表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第三章 幸せの麗央奈(上)

 紅坂麗央奈は昔、年齢にしてまだ五歳の時、とても気が小さかった。

 知らない人とはなかなか打ち解けられなかったし、言いたいことは何一つ言えない。おかげで、幼稚園でも友達なんてものは全くと言っていい程に出来なかった。

 麗央奈には、よく顔を合わす男の子が居た。家がたまたま隣同士で、母親同士の気が合ったこともあって、その男の子と会う機会が多かった。

 しかし、麗央奈は人見知りが災いして、男の子と会話を交わすことすらままならない。いつも母親の後ろに隠れて、嵐が過ぎ去るのを待つように、男の子から視線を逸らすことしか出来無かった。

 とはいえ、彼女の母親としては、友達を作って欲しいという気持ちがあったのだろう。麗央奈はある日、母親に無理矢理引き離され、その男の子と二人きりにさせられた。

 「麗央奈の部屋に案内してあげなさい」と言われたのだ。耳を疑った。信じられなかった。自分の部屋に同年代の男の子を上げるなど、怖くて仕方が無い。

 麗央奈に出来たことは、男の子を自分の部屋に案内した後、隅でウサギのぬいぐるみを抱え、じっとしていることだけだった。

(ワタシのへや、めちゃくちゃにされちゃうのかなぁ……)

 そんなことを考えながら。

 男の子は部屋の中央に正座し、興味津々といった様子で、部屋を見回していた。

 ふと、男の子と目が合う。麗央奈は慌ててウサギのぬいぐるみに顔を埋め、隠す。

「あー、えっと……」

 男の子が口を開いた。

「ごめん。はずかしいよな……へやをじっとみられたら。オレだってはずかしいもん」

 麗央奈はぬいぐるみに顔を埋めたまま、その言葉を聞いている。

「そもそも、カアちゃんたちがおかしいんだよな。コドモだからって、みんながみんな、すぐになかよくなれるとおもっててさ。そんなカンタンじゃないっての」

 男の子は、そこで話すのを止める。

 麗央奈は少しだけ顔を上げて、男の子の様子を窺う。何やら気恥ずかしそうに、人差し指で頬っぺたを掻いている。

「あ、あのさ……」

 男の子は麗央奈の方へ向き直り、言った。

「し、しつもんしてもいいか!?」

「ひっ!?」

 いきなりだったので驚き、身体が縮こまる。

 男の子は慌てたように、手を振り、

「す、すまん! こわがらせるつもりなんかなくて……ただ、どうしてもその、きになることがあって……! オマエをはじめてみたひから、きになりすぎて、ねむれなくて。かといって、こんなことカアちゃんにきいたら、いろいろとからかわれそうで……! たのむ、おしえてください!」

 ついには土下座までする。

 麗央奈は依然人見知りが発動しており、喋ることが怖くて仕方が無いのだが、男の子は額を床に貼り付けたまま、一向に顔を上げようとしない。

 自分が何か言わなければ、おそらくこの男の子は顔を上げることはないだろう。そう思ったら、せめて話くらいは聞いてあげてもいいかもしれない、という感情が、麗央奈の中で渦巻き始め、

「……し、しつもんって?」

 やがて、物凄く上擦った声ながらも、言葉を発することに成功した。

 男の子は、ばっと顔を上げて、とてつもなく嬉しそうな顔をする。

「こたえてくれるのか!」

 麗央奈はこくりと頷く。

 彼は「やった!」とガッツポーズをしてから、

「それでだな、オレがききたいのは、どうして――」

 自分の頭に触れる仕草をする。

「オマエのカミがアカいイロをしてるのかってことなんだ」

 ああ、やっぱりそのことか、と麗央奈は思った。

 麗央奈には生まれた時からの強いコンプレックスがあった。周りの子供達とは明らかに違う、燃えるように赤い髪。ペンキを丸ごと頭にぶちまけたような、原色に近い赤。

 一度道を歩けば、大人も子供も皆、好奇の視線を彼女に向けて来る。

 母親に頼んで、何度黒色に染めようと思ったことか分からない。麗央奈は自分の赤い髪が、大嫌いだった。

 ぎゅっとウサギのぬいぐるみを抱き締め、彼女は俯く。

「やっぱり、きもちわるいよね……」

「え?」

「このアカいカミのけ。こんなカミのイロじゃなきゃ、ワタシだって……」

 他の子と何の隔たりもなく遊べて、友達だって作れるはずなのに。

 ところが、男の子は言った。

「そんなことねぇよ」

 麗央奈は顔を上げる。男の子は至って普通の表情で、続ける。

「オマエのカミ、すっごくキレイなイロじゃねぇか。なんだっけ? ええっと……ホウセキでアカいのあるじゃん? んー……あっ、あれだ! ルビー! ルビーみたいにキラキラしててさ、オレ、オマエのことはじめてみたとき、まるでエホンのナカからでてきたオヒメサマみたいで、すっごくカワイイって……あ」

 慌てて口元を押さえ、顔を赤くする男の子。

 麗央奈も自分の頬が熱くなるのを感じる。

「か、カワイイ……」

「あっ、いや、ちがうんだ! いまのは……」

「ちがうの?」

 不安になって、首を傾げる麗央奈。

「いや、ちがわない! オマエのアカいカミはきもちわるくなんかないぞ! オレがいいたいのはだな、そういうイミじゃなくて、ついカワイイっていってしまったことについてであって……って、これじゃあ、カワイイっていったのをみとめてるようなもんじゃん! いや、いったけどさ! ああもう、とにかくオマエのアカいカミはすごくキレイだってこと!」

 男の子は言い切ってから、恥ずかしそうにそっぽを向く。

 生まれて初めてだった。自分の赤い髪をここまで褒めてくれた人は。

 両親にさえ「髪のことを馬鹿にされても負けちゃ駄目よ」と言われたことはあっても、綺麗だと褒められたことは無かった。

 宝石のルビーみたいだなんて、お姫様みたいだなんて、言ってくれた人は今まで誰もいなかった。

「あ……ありがとう」

 嬉しくて、自然と笑顔が零れる。

 男の子がそれを見て、驚いたように目を丸くする。

 今度は麗央奈が、はっとなってウサギのぬいぐるみで顔を隠す。頬だけじゃなくて、耳まで熱くなるのが分かった。

「オマエがわらってるの、はじめてみた」

「か、カミのけをほめられたのはじめてだから、うれしくて、それで……」

「えっ、そうなのか? おかしいな、オレはキレイだとおもうんだけどなぁ」

「そ、そんなこと……」

「あと、イマしったけど、わらってるカオもすごくいいとおもう。これだけはジシンをもっていえるぞ、オレは! オマエのエガオはすごくいい! いつもこまったような、おびえたようなカオしてるけど、もったいない。オレはもっとわらえばいいとおもう! ……あ、いや、オレがキラいだから、いつもそんなカオしてるのかもしれないけど。そうだったら、ごめん」

「え?」

 麗央奈は顔を上げる。

「いや、オマエさ、オレをみると、すごくおびえたカオをするだろ? ひょっとしてキラわれてるのかなぁ、っておもったり、おもわなかったり。でも、オレとしては、その……」

 後ろ頭を掻き、男の子は一旦、深呼吸をして、

「できるなら、オマエとトモダチになりたいなぁ、とかおもってたりするんだけど……」

 ちらっと横目で麗央奈の様子を伺いながら、言った。

 麗央奈は男の子が口にした言葉の意味を理解するのに、数十秒を要した。

「トモダチに……なってくれるの?」

「だ、ダメかな?」

「でも、でもワタシ、カミのけアカいし」

「うん、それはみればわかるけど」

「それに、ひとみしりだし」

「あっ、ひょっとしてオレとはなそうとしなかったのは、それがげんいん? なんだ、よかった。キラわれてるわけじゃなかったんだ」

「ワタシ……ワタシは……」

 視界がぼやけた。目頭が熱くなって、ポロポロと涙が零れた。

 胸が一杯になって、口元が下に引きつった。堪えようとしても、拭っても、抑えようのない感情と涙が溢れて来る。

 我慢出来なくなって、麗央奈は声を上げて、泣いた。

 男の子が驚き、慌てた様子で、「えっ、なくほどイヤなの!?」と言うが、麗央奈はただ、泣き声を上げることしか出来ない。

 やがて、騒ぎを聞きつけたのか、階段を駆け上がる音がして、男の子の母親と麗央奈の母親が部屋に入って来る。

 泣いてる麗央奈の姿を見て、男の子の母親が目を尖らせ、男の子に向かって怒鳴った。

「くぉらっ、このクソガキ! なに麗央奈ちゃんを泣かしてんだ!」

「ちょっ、まっ、カアちゃん、オレはただトモダ――」

「問答無用!」

「ぎゃーっ!?」

 滲む視界の中で、男の子が拳骨を喰らい、ジタバタと床を転がりながら悶えるのが見える。

 麗央奈の母親が横に腰を下ろして、訊いて来た。

「麗央奈、走太くんと何があったの?」

「ちがうの……」

「え?」

「うれしいの……」

 麗央奈は泣き続けた。

 その日、彼女に初めての友達が出来た。隣の家に住む男の子。

 彼の名前は、小林走太と言った。




「ん……」

 麗央奈は目が覚める。

 夢を見た。昔の夢を。幼き日、走太と初めて友達……いや、幼馴染みになった時のこと。

 幸せで胸が一杯になった、あの日。麗央奈は一度だって忘れたことはない。そして、これからも忘れない。

 枕元の、ウサギのぬいぐるみの横にある目覚まし時計を見やる。

 午前四時二十七分。セットした起床時刻よりも、少しだけ早い。目覚まし時計を裏返し、スイッチをオフにする。

「よし」

 ベッドから起き上がり、収納ケースを開け、赤いジャージを取り出して、パジャマを脱ぎ、着替える。

 ポケットティッシュとハンカチ、小銭入れ、ハンドタオルを持ち、自室を出て、一階に下り、顔を洗い、ゴムで髪を結わえてから、家を出る。

 外はまだ真っ暗である。玄関先で軽く準備体操をしてから、川原に向かって走り出す。

 日課で、今や趣味となったランニング。平日はランニングだけだが、休日にはボクシングジムにも通っている。

 次第に薄っすらと辺りが明るくなって行く中、川原の堤防を走る。往復で一時間程走り、家に戻って、セーラー服に着替える。

 それから、麗央奈はエプロンを付け、台所に立った。

 前日の夜に仕込みを終えていた食材を並べ、制服の袖を捲くる。

「お母さんの邪魔にならないように、手早く済ませないとね」

 果たして、幼馴染みの少年は喜んでくれるだろうか。

 そんな期待を抱いて、ドキドキしながら、麗央奈は調理に取り掛かった。




 小林走太の日常に変化が訪れてから、一週間と四日が経つ。

 その変化は一日の最初、朝の時点で、はっきりと目で見て分かる。

「走太。朝だよー」

 正確には朝、意識が覚醒した時点ではっきりと分かる。

 一週間と三日前まではあり得なかった光景が、目を開けてすぐに視界に飛び込んで来るからである。

 いつの間にか開け放たれたカーテンから朝日が差し込み、腰を曲げて走太を見下ろす少女の、綺麗な赤色の髪を、一層鮮やかに映し出す。凛とした彼女が余りにも眩しく、走太は寝惚けていた頭の隅々まで一瞬で血が巡り、ベッドから飛び起きる。

「お、おはよう、麗央奈」

 走太は、幼馴染みの少女――紅坂麗央奈にぎこちなく挨拶をした。

 彼女は嬉しそうに微笑み、

「うんっ、おはよう、走太!」

 元気な挨拶を返してくれる。

 一週間と一日前に、彼女が部屋まで起こしに来るようになってから、日常に溶け込みつつある光景。

 漫画やアニメで見たことはあったが、まさか自分にこんな日が来ようとは、夢にも思っていなかった。

 正直、まだ慣れない。気恥ずかしさや緊張といったものが抜けない。いや、慣れては駄目な気がする。十一年間の凍てついた時間を経験し、距離と取っていたからこそ、幼馴染みとのコミュニケーションの一つ一つが、かけがえの無い、とても大切なものに思える。だから、慣れてはいけないのだ。彼女が起こしに来てくれることに感謝しなくてはならない。

 これまた気恥ずかしくて、言葉になんて出来ないけども。

 走太は心の中で深く感謝をしながら、枕元の目覚まし時計を手に取り、アラームのスイッチをオフにする。麗央奈が毎日起こしに来るおかげで、眠気なんてものはすぐに吹き飛んでしまい、目覚まし時計はお役御免になりつつある。それでも毎日、スイッチをオンにしてしまうのは、麗央奈が起こしに来ることを当然と思わないようにする、自分への戒めみたいなものなのかもしれない。

 目覚まし時計の示している時刻は、たった今、午前六時四十五分になったところ。走太の高校生活が始まって以来、何がなんでも目を覚ましていた起床時間。

 全ては麗央奈よりも一本早い電車に乗り、彼女とブッキングしない為……だったのだが、今はその必要も無くなった。それでもこの時間に起きないと落ち着かないのは、習慣というやつなのだろう。

「なぁ、麗央奈」

「なに、走太?」

「起こしに来てくれるのは嬉しいし、俺からは文句なんて一つも無いんだけど、別に遅刻ギリギリってわけじゃないんだからさ、無理して起こし来てくれなくてもいいんだぞ?」

 漫画やアニメに見る同じようなシチュエーションは、主人公がなかなか起きず、遅刻しそうになっている為に見兼ねた幼馴染みが起こしに来てくれるのであって、一年生の時から無遅刻無欠席を続けている走太には、本来必要の無いものだったりする。仮に少しばかり寝坊したとしても、もともとの起床時刻が一本早い電車に乗ることを想定しているので、そこまで致命的な事態になったりはしないのだ。

「そ、それはそうなんだけど――」

 しかし、麗央奈はもじもじとポニーテールの先っぽを弄りながら、言う。

「わ……私はただ、自分が走太を起こしたいってだけで来てるから。無理してるわけじゃないよ。ほら、私、ランニングが日課で、もっと早く起きてるし。それに……幼馴染みだし」

「す、ストレートだな、麗央奈さん……」

 言い訳の順序が逆になってる気がする。

 彼女は指摘を理解したのか、かぁああぁあぁあっと朝一番の赤面を見せた。

「べ、別に、ちょっと本音が漏れちゃっただけなんだからね!」

 ぷいっとそっぽを向きながら言う。

「そ、そうなのか……」

 ストレート過ぎて、走太まで顔が熱くなって来る。

 これ以上指摘すると、先日のように麗央奈が暴走して、窓からダイブし兼ねないし、しかも走太の部屋は二階なので、ツッコミは止めて、登校の準備を始めることにする。

「じゃあ、俺、制服に着替えるから」

「う、うん、分かった」

 立ち上がり、壁のハンガーに掛けてある制服を手に取る。

 寝巻きの上着を脱ごうとしたところで、走太は動きを止める。

 背後の気配がいつまで経っても消えないからだ。

 振り返ると、赤毛の幼馴染みは、ぽーっと惚けた様子で走太の様子を見つめている。

「あの……麗央奈さん?」

「えっ、あっ、何?」

 はっとなって顔を上げる麗央奈。

 走太は彼女に言う。

「出来れば、その、せめて部屋の外で待っていて貰えると助かるんだけど。着替えを見られるのは、俺もちょっと、恥ずかしいというか、何というか……」

「ご、ごめん! そうだよね! あは、あはは!」

 麗央奈は、そそくさと部屋の外に退散して行く。

「な、何なんだ一体……」

 彼女は時折、今のような怪しい挙動を取る。先日も言っていた、スケベ心というやつなのだろうか。

 距離を取っていた一週間前よりも、距離が縮まった今の方がむしろ、麗央奈のことが分からなくなりつつある。

 ふと、保健室での崎原宮治の言葉が、脳裏に蘇って来る。


 ――小林。お前、本当は、麗央奈ちゃんのことなんて、ちっとも考えてないんじゃないのか?


(俺って……麗央奈のこと、本当に全然知らないんだな)

 十一年間の空白。走太はその間の彼女を、傍目でしか知らない。

 クラスメイトどころか、赤の他人と言ってもいいくらいの情報しか、持ち合わせていない。

(麗央奈の何を見て来たんだろう、俺は……)

 走太が視線を床に落としていると、部屋の扉がノックされる。麗央奈の声がした。

「走太ー、着替え終わったー?」

「あっ、ちょっと待って! すぐ行く!」




 一週間前に麗央奈が初めて走太を起こしに来た時、走太の母親の喜び様と来たら、それはもう未だかつて無い程のものだった。

 何があった、どうやって仲直りした、ひょっとして二人は恋人になっちゃってたりする!? と瞳をキラキラさせながら走太に詰め寄って来て、普段と全然態度が違うので、びっくりした。普段は走太よりも父親である走一にばかり興味津々な人であるから、なおさらだ。

 そして、凛々しく成長した麗央奈のことを余程気に入ったのか、毎朝上機嫌で、彼女を食卓に座らせて、紅茶を淹れ、談笑していたりする。

 その光景は今朝も変わらない。

 麗央奈の前だと、口調が男前な格好良い母親に見えるから不思議である。

 しかしまぁ、幼馴染みの女の子と、自分の母親が楽しげに話している光景は、見ていて悪い気分はしない。

 ふと、父親の走一と目が合う。二十代後半にしか見えないイケメン中年は、枝毛の一本もない長髪をわずかに揺らし、ふっと柔らかく微笑む。

 走太は何となく心の内を見透かされたような気がして、幼馴染みと母親の談笑を眺めるのを止め、朝食を食べるのに専念することにした。

 そうして、朝の支度を終え、麗央奈と共に家を出る。

 十分ほど歩いて、地元の駅に着き、程好く空いた電車に乗って、御門市へと向かう。

 今では電車の中でも、麗央奈と普通に話せるようになった。宿題のことや、友達のこと、今日のロボット部の活動について等。本当にもう、普通に幼馴染み同士といった感じだ。

 やがて、御門駅に着き、他の学生達もちらほらと見える中、通学路を歩いて行く。

 と、ある路地を通り過ぎようとしたところで、走太は足を止めた。

「あ……!」

 横目にその光景を目撃した瞬間、走太の頭の奥底にある記憶が蘇って来て、無意識の内に、足が止まってしまった。

 路地で一人の女の子が、柄の悪い男達に囲まれていた。女の子の制服は、御門学園のものであり、一方の男達は、見慣れない制服を着ている。

 リーダーっぽい、口ピアスでロン毛の男が、女の子の顔を舐め回すように観察してから、言った。

「ヒュー! いいねいいね! 御門学園の女子生徒は美少女揃いって聞いたんで来てみたけど、初っ端からめちゃくちゃレベルの高い女の子を見つけちまったぜ!」

 小柄で、明るい髪色をした、ふわふわの巻き毛が似合う女子生徒だった。セーラー服の胸元に付いているリボンの色が赤ということは、一年生だろう。後頭部には、淡い緑色のリボンを結んでおり、レベルの高い、と男に評された通り、瞳が大きく、可愛らしくも整った顔立ちをしている。

 しかし、その可愛らしい顔も今は、周りの不良達の存在によって、不安と怯えが浮かんでいた。

「走太、どうしたの?」

 足を止めている走太に気が付いて、麗央奈が戻って来る。

「れ、麗央奈、その……」

 慌てて言い繕おうとするが、時既に遅し。

 麗央奈もまた、走太の見ていた方向に目を向けてしまう。

 幼馴染みの視線の先で、ふわふわ巻き毛の女の子が、現在の状況から脱出すべく、顔を強張らせながらも不良をなだめていた。

「あ、あの、私、実は今日、日直で、だからその、早く学校に行かないといけなくてですね……!」

 ロン毛は前髪を弄びながら、ニヤニヤと微笑む。

「へぇ、そうなの。真面目なんだねー」

「そ、そんなわけで、失礼します!」

 足早にその場を立ち去ろうとする女の子だが、ロン毛の不良が「おっと」と身体をずらして、前方に立ちはだかる。

「日直で急いでるのは分かるんだけどさぁ、ちょーっとだけ話聞いてくれないかなぁ、ちょっとだけでいいからさぁ」

「は、はぁ」

「俺さ、隣町の間宮高校の生徒で、二年生の菅橋って言うんだけどぉ、御門学園って美少女が多いっていう噂を聞いてね。なら確かめてみようってんで、登校時を狙って、来てみたわけ。そしたらどうよ、早速美少女発見しちゃったじゃない。君だよ、君!」

「わ、私はそんな……」

「いやー、君可愛いよ。超俺の好み! そんなわけでさ、学校なんかサボって、俺達のこれから遊びに出掛けない?」

「で、でも、日直の仕事がありますから」

「そぉーんな、つれないこと言わないでさー。せっかく男に誘われてるんだよ? 遊ばないのは損ってものでしょー。日直なんて、やらなくても死ぬわけじゃないんだしさー?」

「ひっ……!?」

 後退さる女の子に詰め寄り、馴れ馴れしく肩に手を回す不良。

 女の子はいよいよ泣きそうな顔になっている。

 棒立ちになって見ていた走太は、ぐっと拳を握り締める。

 十一年前の記憶に重なる状況が、今目の前で起こっている。ここまで見て、何もせずに立ち去ることは、あの時の激しい後悔を知っている走太には出来ない。それに、隣には麗央奈がいる。ここで逃げ出したら、彼女に幻滅されてしまう。

(俺が行かなきゃ……!)

 行かなくてはならない。怖かろうと何だろうと、今行かなくは、全てを失ってしまう。だというのに。

 走太は前に進まない。いつまで経っても。

 行かなきゃいけないことを知っているのに、動こうとしない。

(行かなくちゃ、いけないのか……?)

 どうしてそんなことしなくてはならないのか、と疑問を抱いている自分がいる。

 なにせ、目の前にいるのは見ず知らずの女の子だ。学校が同じなだけ。助ける理由なんて、どこにもない。

 自分はそこまで正義感があるわけではない。お人好しでもない。

 なにより、自分はそこまで喧嘩に強くない。世の中には出来ることと、出来ないことがある。

(そうだよ、俺である必要なんかどこにもないじゃないか。助けたいなら、力を持ってる奴が助ければいい……!)

 掌の肉に爪を食い込ませる。

「おい、そこのお前達!」

 はっとなって、走太は隣を見た。

 赤いポニーテールを揺らしながら、幼馴染みが力強い表情を浮かべ、不良達の方へ歩いて行く。

 やがて、彼女は不良達の前で足を止めると、腕を組み、凛とした声で言った。

「女の子が怖がっているのが見て分からないのか? 肩に回した手を退けて、今すぐ離れろ」

「ああん、誰だお前? つーか、髪赤いなオイ!」

 ロン毛の不良が女の子から離れ、ポケットに手を突っ込み、麗央奈に近付いて行く。

「そこの女の子と同じ、私立御門学園の生徒だ。間宮高校の生徒らしいが、朝からうちの生徒をナンパするのは止めて貰いたい。迷惑だ」

「はあ? 何言っちゃってんの? 別にテメェに迷惑掛けてるわけじゃねぇだろうが。つーか、背ぇ高いなオイ!」

 身長百七十センチの麗央奈を見下ろす不良。麗央奈は一歩も退かず、ロン毛を見上げる。

「その子に迷惑が掛かっている。聞けば日直の仕事があるらしいじゃないか。今すぐ解放して、ここから立ち去れ」

「偉そうな口訊きやがって。はい、そうですか、と俺らが引き下がるとでも思ってんのか? この女の子はな、日直なんてつまらないことしないで、これから俺らと楽しいことしに行くんだよ! ……つーか、怖い顔してるから気付かなかったが、お前、よく見るとメチャクチャ可愛くね?」

 ロン毛は左右に頭を動かして、麗央奈を観察し、

「おいおい、こいつは参ったぜ。髪を黒くして、眉間の皺を取り除いたら、特上のカワイ子ちゃんじゃねぇか。しかも、背は高いが、冷静に見ればプロもびっくりのモデル体型! 髪を赤く染めてるのが、難点だが、よく見りゃあ、結構さらさらで綺麗だし、悪くねぇ。ひひひ、こりゃあいい!」

 興奮した笑いを上げ、麗央奈の前髪に触れようと手を伸ばす。

「気に入った。お前も俺達と一緒に来いよ。こっちの女の子も混ぜて、楽しいことし――」

 ロン毛の指先が赤い髪に触れる前に、止まった。

 麗央奈の右手が、ロン毛の手首を鷲掴みにして止めていた。

「私の髪に気安く触れるな」

「あ?」

「私の髪を好きに撫で回していい男は、この世でたった一人だけだ!」

 掴んだ手首を勢い良く払い除ける麗央奈。

 ロン毛の不良はよろけ、後退さる。怒りの形相を浮かべて、彼女を睨んだ。

「テメェ、このアマ……! 調子に乗ってんじゃねぇぞ!」

「調子に乗ってるのはお前だ、このロン毛。私の身体は、お前みたいな下衆にくれてやるほど安くない」

「そうかよ――」

 走太は背筋に寒気を感じ、身震いした。

 ロン毛の放つ雰囲気が変わったからだった。走太のヘタレな勘が、これはマズイと告げている。

「麗央奈!」

 走太が叫んだ瞬間に、ロン毛が拳を握って、振り被った。

「安くないって、テメェは一体幾らだこのアマァァァ――ッッッ!」

 反応出来て無いのか、麗央奈は微動だにしない。

 拳が彼女の顔面を捉え、貫通した。

「「は?」」

 ロン毛と走太は、同時に間抜けな声を上げた。

 不良の拳が、麗央奈の頭の部分を貫通していた。というより、擦り抜けていた。

 まるで、手を煙の中にでも突っ込んだかのように。

 次の瞬間には、貫通された麗央奈の姿は消え去っていて、彼女は別のところに立っている。

 その場所は、ロン毛の腕の上。

「へ!?」

 唖然とするロン毛。そりゃそうだ、攻撃した腕の上に立つとか、走太だって見たことが無い。

 とにかく実際、麗央奈は不良の腕の上に左足で立ち、右足を思いっきり振り被っている。

「私は――」

 彼女はロン毛の顔面に向けて、強烈な蹴りを放った。

「非売品で、特定の一人にはプライスレスだ、この野郎ぉぉぉ――っっっ!」

「ぷげらっ!?」

 ロン毛の顔面にスニーカーをめり込ませ、仰向けに吹っ飛ばす。

 彼女は蹴った勢いのまま、空中で一回転。華麗に地面に着地し、肩に掛かったポニーテールを背中に払う。

 残っている不良達が、戦慄の声を上げた。

「ちょっ、何だ今の!?」

「あの女、一瞬消えなかったか!?」

「つーか、腕の上に立つって、どんなジャンプ力だよ!?」

 麗央奈はキリッとした顔で言う。

「残像だ」

「「「いや、あり得ねぇだろ、冷静に考えて!」」」

 不良達が一斉にツッコミを入れる。

 走太も頷く。ごもっともです。

 しかし、そんな中、不良の一人がツッコミを忘れて、わなわなと肩を震わせていた。その顔は青くなっている。

「ち、血を吸ったような赤い髪に……残像を作リ出す程の素早い動き……俺、噂で聞いたことがある……!」

「き、聞いたことがあるって、一体何をだよ?」

 別の不良が問う。

「半年前、ヤンキーの縄張り争いで、御門市の南にある蓮城市の峯川高校が、御門学園に喧嘩を売ったことがあった。御門学園は名のあるヤンキーなんて一人も居なくて、御門市は丸々、峯川高校に縄張りになるはずだった。けど、そこで一人の女が現れた。そいつは御門市に侵攻した百人の軍勢の前に、一人で立ちはだかり、残像を作り出す程の神速で動いて、自らは一発の攻撃も受けず、峯川高校の連中を全滅させたんだ。そして、その長い髪は、百人の返り血を吸って、真っ赤に染まっていたという……!」

「ちょっと待て! 俺も聞いたことがあるが、それって都市伝説じゃなかったのかよ!?」

「でも現に今、目の前に……!」

「う、嘘だろ……? 御門市の都市伝説、血染めの百獣王ブラッディーレオン!?」

 不良達にざわめきが広がって行く。

 麗央奈は、ゆっくりと不良達の方へ歩き出す。

「ブラッディーレオンだか何だか知らないが、とにかく、そこの女の子から離れろ」

「ふ、ふざけんな! 仲間一人やられて、黙って帰れるかよ!」

 不良の一人が怒鳴って、女の子と麗央奈の間に立つ。

「勘違いするな。先に殴り掛かって来たのはそのロン毛だ。女の子さえ解放してくれれば、私はこれ以上戦うつもりはない」

「関係ねぇんだよ、そんなことは! 殴られたから殴り返すだけだ!」

 不良が麗央奈に向けて、走り出す。

 麗央奈は、すっと両手を前に出す。

「なら、殴り返さなければいいんだな?」

「殴らないって、舐めてんのかテメェ――ッ!」

「誰が舐めるかぁ!」

 両手の掌底をくっ付ける麗央奈。まるで某バトル漫画で使われるエネルギー砲を放つかのように、両腕を引き、溜める。

 不良との距離はまだ遠い……のだが。

「私がぺろぺろするのは――」

 麗央奈は全力で両手を突き出した。

「この世で一人だけだぁぁぁ――ッッッ!」

 走太は見た。彼女の前方の空間が歪むのを。

 いや、空間ではなく、空気が歪んだのだ。勢い良く突き出された両手の平によって、空気が圧縮され、光の屈曲率が変化したのである……多分。

「あっちょんぶりけっ!?」

 いずれにしても、大砲のごとく、言ってしまえば某バトル漫画のエネルギー砲のごとく放たれた風圧が、男のどてっ腹を直撃。

 男は残っている不良達の前まで地面を転がり、うつ伏せに倒れる。最後の力を振り絞り、顔を上げる彼に、麗央奈は言った。

「私は殴らなかったぞ」

「いや、ぶっちゃけ……殴るより酷くね……?」

 ガクリと額を地面に着け、男は沈黙する。

 呆然とする残りの不良達に、麗央奈は鋭い視線を向けた。

「まだやるか?」

「「「全力で遠慮させて頂きますっっっ!」」」

 不良達は一斉に首を横に振る。彼らはのびている二人を素早く回収すると、駅の方へ向けて走り去って行った。

 路地に残されたのは、一年生の女の子と、走太、麗央奈の三人だけ。

 麗央奈が女の子のところへ歩いて行き、やや腰を落として、女の子と視線の高さを合わせ、微笑む。

「大丈夫? 怪我は無い?」

「は、はい、ありがとうございます! あ、あの……お名前を教えて頂いても宜しいですか!?」

「私は、紅坂麗央奈。御門学園の二年生だ」

「麗央奈お姉様……! 何て凛々しくも麗しいお名前……!」

「え? お姉様?」

 そんな感じで、一年生の女の子と麗央奈の周りに百合の花が咲き始める中、走太は思う。

「俺……必要なくね?」

 十一年間で、圧倒的戦闘能力を身に着けてしまった幼馴染みの前に、走太の助けなど、全くもって必要が無かった。




「はぁ……」

 ぼーっと授業を受けている内に、時間はあっという間に経過して、気付けばもうお昼休み。

 頬杖をついている走太の口から出て来るのは、溜め息ばかりである。

 そこへ崎原宮治が爽やかな笑顔で近付いて来て、言った。

「走太ー、購買にパン買いに行こうぜー」

「……」

「って、そんな気分じゃないっぽいな」

 真顔に戻って、前の席に腰掛ける宮治。足を組み、黒縁眼鏡の位置を直す。

 走太は彼に言う。

「宮治。パン買いに行かなくていいのか? 売れ切れんぞ」

「走太が行く時になったら、俺も行く」

「……女の子に言われたかったわー、その台詞」

「麗央奈ちゃんに頼んでみればいいんじゃね? 頬染めながら言ってくれるぞ、多分」

「麗央奈は弁当持ち込み組なんだよ」

「馬鹿だな、走太。弁当のある無しなんて関係ないんだよ。その台詞を自分の為に言ってくれるか否かが重要なんだよ」

「言ってくれたら……凄く可愛いんだろうなぁ」

「もっとも、言ってくれた瞬間に、お前はクラスの連中から殺気の集中砲火を浴びることになるだろうけどな! ははっ!」

「笑えない、宮治。俺、笑えないよ……!」

 麗央奈と話すようになってから一週間、クラスの男子達から「なんですか小林くん、一人抜け駆けしてリア充になっちゃうどころか、脱童貞しちゃう気ですか?」という視線を向けられること多数。自意識過剰等では断じて無い。なにせ、走太が視線を向け返しても、一人として目を背けることなくガン見して来るのだ。まるで対立しているヤクザの事務所に放り込まれ、正座させられているかのようである。

 いや、それよりももっと恐ろしいことがある。クラスの女子達も殺気を放っているということについてだ。彼女達は、男子のように視線を向けては来ない。走太と麗央奈が話していても、何事も無いかのように笑顔で世間話に花を咲かせている。咲かせているように見える。しかし、明らかに走太には分かるように、微妙な仕草や、談笑の内容で、走太に向けての殺気を織り交ぜて来る。これについては、さすがに自意識過剰だと、走太は思った。ガン見して来る男子達はともかく、女子達については、走太が気にしなければ、普通に談笑しているだけである。

 ところが四日前、走太は決して自意識過剰等では無いことを知った。体育の授業が終わり、男子更衣室のロッカーを開けると、制服の胸ポケットに、一目で分かるように、新聞の文字を切り貼りした一枚の紙が入っていたのだ。


『幼馴染みだからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ、このヘタレ』


 もちろん差出人の名前など、何処にも無い。だがしかし、四つ折にされた紙の間に、ある物が挟まっていた。

 それは、男子ではあり得ない、腰まである長さの、一本の黒髪。

「女子、怖っっっ!」

 更衣室に他のクラスメイトがいるのも構わず、大声を上げてしまう程に、走太は戦慄した。

 改めて、女子の嫉妬というものがいかに恐ろしく、紅坂麗央奈という少女がいかに男女問わず人気があるのかを思い知った瞬間であった。

 ただ、走太が今回溜め息を吐いていたのは、そのことについてでは無い。

「なぁ、宮治」

「なんだい、走太くん」

「この前、保健室でした話を覚えてるか?」

「さて、何のことやら」

「俺と気まずくならないように誤魔化してるなら、そんなものは無意味だぞ。なにせ、お前はいつだってポーカーフェイスなんだからな」

「無意味って、そりゃないぜ、走太くん。俺は俺なりに気を使って、あの時狸寝入りをしたのにさぁ」

「一周廻って、逆に分かり易いんだよ、お前は。とにかく、保健室でお前は俺に、自分のことしか考えてないんじゃねぇの? って言っただろ」

「言ったねぇ、そんなこと」

「あの言葉、相当にショックでさ、それから冷静に考えてみたんだよ、俺。お前の言う通りだった。俺は、自分のことばっかで、あいつのことなんか全然考えてなかった」

 麗央奈の十一年間を自分の頭の中で捏造して、勝手なイメージを作り上げていた。彼女のことを見てるようで、全然見てなかった。走太は自分のことを考えるのが精一杯で、余裕が無くて、見ようともしていなかったのだ。

「で、麗央奈ちゃんのことを、少しは考えるようになったと」

「うん。どんな十一年間を過ごしてたのかなってさ。ただ俺、あいつのこと、十一年間本気で避けて来たから、思い返しても全然分からないんだよ。俺は本当のあいつのことを、何も知らないんだ」

「そうだろうな。はっきり言って、麗央奈ちゃんに関しては、情報屋の俺の方が知ってる」

「それに気付いた時、あいつが急に遠く感じられてさ。今朝も色々あって、俺の助けなんか必要ないくらいに強くなったのを知って、正直ショックだった」

「だから、朝から溜め息生産工場になってたってわけか?」

 走太は頷く。

 麗央奈と話すようになって、心のどこかで、いつか十一年前と同じことが起きたら、今度こそ彼女を助けてみせるという気持ちがあった。

 けれど実際は、走太は不良を目の前にして、一歩たりとも動くことが出来なかった。それどころか、女の子を助ける理由なんて無いと、自身の説得までしようとした。

 結局、走太が迷っている間に、女の子を助けたのは麗央奈だった。彼女は今や助けを請う立場ではなく、誰かを助ける側になったのだ。

 走太が助ける前に、彼女は自分で自分を助けるだけの力を手に入れてしまったのである。

「なんか俺、馬鹿みたいだ……」

 情けなくて、悔しくて。そんな感情さえも馬鹿馬鹿しく思える程の無力感が、心を支配している。

 何をどうしたらいいのか、分からない。

 走太が俯いていると、宮治は言った。

「よく分からんけど、馬鹿は馬鹿なりに前に進むしかないんじゃねぇの?」

「え?」

「お前は麗央奈ちゃんみたいに強くはないかもしれない。けど、立ち止まってたら、何も起こらないし、何も始まらない。だったら、弱かろうと何だろうと、全力で今、自分の出来ることをするしかねぇじゃねぇか」

「自分の出来る限りのことを尽くす……」

「どんなに後悔したって、過去は変えられない。でも、全力で頑張れば、これからの未来は変えることが出来るかもしれない。要するに、後悔なんかしてないで、今努力しろってことだ。例えば、お前の場合はそう――」

 宮治は、ぴっと横を指差す。

「目の前の、幼馴染みの笑顔に応えるとかな」

「走太!」

 呼ばれて振リ向くと、嬉々とした笑顔でこちらに駆け寄って来る、赤髪ポニーテールの少女の姿。

 麗央奈は走太の前に立つと、両腕を背後に隠し、やや緊張した面持ちで口を開く。

「あ、あのさ、走太は、今日の昼食はどうするの?」

「昼飯? ああ、うん、これから購買にパンでも買って来ようかなって」

 本当は食欲が湧かなくて、食べる気が無かった、とは言えないので、とりあえず適当に誤魔化す。

「だ、だったらさ!」

 麗央奈は隠していた左腕を前に出す。その手には、一つの包みが握られていた。

「これは?」

「お、お弁当!」

「え?」

「今日、ちょっとその、いつもより多めに作り過ぎちゃって! だからもしあれなら、食べてくれると助かるんだけど……」

「俺が……食べていいの?」

 こくこくと首を縦に振る麗央奈。

 走太は彼女から、弁当の包みを受け取る。

「えっと……ありがとう」

 笑顔を作って、礼を言うと、彼女はぼっと顔を真っ赤にし、叫んだ。

「か、勘違いしてよねっっっ!」

「は?」

 麗央奈は腕を胸の前で組み、そっぽを向きながら言う。

「別に、本当は多く作り過ぎちゃったとかじゃなくて、走太の為に丹精込めてお弁当を作って来ただけなんだからね!」

「ちょっ、麗央奈さん!? 本音漏れてる! 包み隠さず思いっきり漏れてるよ!」

 どうやら相当にテンパっているらしかった。

 横で見ていた宮治が眼鏡の位置を直しながら言う。

「これはデレツンだな」

「デレツン!?」

 走太が訊き返すと、宮治は頷く。

「そう、デレツンだ。ツンデレの変化型。普段はデレデレしているが、いざデレるべき時になると、テンパってしまい、思わず素っ気無い言動を取ろうとしてしまう。が、どんなに素っ気無くしようとしたところで、所詮中身は溶けたゼラチンのごとくデレデレなので、ツンになり切れない。素直系少女ならではの反動形成の型とみた」

「どうでもいいけど、麗央奈さん落ち着いて! ここ教室! 教室だから!」

 走太がなだめようと両肩を揺するが、彼女は頑なにそっぽを向きながら、更に大声で続ける。

「つ、ついでに、屋上で一緒に食べたりなんか出来ると嬉しいんだからね!」

「そうなんですか、嬉しいんですか! うん、俺はもう、屋上だろうが何だろうが、どこでも付いて行っちゃいますよ!? だけどね、教室はマズいんですよ! なにせここは――」

 ぞわっと背中を駆け抜ける悪寒。

 走太は恐る恐る目だけ動かし、周囲の様子を探って――

「ひぃぃぃ!?」

 我慢することが出来ずに、大きな悲鳴を上げてしまった。

 顔に皺を寄せ捲くったクラスメイト達が、そこにいた。ブルドックみたいな顔になっていた。いや、そんなことを言うとブルドックに失礼なくらい、恐ろしい形相で走太を睨み付けていた。もはや女子すらも殺気を隠そうとしない。男女の境界を越え、クラスメイト達は今、等しく獲物を狩る獣と化していた。

 はっとなった走太は、教室の前の入り口を指差す。

「あっ、担任の先生! 助けて下さい!」

 一斉にそちらを振り向くクラスメイト達。

 瞬間、走太は左手で弁当の包み、右手で麗央奈の手を握って、教室の後ろの入り口に向けて駆け出す。

「しまった! 小林が逃げるぞ、追えぇぇぇ――っっっ!」

「野郎ぉぉぉ!」

 気付いた男子が走り、捕まえようと伸ばす手からギリギリ逃れ、廊下へと飛び出す走太。

「昼休みの間、麗央奈さんをお借りします!」

「ざけるんじゃないわよ! 追え! 追えぇぇぇ――っっっ!」

「小林に麗央奈ちゃんの弁当を食わすな! 捕まえて、何としても取り上げるんだ!」

「女子は一階と三階に分かれて、廊下を封鎖! 男子は力の限り追って!」

「麗央奈の弁当を一口も食わすんじゃないわよ! 小林には校庭の砂を食わせてやるんだから!」

「くっそぉぉぉ、なんでだ! なんで俺の家の隣には、麗央奈ちゃんみたいな可愛い幼馴染みが住んでねぇんだぁぁぁ――っっっ!」

 最後の男子の叫びは、なんとも切実であった。




 どうにかクラスメイト達を撒こうと校内を逃げ続けた走太だったが、恐ろしいまでの嫉妬の力と、人数の差であっという間に追い詰められ、最後に残された選択肢は、指パッチンをして、中間世界へと逃げ込むことだった。

 灰色の空の下、御門学園校舎の屋上で、走太は仰向けに寝転び、荒い呼吸を繰り返しながら、疲労した身体に酸素を供給し続ける。

 一緒に逃げた麗央奈は、さすがと言うべきか、走太と同じだけの距離と走っているにもかかわらず、全く呼吸が乱れていなかった。

 ただ、彼女はしゅんと肩を落として、申し訳なさそうに項垂れている。

「ごめんね、走太。私のせいで、こんなことになって……」

「麗央奈は人気があるから……仕方がねぇよ。俺がクラスの連中の立場だったら……同じように嫉妬したんだろうし……」

「し、嫉妬……してくれるんだ?」

「え? あっ……」

 顔を赤くする麗央奈を見て、自分が本音を零してしまったことに気が付いたが、酸素が頭に回り切っておらず、否定する余力も無い。

「幼馴染みが誰かに取られるのは……やっぱり、良い気分はしねぇよ……」

 走太が言えたのは、それくらいだ。

 麗央奈は嬉しそうな顔をして、

「えへへ」

 走太の片手に指を絡めて来る。

 顔が熱くなって、頭に血液が巡り、走太は麗央奈から目を逸らす。

 たまたま視線の先に、クラスメイトから死守した弁当の包みがあって、走太は上半身を起こし、誤魔化すように包みを開いた。

「そ、そうだ! 昼休みの間、クラスメイトの連中は血眼になって俺らを探してるだろうし、仕方ないから、ここで弁当を食べてくか!?」

「本当はこんなことで中間世界を利用しちゃいけないんだけど……まぁ、でも、事情が事情だし。このままだと、お昼抜きで午後の授業を受けないといけないしね。今回は特別ってことで」

「決まりだな。ここで昼飯にしよう。あっ、でも、麗央奈の分は?」

「うん、大丈夫。あるよ。走太にお弁当を渡した後、そのまま屋上に誘って、一緒にお昼ご飯を食べるつもりだったから」

 見れば、しっかりと右手に、弁当の包みを持っている。言動がおかしくなる程に混乱し、そんな状態で激しい逃走劇まで繰り広げたというのに、弁当箱を離さなかったのは、さすがとしか言いようがない。

「じゃあ、早速」

 走太は包みに入っていた箸を持ち、弁当箱の蓋を開ける。


 ――血液をぶちまけたような真っ赤な弁当がそこにあった。


 一秒と経たずに、蓋を閉める。

 走太は努めて笑顔を作り、隣を見た。

 赤毛の少女は、自身の弁当箱を膝の上に置いたまま、もじもじと人差し指を突き合わせて、頬をほんのりと朱色にし、期待に満ちた瞳を、ちらちらと向けて来る。

 麗央奈はいつも弁当組である。自分で弁当を作って、学校に持って来て、自らの胃袋に収めている。

 だから、麗央奈が料理を作ることに関して、実は下手クソなどという可能性はあり得ないはず。十一年間の空白で、彼女の腕の程は全くと言っていい程に知らないが、それにしたって相手は超人麗央奈さんである。料理だって、人並み以上にこなすだろう。

 つまり、あれだ。これは、見た目はイマイチだが、食べてみたら超美味いというパターンだ。うん、そうに違いない。

 走太は再度、弁当箱の蓋をオープンする。

 二度見ても、やはり赤かった。一面の赤。どこまでも赤。

 ただ、鮮やかで綺麗と言い難いのは、どうしてだろう。どこか暗い。第一印象の、血液をぶちまけたようなイメージを、どうしても拭えない。

 いや、色のことは忘れよう。

 走太は弁当の詳細に意識を移す。

 ぱっと見よく分からない食材が、数多く入っていた。

(何だコレ、一体何の肉……? 血抜き忘れたんじゃないかってくらい赤いんだけど。しかもよりによってミンチ!)

 挽肉なんて有り触れた物であるはずなのに、何故か目の前の物体には、凄惨な殺人現場に散らばった肉片を思わせるグロさを感じざるを得ない。

(それからこっちは……トマト? トマトって、もっとこう、フレッシュな赤色じゃなかったっけ?)

 例えるならばそれは、老婆が白雪姫に持って来た毒リンゴのような、濃いが故に禍々しさが滲み出る赤色。

 駄目だ。やはり色を避けて通ることなんて出来ない。視覚を使って評する上では、どうしたって色が最後の関門となって立ち塞がる。

 だが、身元不明の挽肉も、毒リンゴみたいなトマトも、この弁当のメインとなっている物体に比べれば、些細な物に過ぎない。

 走太はあくまで平静を装い、「うわー、美味しそうだなー」と常套句を述べてから、麗央奈に尋ねてみる。

「えっとさ、この弁当って、ここに来る前に、購買のレンジとか使って温めたりした?」

「え? ううん、使ってないよ。クラスの皆から逃げるので、精一杯だったじゃない」

「だよね……」

 温める余裕など、どこにも無い。

 しかし、だとすれば、ここで一つの矛盾が生じる。それは、この真っ赤な弁当のメインとなる物体。

 弁当箱の中に置かれた、銀紙の仕切り内にある、ネッチャリとしたそれ。

 血の池地獄を思わせる、グラタンっぽい、赤色の何か。

 これならまだ、赤い絵の具を銀紙の上に盛った方が美味しそうだと思える半固形物が、マグマのごとく煮えたぎっているのは、何故なのか。

 弁当の蓋を開けた瞬間から、フシュー、ポコポコと湯気を立てているのは、半固形物に含まれる水分の温度が沸点を超えた結果発生した水蒸気ではないと言うのか。

 じゃあ、今もこの物体から発生し続けている気体は一体……!?

「走太、どうかした……?」

 麗央奈の言葉に、はっとなる。

 見ると、彼女の瞳に不安の色が漂い、揺れていた。何か弁当に不備があったのではないかと、心配しているのだ。

(馬鹿か、俺は!)

 麗央奈の幼馴染みである俺が、彼女を信用しなくてどうするのか。昔、あんな酷いことをしたにも関わらず、俺と普通に接してくれる彼女を。

(何を警戒する必要がある。これは、麗央奈が俺の為に作ってくれた弁当じゃないか)

 見た目も味も関係ない。大事なのは、そこに込められた想いだ。

 走太は、箸をしっかりと持ち直し、弁当に伸ばした。

 どれを食べるか思案した末に、物体の明確な名前が分かる毒リンゴ色トマトを選択して、箸で摘む。持ち上げると、明らかにトマトの野菜汁とは異なる赤い液体がぽたぽたと零れ落ちるが、気にしない。

 ゆっくりと口に運ぶ。麗央奈が不安と期待が入り混じった熱い視線を注いで来る。

 走太は心を決めて、勢い良くトマトを食べた。

「っ!」

 声が出ない程の衝撃が、舌から口内を駆け抜け、身体が震えた。

 断じて不味くなどなかった。余りの衝撃に、全身から、ぶわっと冷や汗が流れ出るのを感じる。

 事実、額から流れ出た汗が頬を伝い、顎の先から落ちて、屋上のコンクリートを濡らす。

 次いで、涙と鼻水が出る。胸が熱くなる。

 ……なんということだろう。これは、この味は、美味いとか不味いとか、そんなものを超越している。

 そう、このトマトは――


 壮絶に辛いっっっ!


(ふぉおおぉおぉぉおおぉおぉおぉおおぉおおッ!?)

 走太は叫んだ。絶叫した。悲鳴を上げた。口から火が出そうだった。

 が、声は出さない。いや、出せない。

 何故ならば――


 トマトの圧倒的辛さにより、既に喉が死んでいたから。


「がほげほぐほがほごはごはうえげほぶはっがほげほ、げほっげほげほげほっっっ!」

 代わりに、そのまま窒息死するんじゃないかと思うくらい盛大に咽る。

 麗央奈が慌てて、走太の背中に手を置く。

「だ、大丈夫、走太!?」

 問題ナッシング! と言おうとしたが、口からは「ヒュー」と謎の音が出るだけ。

 なので、走太はこくこくと首を動かして、頷いてみせる。

 やばい、なんか胃が痛いんだけど。精神的なところから来るものでは無く、明らかに直接的な刺激で。

「そ、それで……どうかな? トマトの味」

 辛いです。

「走太の口に合う……かな?」

 全然合わなかったりするのだが、形の整った眉を八の字にして、上目遣いで見つめて来る彼女に、そんなことを言えるはずもない。というか、喉が死んでいるので、言いたくても言えない。

 走太は脳髄まで焼くような辛さのせいで涙と鼻水が止まらない中、頷きながらサムズアップをして、美味しいということを必死にアピールしてみせる。

「そっか、良かったぁ」

 ほっと胸を撫で下ろして、とても嬉しそうに微笑む麗央奈。

 物理的大ダメージを受けているこんな状況下でさえ、思わずドキッとしてしまう程に魅力的な、幸せに満ちた表情だった。

 走太は思う。

(この表情を曇らせてしまうような事態だけは、なんとしても避けねば……!)

 麗央奈が悲しむ顔を見るくらいなら、どんなに辛かろうが、弁当を食べた方がマシだ。

(それに、全部が全部、辛いとは限らない。赤い=辛いと決めつけるのは、余りにも早計。だったら逆に、今がチャンスと言える!)

 先程の激辛トマトで、走太の舌は、味覚が麻痺している。それを利用して、弁当を一気に完食してしまうのだ。

 後は笑顔を浮かべて、ご馳走様でした、とても美味しかったよ、とジェスチャーで伝えるだけ。

 ならば、最初に胃に入れてしまうべきは、一面赤色の弁当の中でも、最も怪しいオーラを放つ、ネッチャリとした物体X。あえて名前を付けるならば、血の池グラタン。

 走太は手を震わせながらも、マグマ溜まりのごとく盛られたそれを、下の銀紙ごと手に取った。

 これさえ突破してしまえば、後は勢いでなんとかなる。これこそが災難関の障害。そんな気がする。

 麗央奈は未だ、期待に満ちた眼差しを走太に注いでいる。

(よし、行くぞ……!)

 気合を入れて、走太は煮え立つ血の池グラタンをまるごと口に入れた。

 今なら、どんな味の物を食べても、全くの無意味――


 またしても壮絶に辛かった。


(ひぃいいぃいぃいぃいいぃぃいいやぁああぁああぁああぁぁああぁああッ!?)

 走太は悶絶し、コンクリートの上を転げ回った。

 恐るべきことに、血の池グラタンの辛さは、トマトを遥かに凌駕していた。

 もはや辛さを通り越して、痛さに変わりつつある。オーバースペックな辛さに、口の中が火傷しているかのようだった。

(俺、今ならリアルにファイヤーブレスを吐ける自信があるぜ!)

 行き過ぎた辛さは、思考さえもオーバーヒートさせるのか、そんなことが頭を過ぎる。

「そ、走太?」

 転がり回っている様子を見て、さすがにおかしいと思ったのだろう。麗央奈が晴れやかだった表情が、曇天に変わり、

「ひょっとして、グラタン、相当に不味かった……?」

 走太は嫌な汗が吹き出る身体を起き上がらせ、気力を振り絞って、今度は両手でサムズアップをしてみせる。それでもって、今出来得る最高の笑顔をニカッと浮かべてみせる。

 少しでも気を抜いたら、意識を失って、倒れてしまいそうだった。

 麗央奈は未だ、眉を八の字にしたまま、言う。

「……本当に?」

 走太は何度も頷いてみせる。

 すると、麗央奈は先程よりもずっと、明るく、幸せそうな笑顔を見せてくれた。

「だったら、嬉しい」

 きっと、これを見た男は皆、惚れてしまうだろう――。

 個人的な好みと、幼馴染みとしての贔屓目を差し引いても、自信を持ってそう思える、最高に可愛いらしい笑顔。

 やっぱり、麗央奈は笑顔の時が一番良い。少なくとも、走太はそう思う。

 だから、弁当を食べるくらいなら、頑張ってみせる。

 ヘタレの自分でも、弁当を食べるくらいは出来る。

 体勢を持ち直して、走他は弁当箱に向き直る。毒リンゴ色のトマトを、身元不明のミンチを、その他諸々を食べて行く。

 やがて、走太の様子に安心したのか、麗央奈が自身の弁当箱を開くと、中身はやはり真っ赤だった。

 にも関わらず、彼女は平然とそれを食べ、もぐもぐと口を動かす。とんでもない辛党なのか、はたまた純粋に味覚オンチなのか。

 いずれにしても、麗央奈は走太の横で、幸せそうに笑ってくれている。

 それがとても、嬉しい。

 こんな日々が、出来るだけ長く、望むならばいつまでも続いて欲しいと、走太は願う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ