第4話:命の工廠と、見通す光
大正三(一九一四)年、十月下旬。
青島要塞への総攻撃を数日後に控えた膠州湾の洋上は、冬の足音を予感させる刺すような海風に波立っていた。
その荒れる海に、白亜の巨躯を横たえる瑞長財団の特設病院船、第一船『蓬莱丸』、そして第二船『美麗丸』。その『蓬莱丸』の最上層に近い第一会議室には、極東の戦局を左右する最高司令官たちが一堂に会していた。
独立第十八師団長、神尾光臣中将。第二艦隊司令長官、加藤定吉中将。そして日英同盟に基づき参戦した英軍の指揮官、ナサニエル・バーナジストン少将である。
磨き上げられた長卓には純白の卓布が敷かれ、そこには十月の山東半島という寒冷な気候にはあり得ない光景が広がっていた。大皿に山と積まれた、艶やかな黄金色のマンゴーや、鋭い葉を冠した完熟のパイナップル。台湾総督府の威信と、瑞長財団の先進的な冷蔵技術がもたらした南国の果実である。鋼鉄の壁一枚隔てた外海の凍える寒気とは無縁の、甘く芳醇な香りが室内を満たしている。
さらに、給仕が純白の磁器の茶器を静かに置くと、バーナジストン少将がその澄んだ黄金色を見て僅かに目を瞠った。
「……素晴らしい香気だ。ダージリンの最特級品かな」
「台湾特産の『東方美人』という茶葉でございます、閣下。蜜や果実のような香りが特徴かと存じます」
財団を代表して同席した橘少佐が、淀みなく流暢な英語で応じる。紅茶の本場たる大英帝国の将軍に対し、極東の一企業が「茶の格」で静かに引導を渡した瞬間であった。
そして昼食として運ばれてきたのは、康政が財団の定番料理と言われるまで昇華させた『瑞長式カツカレー』であった。
数十種類の香辛料をじっくりと炒め上げた複雑で刺激的な香りが、将軍たちの鼻腔をくすぐる。濃厚な琥珀色のカレー汁の上には、分厚く切られた豚肉が黄金色の衣を纏って誇らしげに鎮座していた。「勝つ」という縁起を担いだその滋養に富んだ一皿は、泥と塩気の強い乾パンを齧るほかない前線の兵士たちからすれば、まさに天上界の美食に他ならない。
香辛料の熱気に額に汗を滲ませながら、神尾中将は銀の匙を置いた。
「……して、橘殿。数日後に迫った総攻撃だが、我が軍の被害を少なく見積もっても二千、多ければ四千と踏んでいる。野戦病院では到底捌ききれん数だ」
橘は懐から純白のハンカチを取り出し、口元を拭ってから平然と答えた。
「ご懸念には及びません。予測される数千の負傷者すべてを、第一船『蓬莱丸』および第二船『美麗丸』の二隻体制にて、遅滞なく全数収容いたします」
「この荒波の中でか。内火艇から担架を吊り上げていたら、収容だけで日が暮れるぞ」
加藤中将の冷ややかな指摘に、傍らの乃木保典中尉が一枚の図面を広げた。
「船体後部を左右に開き、内火艇を直接船内へ招き入れます。波の影響を受けない胎内船渠で、患者はそのまま平坦な医療区画へ。さらに、上空からは我々水上機部隊が複座の利点を活かし、前席で操縦、後席の通信員がモールス信号にて負傷兵の集積位置を本船へ伝え、機動艇を直接誘導いたします」
将軍たちは、食後の茶を啜りながら黙り込んだ。
机上の空論にも思える大風呂敷。だが、彼らの胃袋と精神は既に、財団が持つ「規格外の力と余裕」によって芯から温められ、毒気を抜かれていた。
「…よかろう。その手筈で頼む」
神尾のその一言は、将軍としての打算であった。財団という莫大な資金力を持つ道具を、自軍の後方支援として使い倒してやるという計算。しかし彼らは、この美味なる食事と引き換えに、自軍の命運という最も重い代償をテーブルに載せてしまったことに気づいていなかった。
十月三十一日。ついに鋼鉄の嵐が吹き荒れた。
日本陸軍が誇る二十八糎榴弾砲群が、大地を擂り潰すような咆哮を上げる。放たれた巨大な砲弾が空気を切り裂き、ドイツ軍の要塞に着弾して天を衝く火柱を噴き上げた。
濛々と立ち込める硝煙の中、泥濘の塹壕から這い出した歩兵たちが、銃剣を煌めかせて敵陣へと殺到する。だが、敵の防衛網は健在であった。鉄条網の奥に据えられたマキシム機関銃が火を吹き、毎分数百発という死の弾雨が、突撃する兵士たちを容赦なく薙ぎ払っていく。さらに頭上で榴散弾が炸裂し、無数の鋭利な金属片が地上へ降り注ぐ。肉が裂け、骨が砕ける不吉な音が戦場を満たした。数日前、将軍たちがふかふかの絨毯の上で絶品のカレーを味わっていたのと同じ空間の延長線上で、兵士たちは腹から溢れる臓腑を押さえ、次々と倒れていった。
その血みどろの地獄絵図を、遥か上空から見下ろす影がある。
四機の『新城式水上機一型A カモメ』。吹き付ける凍える秋風と、眼下からの猛烈な小銃による対空掃射を縫うように機体を旋回させながら、前席の乃木中尉は全身の筋力で暴れる操縦桿をねじ伏せていた。
背後の吹き晒しの後部座席では、専任の通信員が分厚い手袋を外し、凍りつくような素手で真鍮製の重い電鍵に指を這わせる。
『ト、ト、ツー、トツー』
無機質なモールス信号が戦場の空気を震わせる。通信員が叩き出すその正確な信号音は、海上の艦隊へ次の砲弾の照準を修正させ、同時に、泥の中で呻く負傷兵の位置を後方の内火艇部隊へと伝えていく。
「五艇、来ます! 重症患者の受け入れ準備を!」
アリスは、純白の防護衣に身を包みながら、『蓬莱丸』の船尾の船渠で声を張り上げた。
外海の怒り狂う波濤とは打って変わって、巨大な観音扉が開かれた船内の船渠は波ひとつなく、まるで湖面のように穏やかだ。眩い電灯に照らされた水面を滑るように、負傷兵を満載した純白の内火艇が次々と接舷する。
兵士たちの悲鳴やうめき声、そしてむせ返るような血と泥の匂いが、一気に空間を満たした。だが、医療陣の動作に一糸の乱れもない。
「担架をそのまま斜路へ! 揺らさないで!」
彼女の指示のもと、衛生員たちが内火艇から患者を担架ごと降ろす。波に揺られることもなく、段差のない平坦なリノリウムの床を、担架の車輪が静かに転がっていく。凍える寒風の中で死を覚悟していた兵士たちは、むせ返るほどの暖気と桁外れの光量に包まれ、狐につままれたような顔で周囲を見上げていた。
「大丈夫ですよ。すぐに痛みをなくしますからね」
金髪の少女は、脚部を血に染めて震える若い兵士の手をしっかりと握り、窓のない暗幕の張られた一室――X線撮影室へと彼を導いた。
重い鉛入りの防護エプロンを身に着け、兵士の傷口の上に奇妙な形をした硝子管をセットする。隣室の大型発電機が重い唸り声を上げ、オゾン特有の焦げたような匂いが漂った。
「少しだけ、息を止めてくださいね」
開閉器を押し込むと、不可視の光が兵士の肉体を透過する。数分後、現像液から引き上げられた湿った黒い撮影膜を、高柳少佐が電灯の光にかざした。灰色の肉と白い骨の輪郭の中に、鋭利で不自然な黒い影がくっきりと浮かび上がっている。
「右大腿骨の骨幹部裏側に榴散弾の金属片。長さはおよそ一寸。幸い骨に亀裂はないが、大腿動脈まで紙一重の距離に食い込んでいる」
高柳は撮影膜から目を離さず、即座に執刀の算段を口にした。
「下手に探れば血管を裂いて大出血を起こすぞ。特定完了、第一手術室へ運べ。止血用の鉗子を多めに用意しろ」
悲鳴を上げる患者を押さえつけ、軍医が闇雲に血肉を探り当てる野戦病院の惨状を、アリスは知識として知っている。だが、ここにはその無駄な苦痛はない。X線という『見通す光』が、メスを入れるべき正確な座標と深さを、手術の前に克明に暴き出しているのだ。
第一手術室の重い扉が開くと、眩い無影灯の白い光が兵士の目を焼く。
清潔な寝台に固定された兵士の顔に、手際よくエーテルを含ませた布が被せられた。甘ったるい匂いが漂い、兵士の強張った筋肉が次第に緩んでいく。
意識が深い暗闇の底へと沈んだのを確認すると、高柳が鋭いメスを握った。カチ、カチという鑷子の小気味よい金属音だけが響き渡る。そこにあるのは医療現場の悲壮感ではなく、壊れた機械の部品を交換し、正確に縫合していく修復工場のような、冷徹なまでに洗練された工程であった。流れるような手際で、高柳が求める器具が次々と手渡されていく。
このよどみない命の修復作業を、医療陣だけでなく、船の深部が強靭に支えていた。
熱気と水蒸気が立ち込める区画では、大型の回転式蒸気洗濯機が凄まじい音を立てて唸り、前線から運ばれてきた血と泥に塗れた軍服を、瞬く間に清潔な布へと洗い上げている。
さらに、その隣の巨大な厨房では、数十人分の大鍋がいくつも火にかけられていた。牛の骨と肉、香味野菜を原型がなくなるまで何十時間も煮詰めた特製の肉汁スープ。仕上げにたっぷりの牛酪が落とされたその琥珀色の液体が、専用の昇降機に乗って絶え間なく運ばれてくる。
十数時間後。術後回復室の清潔な寝台で、先ほどの若い兵士が目を覚ました。
麻酔の余韻で痛みは遠く、毛布に包まれた身体はひたすらに温かい。
「目が覚めましたか。喉が渇いたでしょう」
真っ白な割烹着姿に着替えたアリスが、湯気を立てる琥珀色のスープを運んできた。
匙でそっと口に流し込んでやると、温かい液体が兵士の冷え切っていた胃の腑に落ちる。将軍たちが数日前に味わった贅沢なカレーを彷彿とさせる、深い牛肉と牛酪の旨味が、傷ついた細胞の隅々にまで染み渡っていく。
具のない琥珀色のスープが兵士の顔を安堵の表情に変える。
前線の塹壕で待っていたのは、絶望的な泥の冷たさと苦痛だけだった。だが、目の前の異国の少女は、自分を人間として扱い、見返りすら求めずに極上の庇護を与えてくれている。兵士の胸の奥底で、感謝の念がただ渦巻いていくのを、アリスは静かに見守っていた。
整然たる「命の修復工程」に、陸軍から悲痛な要請が飛び込んできたのは、総攻撃が熾烈を極め始めた翌日のことであった。
『海岸から内火艇へ運ぶ間に、失血で死んでしまう者が多すぎる。前線に応急処置の班を出してくれ』
陸軍が決して医療や兵站を軽視していたわけではない。しかし、近代要塞の猛威と総攻撃によって生み出された数千という死傷者は、陸軍の野戦病院の処理能力を瞬く間に飽和させていた。海岸へ後送するまでの「時間」が、兵士たちに致命的な出血死を招いていたのだ。
急遽、船内の会議室に集まった橘と高柳は、二十五名の特別衛生班の編成を決定した。その現場指揮官として呼び出されたのは、古参衛生兵の黒田十蔵であった。
無精髭を生やし、無骨で丸太のような腕を持つ黒田は、かつて日露戦争の旅順攻囲戦で地獄を見た元・帝国陸軍の男だ。野戦における傷病者の選別と止血の技術において、彼の右に出る者はいない。
「前線に止血班だと? 陸軍の軍医殿たちも、さすがにこの負傷者の波にはお手上げってわけか」
黒田は苦虫を噛み潰したような顔で呟いたが、命令を拒むことはなかった。
そこへ、白衣姿のアリスが一歩前に進み出た。
「私も行きます。現場で適切な初期処置――止血帯の正しい使用やモルヒネの投与ができれば、船まで命をもたせられる兵士がたくさんいます」
黒田は鋭い眼光で、金髪の少女を上から下まで睨みつけた。
「お嬢ちゃんが行くような場所じゃねえ。前線は泥と肉片が飛び交う地獄だぞ。最新の機械に囲まれたこの船とは訳が違う」
「知っています。だからこそ、最新の医療知識を持った人間が現場に必要なはずです」
一歩も引かない真っ直ぐな瞳に、黒田はチッと舌打ちをした。彼はこの少女の医療知識、とりわけ最新の止血剤や鎮痛剤の扱いの正確さを、誰よりも認めている。
「……いいか、アリス。現場じゃ俺の命令が絶対だ。絶対に俺の背中から離れるな。少しでも危ねえと思ったら、すぐに艇に乗せて船に叩き返すからな」
「はい。ありがとうございます、黒田さん」
力強く頷く少女を伴い、安全な白亜の船を背にして、泥濘の地獄へと向かう二十六名の衛生班がそれぞれ内火艇へと乗り込んでいった。
青島要塞の陥落が間近に迫った、十一月上旬。
神尾光臣中将は、視察のために再び『蓬莱丸』の甲板を踏んでいた。
彼の目的は、軽症の負傷で治療を終え、原隊へ復帰しようとする兵士たちに、師団長として労いの訓示を与えるためであった。泥濘の地獄を生き延びた彼らは、きっと自分を頼もしい司令官として仰ぎ見るだろう。そう信じて疑わなかった。
だが、整列した兵士たちの前に立った瞬間、神尾の背筋に氷のような悪寒が走った。
号令に合わせて一糸乱れぬ敬礼をする兵士たちの、その瞳の奥に宿る光が、出征前とは異質のものに変わっていたのだ。彼らは直立不動で神尾を見つめているが、その目に恐れや敬意はない。彼らの視線は、神尾の背後にある『瑞長の白船』の巨大なマストへと静かに注がれていた。
神尾がどれほど声高に栄誉を説こうとも、兵士たちの心には響いていない。
神尾は、冬の海風の中でじっとりと嫌な汗をかいた。
(……我々は、とんでもない怪物を軍の中枢に招き入れてしまったのではないか)
最高司令官たちには美食を、末端の兵士たちには究極の救済を与え、軍隊という巨大組織の精神的支柱を根こそぎ奪い取った康政の盤面の底知れなさに、百戦錬磨の老将軍はただ口を閉ざし、戦慄するほかなかった。
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