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「バル」

作者: 吉永翼


「バル」



 夏休みがはじまったばかりなのに、もう蝉の声で頭が割れそうだ。僕は玄関で、もう二箇所も穴の開いているサンダルを履いていた。

「勇ちゃん!プールバック忘れとうで!ほんまにもう・・・プール行くのにプールバック忘れてどうすんねん。」

「うん。」

そういって僕は、乱暴な手つきで母の手からプールバックをひったくるようにして受け取った。今日は殊に暑い。昨日も道の向こうが霞んで見えるほどの暑さであったが、今日ほどではなかった。

 水筒の中の塩水をぐいっと一口飲むと、僕は学校のプールに向かって全力疾走した。

 今日も記録は伸びなかった。僕は下から二番目だった。ビリはやっぱりふとっちょの敦だった。ビリと、ビリから二番目には大きな差が開いていた。それが僕の、ちょっとした救いだったのだ。

 今日は、妹の奈津子と一緒に家路へつく。僕は小学校六年生、奈津子は四年生だ。二人で並んで歩く。夕日は後ろにある。奈津子の影のほうが、僕よりちょっと長い。

「わたし、お兄ちゃんの身長追い抜かしたなあ。」

「うるさいわ。」

そういって、また黙々と道を歩き続ける。最近コンクリートで舗装されたのに、全然垢抜けしない田舎の道。この道は、道も田んぼも並ぶ家々も、全部茶色に見える道だ。

「お兄ちゃん、道の脇、ほらあそこ。ダンボール箱あるで。なんやろ。」

「ほんまや。なんやろ。」

そういって、奈津子と一緒に茶色な段ボール箱を覗き込む。一匹の汚い子犬が入っていた。やせていて、目に力がなくて、ヒュンヒュンヒュンヒュン、惨めな声を出している。

「お兄ちゃん、この子犬かわいそうや。持ってかえろうや。」

「あかん。そんなんしたらまたお母ちゃんに怒られるで。」

「でもかわいそうやん。わたし持って帰るわ。お母ちゃんにばれへんようにするもん。」

「あほ。そんなんばれるに決まっとうやろ。ほら、はよ帰らな晩御飯間に合わへんで。」

そういって僕は涙目の妹の手を引っ張り、家に帰ってきた。

「ただいま。」

「ただいまー。」

「えらい遅かったやん。どうしたん。」

「べつに。」

今日の晩御飯も鯨の缶詰だった。僕はこれがだいっきらいだった。食べたくなかった。でも他におかずはない。奈津子も、不味そうな顔をしながらクチャクチャいわして食べている。

「こら奈津子。またクチャクチャ言うとうで。お上品に食べなさい。」

「はあい。」

父は夜中にならないと帰ってこない。僕たちは今日も三人で、缶詰とご飯を食べた。プール帰りの僕には、麦茶が一番美味しかった。

「お兄ちゃん麦茶飲み過ぎやぁ!わたしの分残しといてやぁ。」

「うん。」

その夜はあまりよく眠れなかった。あの汚い子犬が、目を閉じると目の前に現れる。そして、ヒュンヒュンヒュンヒュン喘ぐのだ。ああ、やってられない。あんな汚い子犬、見つけなければよかった。そう思い、目を開ける。そうしているとだんだん眠たくなってくる。また目を閉じる。…子犬が出てくる。

 ああ、どうしてあんな犬見つけてしまったんだろう。鬱陶しい。本当に憎らしい汚い子犬だ。僕は、頭の中で何度もそう呟いた。


 次の日も、やっぱりプールがあった。早く泳げない僕は、何度も何度も補習に呼ばれる。妹もそうだった。僕も奈津子も、クラスの中で前から三番以内に入るほどの小柄な子供だった。二人とも真っ黒に日焼けしていて、ガリガリにやせ細っていた。みっともなかった。だから、みんなからいじめられた。妹は、授業中いつもいじめられた。だから授業のある日はいつもべそをかいて家に帰ってきた。僕もいじめられた。でも一回も泣かなかった。涙は出なかった。涙なんて、出そうと思ったって出るもんじゃない。僕は生まれてから、泣いた記憶が一回もない。母は「勇ちゃんの産声はおっきかってなあ…」と話したことがあるが、それは嘘だろうと思う。僕が大きな声で泣くはずが無い。だって、僕は生まれて一回も泣いた記憶が無いんだから。

 その日も奈津子と一緒に家路についた。

 ダンボールのあったところに近づいてくると、心臓がドクドク鳴る。僕たちは登校のときと下校のとき、違う道を使っていた。だから朝来るとき子犬がどうなっていたのか、僕らは見ていない。

 はたして、段ボール箱はまだそこにあった。妹の小さな手を握り、一緒に中を覗き込む。やっぱりまだいた。こんな汚い子犬、誰も拾うはずがない。誰もこんな犬欲しくないに決まっている。

「お兄ちゃん。持って帰ったろうや。」

「あかんて…」

「なあお兄ちゃんお願いや!お母ちゃんにもちゃんとお願いしようや!なあ!なあ!」そういって奈津子は泣きじゃくった。

「うん。しゃあないなあ。わかった。奈津子もちゃんとお母ちゃんにお願いするんやで。」

「ほんまに?お兄ちゃんありがとう!やったあやったぁ!」奈津子は喜んで、汚い子犬を段ボール箱から引っ張り出した。子犬はだいぶ弱っている。自分で立つ力も殆どなくなっていた。子犬がいなくなった段ボール箱の中を覗いたら、そこには何日も前にされたのであろう糞がいくつか落ちていた。これで、もう何日も糞をしていないのだと分かった。

「なあなあお兄ちゃん!この子の名前、バルでええ?」

「なんでバルやねん。まあええけど。」

「バルがええからバルやねん!」

「わかったわかった。」

家に着いたら、やっぱりすぐに母に見つかった。妹は殴られなかったが、僕は数発母にぶん殴られた。妹が少し憎らしくなった。子犬は、妹よりもっと憎らしく感じた。


 それでも一週間もすると、母親もバルを可愛がっていた。バルは自分で歩けるようになり、だんだん走れるようにまでなってきた。

「お兄ちゃん。もうバル散歩に連れて行ってべっちょないかなぁ。」(※べっちょない=大丈夫)

「うん。もうこんなに元気やったらべっちょないわ。一緒に散歩いこか。」

僕と奈津子は、お小遣いを出し合って買っていた小さな首輪をバルにつけた。出合ったときにはすすけていたバルの茶色が、今ではピカピカした茶色になっている。茶色は茶色でも全然違った。

 それから僕と奈津子は、一日交代で夕方にバルを散歩に連れて行っていた。朝の散歩は面倒くさかったので、勝手に狭い庭で走り回らせていた。

 二ヶ月ほど経ったある日、バルの散歩から帰ってきた奈津子が心配そうにこういった。

「お兄ちゃん。バルしんどいみたいやねん。歩くんいつもより遅いし、またはじめのときみたいにヒュンヒュンゆうとうねん。」

「またすぐ治るやろ。」


 次の日は僕が散歩をさせる日だった。僕はその日、プールのために一人で学校に行った。そしたら帰り道に、隆司と亮太に会った。僕はこの二人に会うと、いつも殴られた。大柄な二人は僕のことを、チビだとか汚いとか言いながらいつも殴った。そういえばこのせりふは、僕がバルを初めてみたときに言ったことと一緒だ。

 殴るだけ殴ると、隆司と亮太は嫌な笑みを浮かべながらどこかへ行ってしまった。やっぱり涙はでなかった。殴られたって涙は出ない。でも、手や膝小僧からは、赤いものがぽたぽたと滴り落ちていた。

 僕は血を拭こうともせずに、そのまま家へ向かって、風を切って走った。痛い。風が傷口にザーッてあたって、すごく痛い。それでも僕は走り続けた。走っていないと、生まれて初めての自分の涙を見てしまうかもしれない。そんな気がしていた。

 家に帰ると、奈津子がバルを抱いて玄関まで出てきた。奈津子は、僕が傷だらけなことにはふれなかった。いつもこうだからだ。ただ、バルを抱いて涙目で言った。

「なあお兄ちゃん。バルほんまにおかしいねん。もう自分で歩かれへんなっともてん。」

「今日は僕が散歩に連れて行く日やろ。お兄ちゃんにバル貸せ。散歩さして元気にしたる。」

「あかんて!散歩なんか連れてったら余計バルひどなってまうもん!」

「うるさい。」

そういって、僕は奈津子の手から弱りきったバルをひったくった。そして無理矢理バルに首輪をつけて、玄関の外に引きずり出した。奈津子は大声をあげてやめてやめてって泣いている。母はまだ帰宅していない。

 玄関を一歩でた途端、来た。夕立だ。しかしぼくには関係なかった。むしろ好都合なぐらいだ。傘もささずに家を出た。さっきから流れている血も、隆司と亮太に吐かれた暴言も、夕立で洗い流したかった。

 弱りきっているバルを無理矢理外に引きずり出した。バルは、弱弱しい足取りで必死に歩こうとしているが、やはり殆ど首輪に引きずられているだけだ。大雨の中、バルを引きずった。雨に打たれて、僕の傷口からの流血は更にひどくなった。

 見ると、毛皮がビショビショになっているバルも流血している。僕が引きずり回したからだ。手足の肉球はもうボロボロになり、歩くどころではなくなっている。でも、そんなこと僕には関係なかった。とにかく、洗い流したかった。チビでやせっぽっちな身体も、今まで幾度となく吐かれてきた暴言も、この血も。

 余りの痛みに、痛みを通り越した。僕は、もう痛みを感じなくなっていた。バルはどうなのだろう。もう全くもって動いていない。ただ、僕に引きずられているだけだ。

 十五分ほど経った。僕は三丁目まで歩いてきていた。いきなり、雨は上がった。美しい晴天が僕らの目の前に広がった。血も止まり、そよそよ吹いてくる風が、傷口を乾かし、治していってくれているようにみえた。

 ---バルは…

「バル!バル!」僕はいきなり大声を出してバルを揺さぶった。バルは泥まみれになり、流血し、生気を失いぺちゃんこになってしまっていた。もう、息をしていない。

 …バルのおなかに触ってみた。まだほのあたたかかった。

 

 雨は上がっている。もう、僕の血もバルの血も止まっている。しかし、滴り落ちてくるものがあった。だんだん冷たくなってゆくバルの小さな前足の上に、ぽとり、ぽとりと僕の涙が落ち始めた。日が落ちて、月が真ん円の空にのぼってくるまで、僕は泣いていた。泣きじゃくった。生まれて初めて、自分の涙を見た。塩辛い。涙って塩辛いんや。僕は初めての自分の涙をなめた。

 バルは元気だったとき、妹が泣いたらその涙をペロペロ舐めていた。妹はそれに慰められていた。バル、僕が殺したバル。僕の涙も舐めて欲しい。

 いつまでも止まらない初めての涙を、バルは一滴も受け止めてくれなかった。

 

 これが、この年の夏の思い出だ。


 僕はバルから、涙という素敵なプレゼントをもらった気がする。


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