1章 第5話
午後八時。モスクワは深い雪に覆われていた。街灯の橙色の光が雪片に反射し、無数の粒子が空中で静かに揺れている。
大学の研究棟の一室で、ミハイル・ヴォルコフはキーボードを打ち続けていた。
一定のリズムで鳴る打鍵音は、研究室に置かれた古い時計の秒針の音と奇妙に同期している。
彼は認知科学・犯罪学部に所属する教授であり、現在は「犯罪者の意思決定プロファイリング」という論文を執筆していた。完成まで、あと一週間ほど。
論文はすでに十九ページを超えている。
思考を文章に変換する作業は疲労を伴うが、同時に快感でもあった。
やがて画面右下に通知が浮かぶ。
学生からのメールだった。
――こんな時間に送信するのは控えてほしいものだ。明日にでも注意しておこう。
そう思いながらも、彼はURLをクリックした。
画面に映し出されたのは速報記事だった。
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【速報】モスクワ中心部の路地裏バーで爆発 負傷者多数
本日午後7時42分頃、モスクワ中心部の繁華街にある路地裏の雪の境界というバーで爆発が発生しました。
警察と救急当局によると、現場には多数の一般市民が居合わせており、少なくとも12人が負傷し、数名が病院に搬送されています。
現時点で死亡者の確認はありませんが、複数の目撃者が「店内に放置されていたバッグが不自然に膨らんでいた」と証言しています。
警察は意図的な爆発物による事件の可能性が高いとして、テロ行為の可能性も視野に入れ捜査を開始しました。
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ミハイルは眉をひそめた。
プロファイリング研究の題材としては興味深いが、あまりに生々しい。
学生には「論文の引用には不向きだ」と返信し、再び作業に戻った。
時計の針が九時を指すころ、彼はようやくキーボードから手を離した。
帰宅準備を整え、研究室の明かりを落とし、廊下へ出る。
研究棟の窓越しに見える雪はさらに激しくなっていた。
冷えた空気が肺に刺さる。
携帯電話を取り出した瞬間、また通知音が鳴った。
先ほどの学生からだ。
――またか。時間という概念が欠如しているのか。
軽く舌打ちしながら、彼はURLを開いた。
その瞬間、喉から短い呻き声が漏れた。
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【続報】繁華街の別の路地で再び爆発 街路樹が吹き飛ぶ
本日午後8時58分頃、先の爆発現場から約1.3km離れた路地で再び爆発が発生しました。
爆発により、星の路地に植えられていた街路樹が地面から2メートル以上吹き飛び、周囲の建物のガラスが破損しています。
目撃者の一人は「地面が不自然に盛り上がっていた」と証言しており、地下に爆発物が設置されていた可能性も指摘されています。
負傷者は現在までに9人確認されており、警察は連続事件の可能性が高いと見て、同一犯による犯行かどうかを調査中です。
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偶然であってほしい。
だが、条件があまりにも一致しすぎている。
人通りの多い路地
目撃者多数
不自然なバッグ、または土壌の異変
負傷者は出るが致死的被害は避けられている
ミハイルの脳内で、研究している理論モデルが自動的に走り始めた。
これは無差別殺傷を目的とするテロではない。
「観測されること」を前提とした実験型犯行に近い。
彼は歩きながら、寒さとは別の悪寒を覚えていた。




