第8話:五歳の告白と、覚醒する盾
明治三十四年(一九〇一年)、夏。
台北の夜は、むせ返るような湿気と、遠くで鳴り響く銅鑼の音に包まれていた。
瑞長商会の最も奥まった部屋。窓には分厚い布が引かれ、外部の目と耳を完全に遮断したその密室に、新城家の命運を握る「中核」が集められていた。
父・和也、母・和子。商会代表の陳瑞月、支配人の阿長、製造責任者のリン。そして瑞月の傍らには、彼女が手足のように頼る若き経理・黄翠玲の姿もあった。翠玲は瑞月から「命を預ける夜になる」とだけ聞かされ、商会の全収益を記した分厚い台帳を抱きしめるようにして、緊張の面持ちで座っている。
卓の中央には最高級の白檀が焚かれ、その隣には、彼らがこの数年で築き上げた石鹸と「SS規格」の木箱、そして青緑色のカビが奇妙な模様を描いて繁殖する小さなガラスのシャーレが置かれていた。部屋の空気は、異様なほど張り詰めている。皆の視線の先には、上座にちょこんと座る五歳の幼児――僕、新城康正がいる。
「パパ、ママ。瑞月お姉ちゃんに、阿長さん、リンさんも、翠玲さんも。今日は夜遅くに集まってもらって、ごめんなさい」
いつものように舌足らずな、可愛らしい声で口を開く。和也が「どうしたんだ、康正。改まって」と優しく声をかけようとした、その時だった。
「――と、前置きはこのくらいにしておきましょう。皆様、これより先は、大日本帝国の行く末と、私たち全員の命に関わる実務の話をします」
冷徹で、抑揚のない、完成された大人の男の声。それは間違いなく五歳の僕の口から発せられていたが、纏う空気は「政府の高官」や「歴戦の経営者」のそれに一変していた。背筋を伸ばし、卓の上で両手を静かに組むその姿に、幼児の面影は微塵もない。
「康正、お前、その口調は」
和也が目を丸くし、瑞月が息を呑んで口元を覆う。翠玲に至っては、幽霊でも見たかのように肩を震わせた。
「驚かせて申し訳ありません、父上。いえ、お父さん。これまでは私の知恵を『子供の無邪気なお節介』として偽装してきましたが、これから私たちが挑む壁は、子供の遊びでは到底越えられない。だから、私の本当の言葉で話します」
僕はぐるりと全員の顔を見渡した。
「単刀直入に言います。私には、これから数十年先に起こる未来の歴史の記憶があります。そして、そこに至るための高度な技術や仕組みの知識が、なぜか頭の中に湧き上がってくるのです。信じられないかもしれませんが、これが、私が規格箱や石鹸を思いついた理由です」
沈黙が落ちた。五歳の子供が「未来を知っている」などと言えば、普通なら熱を測られるか、祈祷師を呼ばれるのがオチだ。僕自身、狂人扱いされるリスクを恐れていた。しかし、最初にその沈黙を破ったのは、母・和子の静かな、けれど温かい笑い声だった。
「ふふっ。何を今更、難しい顔をして言っているのですか、康正」
「えっ、ママ?」
「康正。あなたがただの子供ではないことくらい、この家にいる者なら、とっくの昔に気づいていますよ。ねえ、あなた」
和子が和也に視線を向けると、和也は呆れたように、しかし深く安堵したように肩の力を抜いた。
「ああ。普通、三歳の子供が排水の勾配や流体力学なんて言葉を知るはずがないからな。私はずっと、お前が神仏の使いか、古い賢者の生まれ変わりではないかと思っていた。未来の記憶、か。なるほど、それならすべて辻褄が合う」
和也の言葉に、阿長が静かに、そして深く畳に頭を擦り付けた。
「若君が何者であろうと、私の忠誠は揺らぎません。あの日、淀んだ水瓶の前で、若君が私に理を示してくださったあの日から、私は貴方様が未来を見通す御方であると、魂で理解しておりました」
リンもポロポロと涙をこぼしながら頷き、翠玲も恐る恐る、しかし力強く台帳を握り直した。瑞月だけは、商人の鋭い目で僕をじっと見つめていたが、やがてふっと艶やかに微笑んだ。
「悔しいわね。私、ずっと凄く賢い弟だと思って、背伸びして商会を回していたのに。中身は私よりずっと年上の、老獪な実務家だったなんて。でも、これで合点がいったわ。あなたが海の向こうを見つめる瞳が、なぜあんなに悲しそうだったのか」
僕は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(ああ、そうか。僕が思っていた以上に、この人たちは僕の不自然さを丸ごと受け入れて、愛してくれていたんだ)
「みんな、ありがとう」
僕は短く感謝を述べ、表情を引き締めて卓の上のシャーレを指差した。
「私がなぜ、今になってこの秘密を明かしたのか。本当のことを言えば、ずっと先の未来にある決定的な破滅を回避したいという目的があります。しかし、それはあまりにも遠い。だから、まずは近い未来の話をします。この大日本帝国は、おそらく三年以内に、大国ロシアと全面戦争に突入します」
「ロシアと! あの、北の巨大な羆と戦うというのか!」
和也が身を乗り出した。小国日本がロシアに挑むなど、当時の常識では国家の自殺行為だ。
「はい。そして、この戦争で日本は、信じられないほどの血を流します。特に恐ろしいのは、敵の銃弾ではありません。劣悪な衛生環境がもたらす感染症と脚気です。兵站は崩壊し、前線には食糧も薬も届かなくなる。私は、身近な人たちを失いたくない。この国を、無駄な死で疲弊させたくないのです。そのために、二つの兵器を造り上げました。一つは物流の無駄を消すSSコンテナ。もう一つが、この青カビから抽出する細菌殺しの薬と、石鹸と消毒液をセットにした衛生ユニットです」
僕は言葉に熱を帯びさせ、思わず身を乗り出した。
「このハコと薬を、帝国軍のデファクトスタンダードにする。それが僕の――」
そこまで言って、僕はハッとして口を噤んだ。やってしまった。前世の職業病だ。つい熱が入りすぎて、明治時代には存在しない現代の専門用語が、無意識に出力されてしまった。
「失礼しました。つい、未来の言葉がそのまま口から出てしまいました。今の言葉で言えば、公的な命令がなくとも、誰もがそれを使わざるを得なくなる、事実上の標準規格という意味です」
僕は恥ずかしさで顔を赤くし、最後だけわざと幼児言葉に戻した。
「ごめんなさい、パパ。つい焦って、難しく言い過ぎまちた」
舌足らずな謝罪に、張り詰めていた部屋の空気がふっと緩んだ。翠玲が小さく吹き出し、和也も苦笑しながら僕の頭を撫でた。中身は老獪な実務家でも、五歳の身体に引っ張られる不器用さが、彼らには愛おしかったのだ。
「で、その事実上の標準にするためには、どうするおつもりですか?」
瑞月が真剣な商人の顔に戻って問いかけた。「康正君、これを東京の政府に売り込むつもりなの? 五歳の子供の言葉を、あの権力者たちが信じるとでも?」
「信じさせるしかありません。そのために、この瑞長商会で実績を作ってきた。金と命を救うという確たる証拠を。ですが、私の見た目では限界がある。東京の化け物たちと対等に渡り合い、この仕組みを国家にねじ込むには、私を隠れ蓑にしてくれる、強力な表の顔が必要なのです」
僕の視線は父・和也に向けられていた。和也はかつて東京の官僚組織の壁に敗れ、台湾へ逃げるようにやってきた男だ。父に重荷を背負わせることに罪悪感を感じていたが、和也の反応は僕の予想を遥かに超えるものだった。
和也はゆっくりと立ち上がり、僕の小さな頭を、大きな手で力強く撫でた。
「康正。お前は、そんな重い未来を一人で抱え込んで、この数年間、必死に私たちをお節介で導いてくれていたのか。……お前が図面を引き、未来を指し示せ。私が、お前の盾になろう」
和也の声が、密室に重く響き渡る。
「東京の奴らは、私を青臭い理想主義者だと笑って左遷した。ならば、見せてやろうじゃないか。お前が創り上げたこの理が、どれほど冷酷で、どれほど多くの命を救うかを。私が、お前の代わりに帝都へ乗り込み、化け物どもの首根っこを掴んでやる」
その言葉に、阿長が音もなく立ち上がり、和也の背後に控えた。「旦那様。私も、死地までお供いたします」
瑞月もまた、挑戦的な笑みを浮かべて立ち上がった。「私も行くわ。康正君の通訳は、私にしかできないでしょう?」
翠玲が、手元の台帳を力強く抱きしめた。「瑞月様、康正様。東京での戦に必要なお金は、この翠玲が送り続けます。どうか、憂いなく戦ってきてください」
深夜。長い話し合いを終え、一行が解散した後のことだ。
翠玲は一人、月明かりの差し込む帳場にいた。瑞月が音もなく現れ、彼女の隣に座る。
「翠玲。怖かったでしょう。あの子の正体」
瑞月の問いに、翠玲は震える声で答えた。
「はい。ですが瑞月様。私が驚いたのは、声の低さではありません。あの方が語られた未来の悲劇を、本気で防ごうとするお節介なまでの熱量です。私はあの日、確信しました。あの方についていけば、私の算盤も、いつか世界を救う道具になれるのだと」
瑞月は翠玲の肩を抱き寄せた。
「ええ。だからこそ、あなたはここを頼むわ。私たちが東京で戦えるのは、あなたがここで数字を守ってくれるから。翠玲、あなたは私の、そしてあの子の、最も信頼できる右腕よ」
二人の師弟は、言葉少なに、しかし固い絆を確かめ合った。
翌日。新城和也は、台湾総督府の民政長官室を訪れていた。
机の向こうには、後藤新平が巨大な葉巻を燻らせている。和也が提示したのは、未来の予言ではなく、冷徹なまでの実務データだった。不衛生な環境がいかに労働力を削り、物流の滞りがどれほどの経済的損失を生んでいるか。そして、その解決策としての薬と規格箱。
「……なるほど。和也、お前は台湾の民を救うだけでなく、帝国の脆弱な毛細血管をすべて作り替えるつもりか」
医師である後藤は、シャーレの溶菌現象と、物流の合理性を記した報告書に戦慄した。この仕組みは、国家の体質そのものを変える劇薬だ。
「持っていけ。東京の陸軍省にいる、俺の旧友……台湾総督・児玉源太郎への紹介状だ。あいつなら、この理屈の価値を一瞬で理解するだろう」
後藤は素早く筆を走らせると、突然、長官室の奥の扉を開けた。
「俺の腹心、中村是公だ。総督府の特命使節という肩書きがあれば、どこの省庁の門でも叩けるはずだ。明日の便で、こいつも連れてすぐに東京へ発て!」
「待ってください、長官」
和也の背後で、これまで沈黙を守っていた僕が、凛とした大人の声で割って入った。後藤が葉巻を咥えたまま固まり、そこへ廊下から偶然現れた農政学者・新渡戸稲造が、驚きに目を見開く。
「康正君、今、なんと?」
「長官、お言葉ですが、今このまま東京へ乗り込んでも、私たちは児玉閣下や渋沢栄一翁に一蹴されるだけです。必要なのは、机上の空論ではありません。圧倒的なエビデンス……」
言いかけて、僕は自分の口を軽く叩いた。
「失礼、言い直します。圧倒的な証左、すなわち動かしようのない実績です。廃糖蜜からどれほどの薬が抽出でき、この箱を用いることで、どれほど荷役が効率化されるか。その正確な数字と、現物による実演なしに、あの古狸たちは説得できません」
僕は後藤を真っ直ぐに見据えた。
「長官。あと一ヶ月、時間をください。新渡戸先生が指導されている製糖工場の蒸留器を、私の図面通りに一部改修させてください。それで、最初の実績を用意します」
「……一ヶ月で、か」
「はい。東京へ持っていくのは紹介状だけではありません。台湾の糖業を根幹とした、世界最先端の移動する工廠……戦場の最前線まで、詰め替えることなくそのまま機能的な倉庫として機能する、物流の革命です。これこそが、我が国の実力を見せつける最強のカードになります」
後藤は、しばし呆然と僕を見つめていたが、やがて腹の底から笑い声を上げた。「ははっ! 参ったな。五歳のガキに、実務のいろはを説教されるとは! いいだろう。新城和也、中村、一ヶ月だ。この島で、東京の奴らが腰を抜かすような実績を揃えてみせろ!」
後藤は満足げに頷くと、傍らに立ち尽くしていた新渡戸を指差した。「新渡戸君! 君も同行しろ! 糖業改良も大事だが、君の農学博士としての権威が必要だ。君が、彼らの知恵に国家の良心という箔を付けるのだ!」
「えっ……私、ですか!?」
突然の指名に、新渡戸は困惑した様子で僕を見た。
(五歳の幼児。だが、この視線の深さは何だ。後藤長官をここまで動かすこの子は、一体何を隠している?)
新渡戸は学識経験者としての好奇心、そして実務としての責任感から、静かに頷いた。「分かりました。長官がそこまで仰るなら、仕事としてお供いたしましょう。ですが康正君、道すがらじっくりと観察させてもらいますよ」
新渡戸の眼差しは、まだ仲間というよりは、未知の現象を観察する科学者のそれに近かった。だが、それで十分だった。
明治三十四年。僕が紡いだお節介は、台北の街を、巨大な実験場から本格的な軍需工廠へと作り替えようとしていた。廃糖蜜から命の雫を絞り出し、鋼の帯で箱を固める、熱狂の三十日間が始まろうとしていた。




