第一話 石
「なんだ、これ」
足元に落ちているものを拾い上げる。
「うっ!?」
それは、見た目以上の重量をもっていた。
ビー玉ほどの大きさの、深紅の綺麗な石。
そんな石が、鉛のような、いや鉛以上の重さだったのだ。
完全な球体をしているので、天然のものではなさそうだ。
しかし、人工のものというには、あまりにも神秘的だった。
装飾を目的とした宝石ならば、光を反射させ、キラキラと輝かせるためにカットがなされているはずだ。
それなのにこの石は、つるんとした球体。
色が濃いためか、中心部は暗いもやがかかったようで、光を通さない。
太陽にかざしてみても明るさをまるで感じないその漆黒の闇には、吸い込まれるようだ。
ただの石とは思えない。
その謎めいた魅力に、俺は抗うことができなかった。
俺は憑かれたようにそれをポケットに突っ込み、家路を急いだ。
家に着くと、着替えもせずに石を取り出し、眺めた。
……今の俺、普通じゃないな。
しかし、わかっていてもやめられなかった。
俺はこの石に魅せられてしまっている。
漆黒を湛えた深紅の暗闇に、俺の意識は溺れそうだった。
「……っ」
どこかで声がする。
「……ことっ……まことっ!」
誰かが俺を呼んでいるようだ。
しかし、両親共働きのこの家に、こんな日中にいるやつといったら決まっている。
確か、俺のことは『お兄ちゃん』と呼んでいたはずだが。
「真ぉっ!!」
ばたんっ
ドアが勢い良く開いた。
そこには、鬼の形相でこちらを睨む可愛い我が妹、麻由がいた。
「よう麻由、どした?」
「私のプリン勝手に食べたなーーーーっ!!」
そう叫びながら駆け寄ると、俺から数歩の距離で軽やかに飛び、
「天誅っ!!」
「げふっ」
……見事な蹴りを繰り出した。
前言撤回。
ぜんぜん可愛くない。
「み、ミニスカートで、飛び蹴りを、するな……がく」
薄れゆく意識の中、俺は兄として最低限の役目を果たした。
「……え?わわっ、ごめんお兄ちゃん、大丈夫!?ちょっと!?」
予想以上のダメージを与えてしまったことに驚いたような声を、ブラックアウトしていく頭でぼんやり聞いていた……
「やりすぎました、ごめんなさい……」
さっきまでの勢いはどこへやら、麻由はしゅんと小さくなっている。
「でも、元はと言えばお兄ちゃんが悪いんだよ?私のプリン、勝手に食べちゃうから……」
口を尖らせて、いじけたように頬を膨らませる。
「言っておくが、俺には身に覚えがないぞ」
「ええっ!?そうなの!?」
麻由は驚いた顔をして、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「……ほんとに、ごめんなさい」
泣きそうな声でそう言い、深々と頭を下げてくる。
「いいよ、そんなに怒ってるわけじゃないし」
その頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「あ……」
麻由は恥ずかしそうに視線を落とし、
「ありがとう、お兄ちゃん……」
小さな声で、そう言った。
「……あれ?」
しばらく撫でてやっていると、麻由が唐突に声を上げた。
「お兄ちゃん、これ、なに?」
麻由が足元にあるものを拾い上げる。
例の石だった。
飛び蹴りをくらったときにでも転がったのだろう。
まじまじと石を見つめていた麻由は、突然、恐怖に全身を硬直させた。
「……あ……あ……い、嫌……こないで……」
「麻由、どうした?麻由っ」
麻由は、思わず落としてしまった石から逃げるようにあとずさった。
「……嫌ぁ……怖いよ……お兄ちゃん……っ……」
「麻由っ、しっかりしろ!麻由っ!」
麻由の両肩をつかみ、がくがくと揺さぶる。
俺にはわけがわからなかった。
わかるのは、石を見てから麻由は恐怖に怯え始めたということだけ……
「くそっ」
石を遠くに蹴飛ばす。
先程まで魅力に満ち溢れていた美しい石は、今や忌々しい呪いの石に見えた。
「……う……あ……」
麻由は顔面蒼白で、全身をがたがたと震わせながら、石を見つめ続けていた。
「麻由、少し休め」
そう言って、石から麻由を庇うようにして部屋から連れ出そうとしたときだった。
「だめえええぇぇぇぇぇっ!!」
麻由が絶叫し、俺に抱きついたかと思うと、回り込んで石から俺を庇うようにした。
「きゃああぁぁぁぁっ!」
……俺は目を疑った。
部屋の隅に転がった石から、赤黒いガスの塊のような、禍々しいものが吹き出し、麻由の背中を直撃したのだ。
いや、直撃したというより、麻由の体に染み込んだと言った方が正しいかもしれない。
麻由は気を失ったのか、ぐったりと倒れこんできた。
「…………麻…由……?」
返事はない。
それどころか、反応すら見せない。
「麻由」
自分の鼓動が早くなっていくのがわかる。
「麻由っ、しっかりしろって!麻由っ!」
がくがくと揺さぶった。
何も考えられなかった。
麻由が目を開けないことが信じられなかった。
「麻由っ!おい、麻由っ!」
「う……」
麻由がかすかに身じろぎし、ゆっくりと目を開き始めた。
「麻由……」
俺は胸をなでおろした。
が、次の瞬間、麻由と目が合った俺は呆然とした。
瞳が……紅い!?
深いブラウンだったはずの麻由の瞳は、あの石のように、漆黒の闇を湛えた深紅だった。
……違う、これは麻由じゃない。
本能的にそう感じた。
麻由に入り込んだそいつは、口の端をかすかに歪めると、俺に抱きつき、首筋にキスをした。
「痛っ、いたたたたっ!」
……いや、キスではなかった。
噛み付いている。
「このっ……!」
なんとか振り切り、そいつと距離をとる。
噛まれたところに手を触れるが、幸い血は出ていないようだ。
麻由が、ニヤリと笑う。
鋭い犬歯が露になる。
背筋をぞくりと恐怖が伝った。
体は麻由のものだ。
傷つけることはできない。
……どうすればいい?
そのとき。
麻由は急に動きを止め、床に崩れた。
「麻由!」
思わず駆け寄る。
「う……お兄…ちゃん?」
「麻由っ……」
開かれた麻由の瞳は、いつもと同じ、深いブラウンだった……
落ち着かせるために、紅茶をいれてやった。
ストレートに、はちみつをスプーン2杯とちょっとを入れ、かきまぜる。
なぜか麻由は昔から、はちみつは『2杯とちょっと』というこだわりがあるのだ。
それに口をつけ、麻由が尋ねた。
「何か……あったの?」
「……」
正直に話すべきか、迷った。
さっきの麻由は、何かに乗り移られているようだった。
しかもその『何か』は、俺が拾ってきた怪しげな石から飛び出してきたのだ。
……そういえば、あのあと麻由から出ていった記憶がない。
まだ麻由の中にいるのだろうか。
いずれにせよ、正直に話せば麻由は俺に罪悪感を感じるだろう。
それは避けたかった。
原因を作ったのは俺なのに、麻由は何も悪いことをしていないのに、自責の念にかられるのはあまりに可哀想だ。
「いや……何もないよ。麻由が急に気を失って倒れたからびっくりしたぞ」
「……首、どうしたの?」
「えっ?」
納得した様子のない麻由の次の質問に、俺は凍り付いた。
何もなかったら首筋に歯形のあざなんてつくはずないでしょ?
そう言われているような気がした。
「……」
麻由は両手でティーカップを持ち、その水面をじっと眺めていた。
麻由は、もしかしたら、さっきのことを覚えているのかもしれない。
質問は、信じがたいことを確信に変えるためだったのかもしれない。
「…………麻……」
「私、晩ご飯の準備するねっ」
俺の呼び掛けをさえぎるように明るい声で言い、麻由はキッチンに入っていった。
「なんなんだよ、一体……」
俺はあの石を拾ったことを後悔していた。
とんでもないものを拾ってきてしまったのかもしれない……
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