第一章 幼馴染みを見捨てた男
小林走太は昔、一人の少女を見捨てた。
どのくらい昔かというと、走太がまだ六歳、小学一年生だった頃。
当時、走太には仲の良い幼馴染みの女の子がいた。
名前を紅坂麗央奈という。家が隣同士で、通う幼稚園も一緒。気付けば、自然と仲良くなっていた。
麗央奈は人見知りが激しく、気弱な女の子だった。加えて、特徴的な外見のせいか、幼稚園でもあまり友達が出来ず、走太とばかり遊んでいた。
「あの……あのね」
「ん? どうしたんだ、レオナ」
「ワタシね……大きくなったら、ソウちゃんとケッコンしたい!」
「な、なんだってぇぇぇ――っ!?」
たまたま身近な異性だったからなのか、そんなベタな展開を持ち出すくらい、麗央奈は走太に懐いていた。
「……ダメ?」
「お、おちつけレオナ! おれたちまだ6さいだぞ!?」
「す、スキってキモチがあればトシはかんけいないって、ドラマで言ってた!」
「レオナ、ソレちがう! トシのはなれた男に言うセリフだからソレ!」
「と、とにかく、ワタシはソウちゃんのことが好きなの! ソウちゃんはワタシのこと……キライ?」
上目遣いで、瞳をうるうるさせながら、走太の顔色を伺う麗央奈。
「う……お、オレはだな……その……お前のこと……す……」
「す?」
「す、すす……す……すっごくヒキョウだお前はぁぁぁぁっっっ! うわぁぁぁああぁああぁああ――んっっっ!」
「えぇ――っ!?」
走太は泣きながら、その場から逃げ出したのだった。
走太が逃げ出したのは、単純ながらも難しい男心故だった。
素直な気持ちを言えない歳頃だったのである。
しかし、男として、逃げてはいけない場面もあった。
ある日、走太が学校から帰ろうとした時のことだ。
いつもは「ソウちゃん、いっしょにかえろう」と言って来るはずの麗央奈の姿が、教室に無い。
走太は何となく、学校の敷地内を探し回った。
校舎の中にはいない。靴を履いて、外に出て、体育館の裏に向かったところで、麗央奈を見つけた。
だが、そこにいたのは彼女一人だけではなかった。
(あいつらは……!)
同じクラスのイジメっ子共。そいつらが、麗央奈を体育館裏の壁際まで追いやっていた。
気弱な麗央奈は小さな身体を更に縮ませて、涙目になっている。
「おい、赤ガミ女! だまってないで、なんか言えよ!」
「お前さ、きもちわるいんだよ、いつもいつも! カミ赤いし、ぜんぜんしゃべらないし! このガイコク人! ムカツクんだよ!」
「つーか、だっせー! ナミダ目になってやんの!」
「ははは! しょせん女だからな!」
走太は何故かそれを冷静に見ていた。本当なら怒ってもいいはずなのに、戸惑っている自分がいる。
助けに行かなくては。そう思うのに、足が動かない。
「つーか、あいつ、小林だっけ? お前が一人だけしゃべるやつ。あいつもへんなやつだよな、こんなきもちわるい女なんかとなかよくおしゃべりしちゃってさ」
「あいつ、ビビリだからな。オレらともぜんぜん目を合わそうとしないし」
「そうそう。オレ、しってる。ああいうやつのことを『ヘタレ』っていうんだ。マジだっせーよな!」
「ははは! こんどはそいつをイジメるか!」
「そうだな、あいつもムカツクしな……ッ!?」
麗央奈が、ぱんっ! といじめっ子のリーダー格である奴の顔を平手打ちにした。彼女は震える声で言う。
「ソウちゃんの……わるぐちを言わないで……!」
「てめぇ! よくもやったな!」
「あぐっ!?」
激昂したいじめっ子が、興奮気味に麗央奈を殴り付ける。その場で尻餅をつく麗央奈。
走太は腹の底が今度こそ熱くなった。すぐにでも助けに行くべきだ。
だが、どうしても足が動かない。走太はその理由を知っていた。
(くそっ、くそくそくそ……!)
怖いのだ。どうしようもなく、いじめっ子達の存在が怖かった。
行ってどうするのか。相手の数は多い。麗央奈は助けられるかもしれない。だけど、その後、自分はどうなるのか。目の前の麗央奈みたいに殴られるのではないか。果たして一発で済むのか。絶対に済まない。何発も殴られる。
そう思ったら、一歩も前に進めなかった。麗央奈が自分の為に、勇気を振り絞って平手打ちまで放ったというのに、自分は「やめろ!」と叫ぶことすらも出来ない。
それどころか、助けるべき麗央奈に、怒りすら湧いて来る。
(そもそも、ひとみしりなレオナがわるいんじゃないか。いじめっ子をたたくユウキがあるなら、そのユウキをつかって、ガイケンなんかきにしないで、トモダチのひとりやふたり、つくればよかったんだ。オレはべつになにもわるくない! なんでオレが……! なんでオレなんだよ……!)
足が一歩、後ろに退いた。
(そうだよ、オレはなにもわるくない……! レオナがわるいんだ、ぜんぶ……!)
もう一歩、走太は下がる。
「ムカツクんだよ、お前! きもちわるいカミのイロしやがって!」
「っ!」
麗央奈の髪を引っ張るいじめっ子。
その時、麗央奈が走太の存在に気付いた。
「ソウちゃん……! たすけて……!」
麗央奈が瞳に涙を浮かべ、走太に助けを求め、必死に手を伸ばす。
けれど、走太は目を背け、その場から逃げ出した。走太は恐怖に勝てなかった。
涙で視界を滲ませながら、走太は逃げ続けた。学校の校門を潜って、全力で逃げ帰った。
(さいていだ、オレは……!)
大切な友達を、大切な幼馴染みを、大切な女の子を、自分は見捨てた。「助けて」と彼女は言ったのに。
恐怖に勝てなかったのは嘘だ。恐怖で勝手に身体が動いたわけじゃない。
走太は他でもない自分の意思で、目の前の女の子を見捨てて、逃げ出したのだ。
何故なら、彼女が「助けて」と言った時、このままでは走太はいじめっ子達に気付かれると思ってしまったから。少しも彼女を助ける気が起きなかった。
湧いて来たのは、ただただ『逃げたい』という気持ちだけだった。
「ごめん……! レオナ……ごめん……!」
走太は泣きながら逃げ続けた。
そして、この時多分、小林走太の人生は分岐した。
翌日、走太が一人で学校に行こうと家を出ると、頬っぺたに大きな湿布を貼った麗央奈が待っていた。
余りにもその湿布が痛々しくて、走太は胸が苦しくなって、目を背けた。
麗央奈が「ソウちゃん」と口を開く。頬が貼れて、上手く喋れないなのか、口に物を詰めたかのような声だった。
それだけで、走太は胸を抉られるかのような気分になる。
「あのね……そのね……きのうのことなんだけど――」
「レオナ」
何で助けてくれなかったの、と言われでもしたら、もう堪えられない。
走太は自分の心を守る為に、大声で言葉を遮った。
「ソウ……ちゃん?」
「もうオレにかかわるな」
「え?」
「オレにかかわらないでくれ……!」
「な、なんで……!? ソウちゃん!」
「オレは――」
両手の拳をぐっと握り締めて、言った。
「お前をみすてたんだ!」
走太は麗央奈の顔を見ずに、彼女の脇を抜けて、走り出した。
後ろで麗央奈の泣く声が聞こえた。走太は後ろを見ずに走った。
胸には後悔だけが残った。もう二度と合わせる顔など無かった。
それ以来、麗央奈とは一度として口を利いていない。
あっ、走馬灯って本当にあるんだ、と走太は思った。
怪獣の三本の爪が自分を動かぬ肉塊に変えんと襲い来る中、走太は確かに昔のことを思い出していた。
(やっぱり、こういう時には、麗央奈のことを思い出すんだな)
それは間違いなく、彼女を見捨てたことを、深く後悔しているからだろう。
いや、どんなに平気を装っても、あれから十一年、自分はいつだって後悔し続けている。いわゆるトラウマってやつだ。
だからこそ、こうして死ぬ間際になって思うのだ。
こんなことならせめて、勇気を振り絞って、彼女に一言謝って置けば良かったと。
――ドグワシャッッッ!
歪な音がして、走太の視界が真っ暗闇に包まれる。
自分は間違いなく死んだ。あの巨大な爪に掛かれば、自分など即死だろう。だから、こうして痛みも感じない。
しかし、走太は気付く。その暗闇が、美しい漆黒の色であることに。
走馬灯の名残なのか、スローモーションに時が流れる世界の中で、走太は顔を上げる。
世界の一部が割れていた。そう言う以外に、走太には表現が思い浮かばない。
三次元の世界の中で、二次元的に世界を叩き割り、割れた二次元の窓ガラスから三次元の世界に、漆黒のソレは足を踏み入れて来た。
赤いロボットや、怪獣に負けないくらい巨大な、漆黒の人型ロボット。赤いロボットとは正反対で、流線型でスマートなボディー。長く細い足に、五本の指が付いた鋭いナイフを思わせる腕。異質で特徴的なのは、脊髄の出っ張りを思わせる背中の装甲かすらっと伸びた、黒く長い尻尾。それを空中に活き活きと振るわせながら――
漆黒のロボットは、怪獣の顔面に力強く握り締めた拳を叩き込んでいたのだ。
すなわち、「ドグワシャ」という歪な音は、走太が怪獣の爪に潰された音では無い。走太は漆黒のロボットの介入により、命を救われたのである。
怪獣が奇声を上げながら、横っ飛びに巨体を宙に舞わせ、すぐ近くのビルに突っ込む。
漆黒のロボットが、生きているかのように肩を下ろし、尻尾をふりふりと揺らす。その背後で、漆黒のロボットが現れる際に出現した世界の割れ目が、映像を逆再生するかのように修復され、やがて罅一つ見えなくなって、消える。
漆黒のロボットが、走太を見下ろして来た。銀色のマスクの上に、黄色いアイカメラが二つ輝いている。
走太はごくりと唾を飲み込む。そして、思った。
目の前の巨大人型ロボットは自分を助けてくれた。ボディーを彩る漆黒のカラーは素直に美しいと思う。
だが――
「敵っぽい……!」
何と言うか、雰囲気が。ロボットアニメで、主人公のライバルが乗ってそう。
とはいえ、走太はその場を動けない。腰が抜けて、立てないのだ。
だらだらと額から冷や汗が流れる。
(人型ロボットに死んだフリって通じるのだろうか)
余裕があるのか無いのか、本気でそんなことを考えている自分がいる。
その時だった。
メキメキッという音がして、なんと先程怪獣が突っ込んだビルが傾き始めたではないか。
「げっ!?」
しかも傾いているのは、走太がいる方向。このままでは潰されてしまう。
「やばいやばいやばい! 力入れ俺の腰! 尻餅なんかついてる場合じゃないよ!?」
が、そう簡単には行かないのが、世の中の常。腰には力が入らず、ビルはどんどんとその傾きを増して行く。
「うおぉぉぉ、今度こそ俺オワタ――ッ!?」
ついには上半分がポッキリと折れるビル。巨大な瓦礫が走太を押し潰さんと落ちて来る。
が、同時に漆黒のロボットが動いた。
走太を跨ぐ様に立ち、両手を広げて、上に掲げる。そうして、降って来た何十トンあるのか知れないその瓦礫を、背中も使って、受け止めた。
「なっ……!」
漆黒のロボットが踏み締めた大通りのコンクリートが、瓦礫の重量も加わって、砕け、辺りに亀裂を走らせる。
ロボットは腰を捻ると、瓦礫を思いっきり遠くへ放り投げた。瓦礫が別のビルに当たって、双方共に砕け、粉塵を空高く巻き上げながら崩れ落ちる。
走太はその光景を眺めた後で、恐る恐る漆黒のロボットを見上げた。
「俺を……助けてくれたのか?」
すると、漆黒のロボットに言葉が伝わったのか、走太に顔を向け、黄色いアイカメラをキラーンと輝かせると、黒い尻尾を振りながら、ぐっとサムズアップをして見せた。
赤いロボットと同じく、誰かが中に乗っているのかもしれない。
「ゲグガゴギギゴギ!」
背筋に寒気を走らせる宇宙人語が聞こえ、走太は残り下半分だけとなったビルの方を向く。
瓦礫を押し退け、恐竜+ゴリラの巨体が再び姿を見せる。
「もう勘弁してくれ……」
こちとら依然腰が抜けたままである。我ながら、どんだけヘタレなのか。いい加減死ぬんじゃなかろうか。
頭上の漆黒のロボットがボクサーのごとく構える。どうやら本当に俺を守ってくれるつもりらしい。
しかし、俺を守ってくれたのは、もう一体のロボットの方だった。
『これ以上、好きにさせるかぁ――っっっ!』
背中と脚部からブーストの炎を生やし、スピード全開で怪獣に突っ込む赤色の重火力型ロボット。
タックルをかまし、怪獣を更に横のビルへ突っ込ませる。ブーストの勢いはそのまま、幾つものビルを貫通し、怪獣を遠くへ跳ね飛ばす。
赤いロボットはそこから上昇し、空中で、腹部装甲を開放する。出現した銃口に熱量が収束、真っ赤に燃える巨大なエネルギー球体を形成する。
『今度こそ決める! クリムゾンノヴァァァァッ!』
声色の高い咆哮が街中に響き、圧縮されていたエネルギー球体が開放され、深紅の柱となって、地上で体勢を立て直そうとしている怪獣に向けて突き刺さる。
余りに太い深紅の柱は、怪獣の身体を覆い尽くし、焼き尽くす。
「グガァアァアアァア――ッッッ!」
怪獣は嬌声を上げ、爆発。黒煙を上げ、その身を灰と化して散らした。
走太は何気なく、頭上にそびえる存在に視線を向ける。
漆黒のロボットと目が合った。
ソレは黄色いアイカメラを静かに輝かせ、尻尾を優雅に振っていた。
「あれ?」
ただそれは、一瞬の出来事で、走太が気付くと、漆黒のロボット姿は視界から消え失せていた。
それだけではない。顔を下ろし、辺りを見回すと、街の喧騒が戻って来ている。
先程破壊されたはずのビルが、何事も無かったかのように元通りになっている。道路のコンクリートに走っていた亀裂が無い。
人っ子一人いなかったはずの交差点には、学生や車が溢れ、皆こちらに視線を向けていた。
再び頭上を見上げると、雲がまばらに浮かんだ、いつもの青い空。
走太は試しに、自分の頬を思いっきり引っ張ってみた。
「ひゅめひゃなひ(夢じゃない)」
ならば、つい先程までの出来事は夢だったのか。そういえば、あちらでは頬を引っ張ってみるのを忘れていた。
「まさか白昼夢ってやつ……?」
首を傾げていると、すぐ近くで、耳をつんざくような車のクラクションが鳴った。
「おい、そこの学生! なに大通りのど真ん中で座り込んでんだ!? 通行の邪魔だろ! つーか、いつからそこに居た!?」
車の窓から顔を出し、驚きと怒りが入り混じった顔をする見知らぬ中年男性。
状況を簡単に説明すると、走太は白昼夢の中で座り込んでいた場所にそのまま居るわけで。
つまり、交差点近く、大通りのど真ん中で、通行中の車を塞ぐ形になってしまっていた。
そりゃあ、通行人の方々もこちらに視線を向けるわけである。
「えっとですね……これには色々と事情がありまして……」
「そうだろうさ! 事情が無けりゃあ、そんなところに座ったりしないだろうしね!? 分かったよ! おじさん、もう怒ったりしないから、とりあえずそこを退いてくれない?」
「ええ、俺も退きたいのは山々なんですが……」
「なんだよ!?」
「起き上がるの、手伝って貰えません?」
走太は白昼夢内同様、腰が抜けていた。
昨日はその後も酷い目に合った。
腰が抜けていて行動不能、加えて学生服でどこの学校かバレてしまったことから、警察にパクられ、事情聴取を受けた。
とはいえ、白昼夢の話をするわけにも行かない。そんなことをすれば即刻、病院の精神科送りである。
だから、走太は「好きだった女の子に振られて、死にたい気分だったんです。でも、今は冷静になって、生きてて良かったと思っています」という言い訳で通した。担当の若い男性警察官に、過去の恋愛失敗談を語られ、「一度や二度の失敗で挫けてはいけない」という説教を受けた。走太は終始、真面目っぽく「はい!」「なるほど!」と頷きながらその話を聞いていたが、内心は白昼夢のことで凄く疲れていた。とにかく、早く家に帰って眠りたかった。
男性警察官による、金八先生張りの熱弁を聞き終えたところで、走太の母親が身柄を引き取りに来た。母が口にした第一声は、「いつか何かをやらかすと思っていた」だった。実に酷い母親である。
自宅に着くと、母は「生きろ、このクソガキ!」とだけ言って、久方ぶりの強烈な拳骨をお見舞いしてくれた。それが原因で死ぬんじゃないかと思うくらいに、痛かった。
で、晩飯を食ってから、泥のように眠り、本日に至る。
「しっかし、馬鹿だ馬鹿だとは常々思ってたけど、大通りのど真ん中で座り込む程馬鹿だとは思ってなかったよ、俺も」
と言うのは、一年生の時から同じクラスの、崎原宮治。ツンツンと尖った短髪に、黒縁の丸眼鏡を掛けた、妙にルックスの良い男。走太的には、微塵も気が合うとは思っていないのだが、高校に入学してから誰と話した回数が一番多いかと問われると、わざわざ集計するまでも無く、コイツがトップに君臨するだろう。
宮治曰く、「俺の変人レーダーがお前を感知した」のだそうだ。誰が変人だ、誰が。
「うっせー、馬鹿は馬鹿なりに悩むことがあんの」
走太が教室の机で頬杖を着きながら言うと、昼休みになって空いた前の席に腰掛けている宮治は、手をひらひらとさせる。
「悩んでも馬鹿な結論しか出て来ないぞ、馬鹿なんだから」
「うん。昨日、熱血警察官に人生というものをご教授頂いて、嫌という程学んだ」
もう二度と警察にはパクられまい。
「つーか、お前が悩むことって何? やっぱりあれか? 麗央奈ちゃん?」
声を潜めながら言う宮治。視線を走太達がいる廊下側の席から、窓際の席に移す。
そこには、燃えるような赤毛を頭の後ろで束ねたポニーテールの、一人の少女が座っている。クラスメイトの女子達と楽しそうに談笑する彼女は、紛れも無く、走太のトラウマとなっている幼馴染みと同一人物。
だが、その内面は、小学生の頃に比べて同一人物とは思えない程に様変わりしていた。
高校生になった紅坂麗央奈は、男らしいと言ってもいいくらい、明るく、元気な女の子に成長した。友達の数は多いし、学業優秀、スポーツ万能。特に運動面においては、決まった部活には所属していないものの、その高い身体能力を見込んでの助っ人依頼が絶えない。
スポーツをしている時の麗央奈は、それはもう凛として美しく、格好良いのだとかで、いつか聞いた噂によると、ファンクラブのようなものがあって、麗央奈が助っ人として何かのスポーツ大会に呼ばれる度に、総動員で応援に現れるらしい。
しかし、人気の秘訣はやはり、その外見にあるのだろう。イギリス人だった祖母から受け継ぎ、ハーフの母親以上に色濃く出た、鮮やかな赤毛。日本人らしくも中性的な、整った顔立ち。百七十センチに届こうかという高い身長に、すらりと伸びた長い手足。
いずれにしても、紅坂麗央奈はもはや走太とは住む世界が違う、高嶺の花的存在となったわけである。
走太はモデル体型の幼馴染みを、横目で眺めつつ、溜め息を吐く。
「まぁ、あいつのことは悩んで今更どうなるわけでもないし。今回は別件だよ」
宮治は「やれやれ」と首を横に振る。
「走太がヘタレなのは最初からだから、俺もどうこうしろとは言わないよ」
「つーか宮治。俺は一度として、お前にアイツとの事情を語ったことはないのに、全部知ってるような素振りなのが、凄くムカツクんだけど」
「素振りじゃなくて、全部知ってるんだよ、俺は。何せこう見えて、この学園一の情報屋だからな!」
えっへんと胸を張る宮治。
本当か嘘かは知らないし、興味も無いが、この崎原宮治という男は、この学園内の事情に関してはエキスパートであるらしい。一年も顔を合わせている限りでは、確かに色々なことを知っている。
「走太くん。何なら、君の心に抱える事情ってやつをこの場で話して進ぜようか?」
「やめい。人のトラウマをわざわざ呼び起こすじゃない」
「そうか、残念だ。俺が学園一の情報屋であることを走太に知らしめる良いチャンスだと思ったのに」
「知らなくて結構」
「しかしあれだ。そこまで酷いトラウマなのに、麗央奈ちゃんと同じ高校に進学するお前も凄いよな」
「好きで同じ高校に入ったわけじゃねぇ。……つーか、この話、前にもしなかったっけ?」
走太は一年とちょっと前、中学三年生の時、麗央奈と同じ高校に入るのを避けるべく意識した上で、受験をした。
麗央奈は地元にある、レベルの高い県立の進学校を第一志望で受験すると聞いていたから、走太はそこそこなレベルの進学校で、地元の隣街にある、この『私立御門学園』を受験したのだ。
が、結果はどうか。麗央奈はまさかの同じ高校に進学した。理由も事情も全く分からない。知れるものなら、走太も知りたい。
しかし、小学校の一件以来、家が隣であるにも関わらず、まともな会話など一度として交わしたことが無いのに、「やあ麗央奈! なんで御門学園に進学したんだい?」などと訊けるはずが無い。
おまけに、同じ高校どころか、二年連続で同じクラス。小学校から数えて、通算十一年同じクラスという快挙である。腐れ縁というものは間違いなく存在していると思う。
「そんなこと言っちゃって。走太だって心の底では嬉しいんじゃねぇの?」
「嬉しい?」
「麗央奈ちゃんがさ、同じ高校に進学したこと」
「……」
そういう気持ちが無いと言ったら嘘になる。
「俺はどうこうしろとは言わないけどさ。ただ、一つだけ忠告しておくと、麗央奈ちゃんを狙っている男子は腐る程いる。事実、これまで数え切れぬ戦士達が麗央奈姫に交際を申し出て、無残に敗北を繰り返して来た。だが、それもいつまで続くかどうか」
「何が言いたい」
「別に? ただ、いつか後悔しても知らないぞって話」
「あのな……」
後ろ頭を掻く走太。
「――俺が今更、どの面下げてアイツにそんなことを言えってんだ」
謝るどころか、一言の言葉を交わす勇気さえも無いというのに。
と、そこで宮治との会話が途切れる。
「宮治?」
見れば、彼は何やら驚いた表情を浮かべている。普段ポーカーフェイスを浮かべていることが多い宮治にしては、珍しい表情だ。
すぐに走太は、彼の視線が自分の背後に向けられていることに気付く。
走太がその視線の先を追う前に、背後から声を掛けられた。
「走太」
「え?」
振り返って、
――どくん。
走太はその鼓動を最後にして、自分の心臓が止まってしまうかと思った。
赤毛の幼馴染み、紅坂麗央奈がそこに立っていた。
彼女と目が合う。
(え? 何? 麗央奈に名前呼ばれた俺?)
思わず耳を疑ってしまう。何かの間違いではないかと疑う。
だって、麗央奈が自分に話し掛けて来たことは、小学校以来一度だってありはしないのだから。
けれど、彼女の瞳には今、確かに自分の姿が映っている。
走太の思考が混迷を極めて行く中、麗央奈は言った。
「付き合って」
走太は目を瞬かせる。
数秒の間、顎に手を添えて色々考えて、やがて首を傾げた。
「何これ? 白昼夢?」
「え?」
それが、小学校以来久方ぶりに走太と麗央奈が交わした、言葉のやり取りであった。
走太は激しく動揺していた。
場所は私立御門学園校舎の屋上。昼休みとあって、どこからか生徒達の談笑の声が聞こえて来ているが、屋上に人影はない。
居るのは、走太と、紅坂麗央奈の二人だけである。
背中を向けた麗央奈の赤い髪が、五月の風に揺れる。空の青とのコントラストが綺麗である。それはそれとして。
(なんでこんなことに? なんで麗央奈が俺に話し掛けて来たんだ? 俺何かしたっけ?)
走太の頭の中では、ぐるぐると思考が回転し続けている。
少なくとも、ここ最近に麗央奈との接点は無いはず。分からん。何だ?
「走太」
「は、はいぃ!」
名前を呼ばれて、電気が走ったかのように背筋が伸びた。
麗央奈が走太の方に向き直る。
真正面から見られて、走太はドキッとしてしまう。中学、高校と、麗央奈をここまで間近で見た機会は無かった。なんとまぁ、整った顔立ちだろうか。男子から人気があるのも頷ける。つーか、頭小さっ! 腰の位置高っ!
走太は麗央奈に、じーっと顔を見つめられる。
やがて、彼女は口を開いた。
「走太、昨日、巨大ロボットと怪物を見なかった?」
「え!? 何でそれを……!」
「やっぱり」
彼女は左手を顔の高さくらいまで上げて、指パッチンのポーズを取る。
「麗央奈?」
「走太に会って、そのことについて話をしたいっていう人がいるの」
「ちょっと待て! なんで麗央奈がロボットと怪獣のことを知って――」
走太が言い切る前に、麗央奈は、パチンッと軽快に指を弾く。
その瞬間、走太は今度こそはっきりと目視した。
空の色が、一瞬で青から灰色に変化するのを。
「なっ……!」
先程まで聞こえていた生徒達の談笑はすっぱりと消え、頭上で輝きを放っていた太陽も消え、雲一つ無く澄んでいるのに、どんよりとした灰色の空が広がっている世界。
それは昨日、赤い重火力型ロボットと異形生物が、世界の終末チックなバトルを繰り広げていたあの世界に他ならない。
「ま……まさかのデイドリームアゲイン……!」
白昼夢の再来である。
「その『デイドリーム』って表現は面白いね」
麗央奈の声では無かった。見知らぬ男性の声。
赤毛の幼馴染みは俺の斜め前に立ち、声の主の方へ視線を向けている。
灰色の空をバックにして、屋上の手摺りに一人の男が持たれかかっていた。青色の空が広がる現実世界では、誰も居なかったはずのその位置に。
やたら目の細い男は、何とも爽やかな微笑みを浮かべて言った。
「やあ、こんにちは。小林走太くん、でいいんだよね?」
「え? あ、ああ、はい」
走太はこくこくと頷く。
細目の男は御門学園の制服を着ていた。ということは、この学園の生徒なのだろうか。明るく長めの髪を白いヘアバンドで束ねて、右肩に流しており、身長は百八十五センチくらいある。走太の身長が百七十センチジャストであるから、相当に高い。その細い目を見開くと、実は相当なビジュアル系なのではなかろうか、と走太は思った。
「うん、いきなりだと戸惑っちゃうよね。僕から自己紹介させて頂くよ。僕の名前は、神谷源平。この御門学園の三年生で、ロボット部という部活の部長をやってます。どうぞよろしくね、小林くん」
どうやら先輩であったらしい。源平は走太の前まで来ると、にこっと細い目を更に細くしながら、握手を求めて来る。
特に断る理由も無いので、流されるまま、走太は源平と握手を交わす。
「ど、どうも。それで、あの……」
「うん。小林くんは今、僕や紅坂に聞きたいことが山程あるはずだよね。例えば、この灰色の空が広がる世界のこととか。そうだねぇ、まずは何から話したものか……」
顎を擦りながら、首を捻る源平。
しばらくしてから、源平は右手の人差し指を立てて、言った。
「うん、決めた! あれだ。君が昨日目撃した、巨大な怪物についてから話そう」
「は? はあ」
「あれはね、僕達は『次元獣』と呼んでいる」
「じ、じげんじゅー?」
「二次元とか、三次元とかの次元に、ケモノって書いて『次元獣』。小林くんはひょっとしたら、昨日のことは自分の頭がおかしくなって見た、幻覚か何かと思っているかもしれないけれど、あの怪物も、それと戦っていたロボットも、全て現実だってことをまず、認識して欲しい。その上で『次元獣』のことを話すけど、あれは――」
そこで源平の細い目が開かれる。
「僕達人類の敵だ」
この人、目を開いたらやっぱりイケメンである。
それはともかくとして。
「えっ、敵って? 冗談とかじゃ……なくて?」
「至って大真面目だよ。『次元獣』っていうのは、別次元の世界からやって来る、高位情報生命体。その行動目的は、自分の存在より低い位置にある情報を、自分の身体の一部として取り入れることにある……っていうのが、今まで世界を守って来た先輩達の談。つまりは、世界を喰う化け物ってことさ。君も目の前で見たかもしれないけど、あれを放って置けば、大変なことになる」
言っている意味は全然理解出来ないが、大変なことになるというのはよく分かった。
なにせ、走太は昨日、目の前であの怪物を見た。街が破壊される光景も。
思い返して、走太は背筋が寒くなる。
「えっと……神谷先輩」
「なんだい、小林くん」
「だ、だったら、この灰色の空が広がっている世界は、何なんです? 俺が普段居る世界とは……違うんですか?」
「そうだね。同じコインの表と裏って感じかな。これも僕達が勝手に付けた名称だけど、『中間世界』って呼んでる。姿形はまるっきり現実世界と一緒。だけど、この世界には、僕達以外に生命体は存在していない。……ほら、さっき、次元獣は別次元の世界からやって来るって話をしただろう?」
「は、はい」
「この世界は、僕達の住む現実世界と、次元獣がやって来る別次元の世界を繋ぐ、狭間の世界なのさ。だから、僕達は『中間世界』っていう名前を付けた」
「中間世界……」
「次元獣は、僕達が住む現実世界に向かう際に、必ずこの世界を通過しなければならない。言い換えれば、この世界で次元獣の侵攻を阻止することが出来れば、現実世界に影響は出ない。じゃあ、君が昨日見た二体のロボットは果たして何だったのか」
「その口ぶりからすると、まさか、次元獣と戦う為の兵器……ってことですか?」
「正解。ここまで話せば、少しは概要が掴めて来たんじゃないかな」
「つまり、昨日俺が遭遇した非現実的な出来事は、実際にあったことで、次元と次元の狭間に存在する『中間世界』で、現実世界に侵攻しようとする次元獣と、それを阻止すべく動いていたロボットとの戦いに巻き込まれた……ってことですか? 冗談でしょ? 冗談ですよね?」
走太は顔の筋肉をひくつかせながら問うが、源平は再び目を細めて、爽やかな笑顔を浮かべる。
「丁寧な説明をありがとう。でも残念ながら、全部本当のことなんだよ、小林くん」
「だってだって、あり得ないでしょ! どこのロボットアニメの設定ですか!? 巨大人型兵器とか、実際にあったらロボットオタクが泣いて喜びますよ!」
「否定したいのは分かるよ。普通の人の反応だろうしね、それが。でも、小林くんは実際に今、その『中間世界』を目の前にしているだろう?」
「うぐっ……!」
そんなことは分かっている。太陽もないのに一定の光量を保ち、雲一つ無く、どんよりとした灰色の空が広がっている世界に、走太は立っている。否定したいのに出来ない状況が、今目の前にある。
「僕達としては、小林くんに是非信じて貰いたいところだね。その為にこうして、紅坂に頼んで、連れて来て貰ったわけだし。せっかくだから、もう一つの証拠も見せようか」
「ま、まさか……」
「うん。そのロボットオタクが泣いて喜ぶ実物を」
源平は麗央奈に「頼めるかな、紅坂」と合図を送る。
麗央奈は頷き、走太は一瞥した後、左手を天に掲げ、叫ぶ。
「レッドラスッ!」
直後、学園の校庭側にある空間が唸りを上げ、ガラスを砕くように大きく割れた。
昨日、黒いロボットが現れた時に見た、三次元の世界が平面的に割れる、アレだ。
空間の割れ目から出て来たのは巨大な二本の腕。空間の割れ目の両端を掴み、更に砕きながら、腕から肩、続いて足と、その全貌を露にしてゆく。
やがて、走太達の前に現れたのは、全身に分厚いアーマーを装備し、両肩にキャノン砲を背負った、全身レッドカラーの重火力型ロボット。全長およそ二十メートル。
間違いない。走太が昨日見た、赤い巨大人型ロボットである。
走太はそこでふと思い出す。昨日、赤いロボットから聞こえた声を。
「麗央奈……お前……」
幼馴染みの少女は、走太と目を合わせる。
黒く、綺麗な瞳。表情はどことなく真剣で、どことなく走太の反応を窺っているようにも見える。
とはいえ、走太は何と答えたらいいか分からない。
「紹介するよ」
源平は手の平で、麗央奈と赤いロボットの存在を示しながら、
「次元獣と戦う、巨大人型兵器『ゲートキーパー』の『レッドラス』と、そのパイロット、『キーパーマスター』の『紅坂麗央奈』。昨日、君が見ている中で、次元獣と戦っていたのは、彼女だよ」
「麗央奈が……巨大ロボットのパイロット……!?」
走太が視線をやると、麗央奈はこくりと頷く。
一方の源平は、更に説明を続ける。
「ゲートキーパーは、その名の通り、『門番』という意味。中間世界から現実世界へと続く、『次元の門』を守っている。しかし、ゲートキーパーがその力を発揮するには、選ばれた人間『キーパーマスター』が、パイロットとして中に乗り込まなければならない。そして――」
源平が走太を見た。見開いた、その双眸で。
「――キーパーマスターだけが、この中間世界の中に入ることが出来る」
「……へ?」
走太はあんぐりと口を開けた。
源平は、にこっと笑顔を作る。
「違う言い方をしようか。僕も紅坂と同じ、キーパーマスターなんだ。もちろん、ゲートキーパーをこの場に呼び寄せることも出来る」
「な、なるほど!」
走太はポンと手を叩き、
「もう一体の黒いロボットは、神谷先輩が操っていたわけですね!? いやー、あの時は命を救って頂き、どうもありがとうございました! 今度どこかで飯でも奢らせて下さい! そうだ先輩、そろそろお昼休みも終わる頃でしょうし、俺は現実世界に戻ってもいいですかね!?」
「うん、いいよ。その代わり、一つだけ些細なお願いを聞いてくれないかな?」
「何ですか!?」
「この場で一言、大声で叫んで欲しいんだ。『シラシオン』って」
「謹んで遠慮させて頂きますっっっ!」
走太は首がもげそうなくらい、ぶんぶんと激しく横に振った。
「えー、なんでー?」
「実は俺、今日、喉を痛めてるんです! 大声でなんて叫べません!」
「いいじゃなーい、そこをなんとか頼むよ小林くーん。たった五文字じゃないか、シラシオンって」
「先輩、改めて聞くと、結構良い声してますね! アニメの声優とかいけるんじゃないですか!? 絶対人気出ますよ、ロボットアニメの主人公役とかで!」
「え? マジで? そう思う?」
「思います思います! 絶対行けますって! 先輩が叫んだ方が、俺なんかよりも数百倍格好良いですよ!」
「マジでかー。小林くんに言われると、何だか本当に声優になれそうな気がして来たよ。あっ、ちなみに僕のゲートキーパーは、『ブラックテイラー』って名前なんだけどね。格好良いと思わない? 響きが良いよね、ブラックテイラー」
「はい! 良いっすねブラックテイラー! じゃあもう、空に向かって腹の底から叫んじゃって下さいよ! ブラックテイラァ――ッ! って!」
「うん、とっても素敵な大声をありがとう、小林くん」
何故かそこで、とても爽やかな笑顔を浮かべる源平。
「へ?」
走太の背後で、ガラスの破砕音が響き、振り返る。
校庭とは正反対、校舎裏の方向。そこの空間が割れ、中から巨大な顔が飛び出ていた。黒いヘルメットに、銀色のマスク、黄色く輝く二つのアイカメラ。あれ、おかしいな。どこかで見たことあるぞコレ。
ズバキャアッ! と甲高い音と共に、一気に割れ目を広げ、ソレは全身を外に出す。
流れるような漆黒のボディー。特徴的な長い尻尾。忘れるはずがない。
「……ああ、ブラック(黒)とテイル(尻尾)で、『ブラックテイラー』なのね」
果たして、昨日走太の命を救った漆黒のゲートキーパーは、彼を見ながら、嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振っていたのだった。
源平はにこにこと笑顔を浮かべつつ、魂が抜けたようにその場に立ち尽くす走太の肩に手を置いて、言った。
「そんなわけで、ようこそ新たなキーパーマスターくん」
「……うそーん」
「ちなみに、『シラシオン』は僕のゲートキーパーの名前なんだ(笑)」
「鬼や! この人、鬼や!」
細目だけに、この神谷源平はという男は、とんでもない狐であるらしかった。
その後、走太は中間世界から解放されて、午後の授業を無事に受けることが出来たのだが、授業の内容なんて、さっぱり頭に入って来なかった。
崎原宮治が、HR前に「で? どうだったのよ、昼休みは。麗央奈ちゃんと何か進展はあったのかい? うひひ」とさも楽しげに聞いて来やがったので、「違う方面で進展があった。今すぐ大通りのど真ん中に行って、座り込みたい気分だよ」と答えた。
俺が余程思い詰めているように見えたのか、宮治は目を丸くして、
「せ、先生ぇぇぇ! 小林くんがヤバイです! 今すぐ医者を! ここに医者をぉぉぉ!」
と騒ぎ立てた。
その結果、病院の精神科送りは逃れたものの、HR後に職員室に呼ばれ、数時間に及ぶ説教を受けた。
「どうしてだ小林! なんでまた、大通りのど真ん中で座り込む気になったんだお前は!?」
「はぁ……その……ちょっと、色恋沙汰で悩んでまして……」
次元獣やら中間世界やらゲートーキーパーやらの話をすれば、即刻病院送りなので、走太はまたしても恋愛関係の悩みにすり替えて、誤魔化すしか方法が思い浮かばない。
「分かる! 分かるぞ小林! 先生も昔はだな――」
説教というより、先生が過去に経験した恋愛の話がほとんどだった。まさかのデジャヴである。
(それはもう、ええっちゅうねん!)
内心ではうんざりしていたが、相手が先生なので、走太は真面目っぽい面持ちで話を聞き続けるしかなかった。
職員室の時計の針が午後の五時を指し示したところで、先生は席を立ち、「おっと、もうこんな時間か。いいか、小林。恋愛とは、まさに失恋する為にあると言っても過言ではないんだ。お前は生きて、もっと多くの恋愛を経験しろ。そうすればいつか、先生みたいに素敵な奥さんと巡り会うことが出来る! うはは! それじゃあな小林! 可愛いマイハニーと外で食事する約束をしているので、失礼するよ!」と言って、手早く荷物をまとめ、去って行った。
「慰めたいのか自慢したいのか、どっちなんだ先生……」
走太的には無駄に心が傷付いた気がする。……くそっ、いいなぁ、奥さんとラブラブで。
「ああもう! 帰るぞ、俺も! 帰って今日も、さっさと寝ちまおう!」
一睡すれば、精神も少しは回復するだろう。
スクールバッグを手に持ち、職員室の出入り口に向かい、「失礼しましたー」と言いながら、扉を開ける。
廊下に出て、昇降口の方へ向かおうとしたところで、走太はぎょっとした。
職員室の出入り口のすぐ横に、予想外の人物が立っていたからだ。それは――
「れ……麗央奈」
外から差し込む夕日に、その赤毛を一層赤く煌かせながら、廊下の壁に背中を預けている幼馴染み。
走太に並ぼうかという高身長の少女は、壁から背を離すと、彼の前に立った。
眉根に皺を寄せ、強張った表情は、何だか怒っているように見えた。
走太はごくりと喉を鳴らし、退け腰で尋ねる。
「ど、どうしてここに?」
すると、麗央奈は何やら口元をもごもごさせる。
「そ……」
「……そ?」
走太が恐る恐る訊き返すと、彼女は一度深呼吸。それでもなお言い辛そうにしながら、おぼつかない口調で、小さく呟いた。
「走太を……待ってた」
麗央奈はあれから、何も喋らない。
ただ、走太の前を歩き、帰路を辿って行くだけである。
御門学園のある御門市から地元に向かう電車の中でも、隣の吊り革に掴まっている幼馴染みは、眉根に皺を寄せたまま何も言わなかった。走太はヘタレなので、話題の一つも振ることが出来ない。気まずいったらありゃしない。
走太は今日まで、もしも彼女とブッキングしたら、こういう雰囲気になることが予測出来ていた為、意図的に帰宅時間をずらして来た。麗央奈は学校に用事がある場合が多く、帰宅時間が遅い傾向にあったので、走太は特に寄り道もせず、真っ直ぐに帰宅することが多かった。走太がどの部活動にも所属していない理由の一つが、これである。
また、朝の登校時はどうしているのかというと、走太はやや早起きをして、麗央奈よりも一本早い電車に乗っていた。それでも過去に一度、ブッキングし掛けたことがあったが、別車両に乗って、上手く回避した。
それがまさか、隣の吊り革に掴まるまでに接近する日が来ようとは。
どうしようもない気まずさを抱えたまま、電車を降り、走太達が生まれてから十七年間暮らしている地元に着く。
麗央奈は振り返ることなく、前を歩いて行く。
走太と麗央奈の家は、駅から歩いて十分くらいのところにあるのだが、麗央奈は特に寄り道をする様子も無く、最短ルートを突き進んで行く。
(それにしても、麗央奈はなんで俺を待ってたんだ?)
次元獣やらゲートキーパーの関係で、何か話があるのではないのか。しかし、学校からここまで、それらしき素振りは一切無い。
(なんか怒ってるっぽい雰囲気だし。嫌だなぁ……話し掛けるの)
我ながら情けないと思う走太だが、冷静に考えて、今日のお昼休みまで、麗央奈とは十年以上まともに会話すらしていなかったのである。いきなりこんな状況に置かれても、何をどう喋ったらいいのか、全くもって分からない。
(でも、待てよ……)
至って真面目に、次元獣やゲートキーパーについての質問をぶつけてみたらどうだろうか。
自分は、それらについては正真正銘の初心者なのだから、疑問を持つのは至って普通のことである。自分がキーパーマスターという存在であることを認めたわけではないし、認めたくもないが、麗央奈との差し障りのない話題としては打って付けである。
(よ、よし……質問しよう。質問するぞ! 質問しろよ俺ぇぇぇ!)
走太は心臓をばっくんばっくん言わせながら、何度か喉から出し掛けて飲み込み、両手でバシバシと頬が痛くなるくらい叩いてから、口にする。
「れ、麗央奈!」
彼女の肩が大きく揺れる。険しい表情が、走太の方を向いた。
「……な、なに?」
「俺! どうしても麗央奈に訊きたいことがあるんだけど! 訊いてもいいか!?」
「き、訊きたいこと?」
眉根の皺の本数が一気に増える。
走太は両手の拳をぐっと握り、言った。
「ゲートキーパーの必殺技発動の時に叫んでたけど、あれって音声認識なのかっ!?」
「え」
鈍い反応を返す麗央奈に、走太は全身から、ぶわっと冷や汗が噴き出した。
(あれ? あれぇぇぇ!? 俺、よりによってなんでこんなマニアックな質問をぉぉぉ!? もっと普通の疑問をぶつけるはずだったのにぃぃぃ!)
緊張し過ぎて、走太が心に押し込めていたはずのオタク根性が顔を出してしまったのか。
(終わった……! これは終わった……!)
麗央奈はこれで更に機嫌を悪くすることだろう。まさに逆効果。救いようが無い。
走太はがっくりと項垂れる。
「……あー、麗央奈。今のはあれだ。若さ故の過ちというか、どうか、記憶から削除して頂けると――」
「うん、音声認識だよ」
「そうか、音声認識なのか……って、マジでぇぇぇ!?」
思わず顔を上げて、叫んでしまった。
「ひゃっ!?」
驚き、目を丸くする麗央奈。
興奮冷めやらぬ走太は、麗央奈の肩を掴み、更に問う。
「音声認識って、声でロボットに指示を出すってことだぞ!? 間違いないのか!?」
「ま、間違いないと思う。ゲートキーパーは乗り込んだキーパーマスターの意思を読み取って細かい動作をするから、必殺技の時は技名を叫んで、頭の中を必殺技のイメージで一杯にしないと、上手く動作してくれないっていうか」
「マジでか! かっけぇ! ということは、俺もあのブラックテイラーってロボットに乗ったら、必殺技を叫ばなくちゃいけないんだな!? うおぉぉぉ、いかん、無性にテンション上がって来た!」
「う、うん、そうだね……」
キーパーマスターにはなりたくないが、ゲートキーパーには乗ってみたくなった。なにせ、音声認識である。完全にロボットアニメの世界だ。
そういえば、ゲートキーパーのコクピットはどんな感じなのだろう。音声認識が必要なコクピットは、操縦桿を握れば、後はパイロットの意思で動く、スタイリッシュなタイプなのかもしれない。どこかの汎用人型決戦兵器みたいな感じで。
「って、あ……」
そこで、はっと我に返る走太。
自分がとんでもない失態をやらかしていることに気付く。己の腕を見れば、麗央奈の肩をがっしりと掴んでおり、己の発言を振り返れば、完全に趣味の領域に突入している。
(あれれ? なんかもう、色々と取り返しが付かなくなってる気がするよ?)
だらだらと全身から冷や汗が流れる。
麗央奈は怒っているのか、俯いて肩を震わせている。
走太は慌てて、両手を離した。
「す、すまん! テンションが上がってつい! こんな話されてもつまらないし、全然面白くないよな! 本当、なんつーか、ゴメン!」
頭を下げる以外に今の状況を取り繕う方法が見つからなかったので、とにかく頭を下げる。
ふと、走太は重大な一つの事実に気付く。
(ちょっと待て。俺、今、麗央奈に謝れた……?)
ごく自然に。十一年もの間、会話の一つも出来やしなかったのに。
(俺……謝れるのか……?)
「ち、違うの!」
「え?」
麗央奈の大声に頭を上げる。
彼女は俯いたまま、喉から絞り出すように言葉を発する。
「走太の話が、つまらないとか、そういうんじゃなくて……ただ、その……走太と、こんなに話すのが、久しぶり過ぎて……何をどう、言ったらいいのか、どんな話をしたらいいのか、どんな顔をしたらいいのか、全く分からなくて……私……」
「え? ええ?」
そっと、麗央奈が顔を上げる。
麗央奈の顔は、夕日の朱色の中でも分かる程に、真っ赤に染まっていた。
眉根に皺を寄せ、涙を目尻に浮かべながら、強張った表情で、肩を震わせながら。
(そうか……麗央奈、怒ってたわけじゃないんだ……)
本当は違ったのだ。
走太が勝手に、怒っていると思い込んでいただけで。
「……お、俺も」
「え?」
「俺もなんだ、実は……」
どうにも緊張してしまって、走太は麗央奈の目を見れないながらも、言葉を続ける。
「ほら、今日までずっと、会話とか一度もして来なかっただろ。だから、俺も、麗央奈に全然話題が振れなくて。麗央奈、ずっと眉根に皺を寄せてるから、凄く不機嫌そうに見えて、さ」
「ふ、不機嫌になんて、なるわけない!」
声を張り上げる赤毛の幼馴染みに、走太は驚く。
「れ、麗央奈?」
「あ……ごめん、走太。でも、あのね、私は……走太と一緒に並んで、こうやって帰れて、嬉しいと思うことはあっても、不機嫌になることなんて、絶対にない……! だって、私はずっと――」
麗央奈は潤んだ瞳で、真っ直ぐに走太の目を見て、言った。
「走太とこうして、一緒に帰りたいって思ってたから……!」
「くぁwせdrftgyふじこlp!?」
瞬間、走太の心臓を鋼鉄の弾丸で打ち抜かれたような衝撃が駆け抜け、発音の難しい奇声を上げながら、仰向けに地面へと倒れた。
「ちょっ、走太!? いきなりどうしたの、大丈夫!?」
「き、気にするな、麗央奈……男という生き物は皆、いつだって胸に一発の弾丸を抱えているものさ」
「なんというか……本当に大丈夫!?」
その後、走太は麗央奈に手伝って貰い、なんとか起き上がる。
変な間が空いてしまったせいか、麗央奈は再び黙り込んでしまい、時折ちらちらと走太の様子を窺いながら、その柔らかそうなポニーテールの先っぽを掴んで、いじいじと人差し指に巻き付けたりしている。
埒があかないので、走太の方から麗央奈に話し掛けてみる。
「あの、麗央奈」
「な、なにかな!?」
「このまま突っ立ってるのも何だし、歩きながら話すか」
「う、うんうん! そうしよう! そうしたい!」
ぶんぶんと麗央奈は激しく頷き、二人で並んで、帰路をまた歩き出す。
「麗央奈はさ」
「う、うん」
「いつからあの赤いロボット……えーっと、なんて名前だっけ」
「レッドラス?」
「そう、そのゲートキーパーに乗って、戦うようになったんだ?」
「今年の初め、一年の三学期が始まって、すぐくらいかな。走太と同じように、中間世界に引き込まれたところで、レッドラスが現れて。そのまま乗り込んで、神谷先輩と一緒に次元獣を倒したのが始まりで」
「そっか……格好良いよな、あのレッドラスってゲートキーパー。歩く武器庫って感じでさ」
「走太は……ロボットアニメとか、好きなの?」
「今更隠しても遅いから話すと、中学時代に、友達に薦められたロボットアニメが滅茶苦茶面白くてさ。それから、古いのも新しいのも全部チェックするようになって。クラスの連中には恥ずかしくて言えないけど、部屋には結構、ロボットのフィギュアとかもあったりして……はは」
「ふ、ふぅん。走太の部屋って今、そんな感じなんだ……」
「お恥ずかしい限りで……」
「こ、ここ、今度」
「うん?」
麗央奈の声が変なので、横を歩いている彼女を見やる。
なにやら緊張した面持ちで、口をぱくぱくさせている。
「その……久しぶりに……そ、走太の部屋に、遊びに行っちゃ……だ、駄目かな?」
「な、なんだってぇぇぇ――っっっ!?」
ピシャアァァァンッッッ! と走太は、自身の心の中で雷の落ちる音を聞いた。
麗央奈は赤い頬で、手を激しく横に振る。
「あ、いや、その、深い意味はあるというか! キーパーマスター同士の会議がしたいとか、そういうわけじゃなくて、ただ単に、走太の部屋に入りたいってだけで……!」
「ちょっ……麗央奈さん!? 隠せてないよ! 本音が駄々漏れになってるよ!」
「え? ええっ!?」
彼女は黒い瞳をぱちくりさせ、やがて、自らの発言を振り返って状況を理解したのか、みるみる顔を赤く染め、
「ぎゃ――っ!」
恥ずかしさのあまりか、彼女は両手で顔を隠し、凄まじい速さで走り出した。
「麗央奈さん速っ! さすが運動部が助っ人を頼みに来るだけはあるよ! でもちょっと待ってストォォォップ! 麗央奈さん、前! 前!」
ドゴスッ!
「はうあっ!?」
壮絶な音を立てて、麗央奈さんは目の前の電柱に激突。反作用で後方に吹っ飛ばされて、仰向けに転倒する。
「麗央奈さぁぁぁ――んッ!?」
慌てて彼女の元へ駆け寄る走太。
おでこを赤くしながらも、麗央奈は未だ顔を隠したままだった。今にも死にそうな声で、彼女は言う。
「えうっ……ぐすっ……本音がバレてしまったので、走太の部屋に行くのは諦めます……」
「いや、来ていいから別に! そこまで思い詰めるくらいなら、俺の部屋なんか幾らでも遊びに来ていいから!」
「……本当に?」
「もちろん!」
「……毎日でも?」
「え? いや、毎日はちょっと……」
「えうっ……ぐすっ……」
「ええーっ!? そこで泣く!?」
兎にも角にも、走太が「あーもう、望むところだ! 毎日上等! ばっち来いやぁ!」と言ったら、麗央奈は泣き止んだ。……さすがに本当に毎日来られたら困るけども。
(しっかし、麗央奈って以外と、昔と変わってない……?)
泣き止みはしたものの、電柱の横で膝を抱えて、「恥ずかしくて立てません。というか、もう生きて行けません……」といじける麗央奈は、普段学校で見ているイメージとはまるで別人だった。弱々しくて、昔の麗央奈っぽい。
(男っぽくなったと思ってたけど、女の子なんだな、やっぱり)
と、背中でもぞもぞと麗央奈が動く。
走太は先程の電柱の所から、麗央奈を負ぶさって、帰路を歩いていた。そうでもしないと、麗央奈はいつまで経っても、あの場を動こうとしなかったからである。
「……ごめんね、走太」
不意に、背中の麗央奈がそう口にした。
「え? ああ、いや……謝らなくてもいいよ、別に」
「その……つい取り乱しちゃって……ごめん」
「俺だって、その前にテンション上がって、変なところ見せたろ。だから、別に……驚きはしたけど、気にしなくてもいいよ」
「うん……」
「しかし……あれだな」
「うん?」
「なんつーか、一度話し始めると、意外と喋れるもんだな。十一年経っても」
「……そうだね」
「あのさ、麗央奈。俺……」
走太はなんとなく、今なら言える気がした。
昔、彼女を見捨てて逃げたことを、謝れそうな気がした。
「その……」
背中に、暖かさと重みを感じながら。自分の心臓が高鳴るのを覚えながら。
「昨日は……ありがとな」
「え?」
「次元獣から、助けてくれただろ。そういえばまだ、お礼を言ってなかったな、って思って」
――でも、走太は言えなかった。胸の奥にあるつっかえ棒が邪魔をして、謝ることが出来なかった。
まだ、走太は怖い。謝罪を言葉にした時にするであろう、麗央奈の反応が、表情が、とても怖い。
だから、走太は、差し障りの無い「ありがとう」に、言葉をすり替えた。今はこれが限界だった。
走太の首筋に、なにか温かなものが落ちる。
「麗央奈?」
走太が横目で彼女の様子を窺う。彼女は走太の背中に顔を埋め、表情を知ることは出来ない。
だが、彼女の息遣いで分かった。
紅坂麗央奈は、泣いていた。
ぎゅっと、走太の制服が掴まれる。
走太は、前を向いて、黙って歩き続けることにした。
麗央奈が本気で泣いているのが分かったからだった。
家に着くまでに泣き止みそうにないので、その日は少しだけ遠回りをして帰った。
やがて、麗央奈の家の前に着く。
走太はゆっくりと彼女を背中から下ろした。
「家まで負ぶってくれて、その……ありがとう、走太」
「それよりも、もう大丈夫なのか? 一人で歩けるか?」
「うん、大丈夫。もう泣かない」
そう言って、麗央奈は頷いてみせる。
スクールバッグを持ち、彼女は家の外門に手を掛ける。
「じゃあ、私、入るね」
「おう。じゃあな」
走太は軽く手を振って、隣の自宅に向かう。
「あ、待って、走太」
「ん?」
足を止めて振り返る。
麗央奈はなにやら顔を赤くし、ポニーテールの先端を指で弄びながら、
「その……あ、朝も……!」
「朝?」
「明日の朝も……走太と一緒に学校に……い、行っていいですか!?」
上目遣いでそんなことを言う。
果たして、これを断れる男がこの世にいるだろうか。少なくとも、凡人を自称する走太には、不可能である。
「わ、分かった」
こくこくと頷く走太。
麗央奈は、ぱぁっと花咲くように微笑んだ。
「うん!」
彼女はそこでようやく、学校で見る元気な姿を見せ、「じゃあ、また明日ね、走太!」と手を振って、家の中へと入って行く。
走太はそれを見届けてから、自宅の中に入り、玄関の扉を閉め、寄り掛かって、火照った顔を両手で必死に仰いだ。
「あの笑顔は……反則だろ……」
一方、私立御門学園の生徒会室。
すっかり日も暮れて、暗くなった室内で、一人の女子生徒が腕を組み、パソコンの画面と睨めっこしていた。
腰まで伸びた黒いロングヘアーに、金フレームの眼鏡。前髪は、これまた金色のカチューシャで留めて、おでこを露出させている。もともと綺麗な顔立ちも相俟って、やたら目を引く外見をした少女だった。
ただし、それも暗い部屋の中では全く意味を成さないが。
「うーむ」
眉根に皺を寄せ、女子生徒が唸っていると、唐突に、ぱっと部屋の明かりが点いた。
「うぉわっ、眩しっ!」
両手を前で交差させ、顔を隠す女子生徒。
生徒会室の出入り口で、電気パネルに触れている細目の男子生徒──神谷源平は、にこっと微笑んだ。
「君のおでこも負けじと眩しいよ、金剛生徒会長」
女子生徒――金剛雅は、先程までとは違う意味で、眉根に皺を寄せる。
「なんだ、お前か、神谷」
「金剛、前から言ってるけど、その電気を点け忘れる癖はどうにかした方がいいよ。そんなんだから目が悪くなったんじゃないの?」
雅は「ふん」と鼻を鳴らす。
「忠告はありがたく受け取っておこう。それで? 何しに来たんだ、お前は。わざわざ私の視力を心配して、はるばる生徒会室まで足を運んで来てくれたのか?」
「まぁ、それも理由の一つと言えば一つだけど、今回はあれだよ。ブラックテイラーのパイロットが見つかったんで、その報告にね」
「小林走太……だったか、二年生の。で、首尾はどんな感じだ」
「紅坂に小林くんを呼んで貰って、中間世界で少し話をした。返事を聞いたわけじゃないけど、多分パイロットとして戦ってくれるんじゃないかなーって、僕は思ってる」
「ほう」
「嫌そうな顔してたけど、結構ノリが良い男子でね。それから、今日知ったんだけど、どうやら紅坂の幼馴染みらしいんだな、これが」
「なるほど。幼馴染みの女の子が戦っているのに、それを見て見ぬフリする男はいないか」
「んー……」
「なんだ、煮え切らない顔だな」
「いや、ちょっとそういうタイプとは違うんだよね、小林くんは。……それはともかくとして、金剛はこんな時間までパソコンと睨めっこして、何をやってたの?」
源平は、会長席の前まで歩いて行く。
雅は「ん」と一枚のプリントを彼に差し出す。
「過去の次元獣出現時刻を記したデータだ。お前はこれを見て、どう思う?」
源平はプリントを一通り眺めた後、わずかに眼を見開いて、
「ふーむ……一ヶ月に出現する次元獣の数の平均は、およそ二体。多い月でも四体。でも今月は、昨日の奴で四体目か」
「にも関わらず、今日はまだ五月の十ニ日。まだ半月も経ってないのに、四体目だ。過去のデータに、こんな頻度で次元獣が出現した月は無い」
「つまり、金剛的には、少しばかり不安ってこと?」
「警戒しとくに越したことは無いってことだ」
椅子を回転させ、背後の窓から夜の闇が下りた御門市を眺める雅。
源平は再びプリントに視線を落とし、顎を擦る。
「でも、ひょっとすると、次元獣の出現頻度が増えたことと、ブラックテイラーが小林くんをパイロットに選んだことは、関係があるのかな? そこら辺どうなんだろう――」
彼は生徒会室入り口の方を振り返りながら、言った。
「自称・学園一の情報屋くん」
扉を開けて、入って来たのは、ツンツンと尖った短髪に、黒縁の丸眼鏡を掛けた、妙にルックスの良い男。
「お呼びですか、神谷先輩?」
「先輩って……実質的な年齢で言ったら、君の方が上じゃないか」
「でも、学年は俺の方が下ですからね。で、何でしたっけ? ブラックテイラーがパイロットを選んだことと、次元獣の出現頻度が増えたことの、因果関係についてでしたっけ?」
「うん、何か知ってるのかなって思ってさ」
「いや、無いですよ。何も無いです。俺は学園の情報屋として、誰よりも次元獣に詳しいと自負してますが、次元獣の出現頻度の高さについては、正直分かりかねます」
「へ? そうなの? じゃあ、なんでブラックテイラーは小林くんを……」
「そんなもん、決まってるじゃないですか――」
生徒会室にあるソファーのところまで歩いて腰掛け、崎原宮治はさも楽しげに言った。
「気紛れですよ。ただの気紛れ」
「それにしても、また明日……か」
こんなにも明日という日が楽しみな夜が、今までに一度でもあっただろうか。
走太は風呂のお湯をプラスチックの桶で掬い、頭から被る。これをもう一度繰り返す。
「ぷはぁー、さて次は、身体を洗いますかね、と」
頭の泡を洗い流したところで、スポンジを手に取り、石鹸で泡立てて、上半身の方から洗って行く。
「ふふん、ふふふん、ふふふんふーん♪」
上機嫌のまま、鼻歌を奏でていると、脱衣場の方から『うわっ……!』という聞き慣れた声がする。
『畳んだ予備のタオルを持って来てみれば、このクソガキ、鼻歌なんか歌ってやがるよ、気持ち悪っ!』
「うるせーよ、母ちゃん。いいだろ別に」
『昨日は自殺を図りやがった癖に、今日は上機嫌って俺の息子に一体何が……!?』
「俺の心は、荒っぽい母ちゃんと違って、とても繊細なんだよ。なにせ俺は父さん似だからね」
『てめぇと走一さんを比べるなんて千年早いわクソガキ。ああ、なんで走一さんみたいな格好良いイケメンじゃなくて、こんな冴えない顔のヘタレが産まれて来たのか』
「母ちゃんのDNAが混じったからじゃね?」
『ああん? 俺のDNAが何だって、このクソ――』
走太の母が言い掛けたところで、脱衣場に別の足音が近付いて来る。
『私の名前が呼ばれた気がしたんだけど、どうかしたのかい?』
『ああん、走一さん! なんでもないの! ただ、走太と仲良くお話してただけ♪』
『はは、相変わらず、拳と走太は仲が良いね。私も見習いたいな』
『そりゃあ、親子ですもの。うふふ』
やがて、猫撫で声と、おとぼけなイケメン声が、脱衣場から遠ざかって行く。
走太はため息を吐いた。
息子と父で、なんという対応の差だろう。一方がクソガキで、一方がさん付けって……。
「まぁ、別にいいけど」
スポンジで下半身も洗い、お湯を被って、泡を流す。
湯船に浸かろうと風呂椅子から立ち上がったところで、走太は違和感に気付いた。
「ん?」
鏡に映った自分の姿への、一瞬の違和感。
改めて正面から鏡を覗き込むが、どこにも異変は無い。
「んん?」
顎を擦ってしばらく考えてから、試しに背中を向けてみる。
「んんん!?」
そうして、違和感の正体が判明する。
「なんだこりゃ……」
走太の尻――更に詳しく言うなら、ちょうど尾てい骨の部分に、黒々とした、紋章のようなものが刻まれていた。