのか」なんて考え付かない。
結局、「私がお風呂で眠ってしまってお兄ちゃんが死ぬ夢を見たので、怖くなってお兄ちゃんに抱きついて泣いていた」と説明した。
……ちょっと、いや、かなり苦しいけど。
二人はあまり納得したようには見えなかったけど、追及しても無駄だと思ったのか、戻っていった。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
あんな場面を見られたことは置いといたとしても、また噛み付こうとしてしまった。
お兄ちゃんは何も言わずに、私の頭を優しくぽんぽんっと叩いた。
「麻由、しばらく学校休め」
「……え?」
お兄ちゃんの考えてることはわかる。
このままでは私は、周りの人間に危害を加えてしまうかもしれないのだから。
「……お母さんたちにはなんて言うの?」
「俺が適当にごまかしとくから大丈夫」
「……わかった」
それにしたって、あまり長い間休めば不審に思われてしまう。
この問題は、短期間で解決しなければならないのだ。
「……麻由、絶対に俺がなんとかしてやるからな」
それでもお兄ちゃんは、頼りになる笑顔を私に向けた。