第3話:未踏の礎と、南風の防壁
明治四十三年(一九一〇年)六月。
台湾南部の港湾都市、高雄。
肌を刺すような強烈な南国の太陽と、海から吹き付ける湿った熱風の中、広大な未開拓の海岸線に立つ若者たちの姿があった。
「そこだ! 標尺をもっと右へ! 満潮時の水位と地盤の固さを正確に記録するんだ!」
瑞長塾の第一期生である若き測量員たちが、泥だらけになりながら声を張り上げている。彼らは額から滝のような汗を流し、重い測量機器を担ぎながら浅瀬と砂浜を駆け回っていた。
その光景を、少し離れた高台から見守る一団があった。瑞長財団の知恵袋である康政と、同じ学舎で数年来の時を共に過ごしてきた学友たち――御子柴烈、久世景秀、そして橘響子の三人である。
「康政様。海岸線の精密な基礎測量だけでも、あと数旬の日数は要しますぞ。……しかし、これほど広大な土地に東洋最大の船渠と工廠を築くとなれば、常識外れの鉄と建築資材が必要になります」
古参の技師が、図面を指差しながらその途方もない規模に、期待と不安の入り混じった声を出す。康政は温和な笑みを浮かべ、彼に向かって丁寧に頭を下げた。
「ええ、どうか焦らず、正確に進めてください。基礎こそが命ですから。炎天下での作業、本当にご苦労様です」
技師が測量現場へと戻っていくのを見届けた後、康政は振り返り、気心の知れた友人たちに向かって、少しだけ弾んだ声で語りかけた。
「烈、景秀、響子さん。ここが、これから僕たちの新しい土台になる場所だよ」
「新しい土台って……またずいぶんと途方もない土地を買い押さえたものだな」
久世景秀が、呆れたような、しかし面白がるような鋭い視線を広大な荒野に向けた。「造船所だけじゃないんだろう? その図面の余白……ずいぶんと広大に取ってあるじゃないか」
「うん。ここには東洋最大の船渠に加えて、大規模な石油精製所と貯蔵基地を築くつもりだ。これからの船や機械は、石炭じゃなく油で動く時代になるからね」
「石油の精製所だと!?」御子柴烈が目を丸くして声を上げた。「おいおい康政、台湾じゃそんな油は出ないぞ」
「……まさか、南方の島から持ってくる気?」
橘響子が呆気にとられたように尋ねると、康政は悪戯っぽく微笑んで頷いた。
「その通り。それに、あっちの敷地には『軽銀』の精錬所も作る。軽くて錆びないその金属は、遠くない未来、空を飛ぶ機械や高速船の心臓部になるから。……でも、その原料も油も、この海の向こうにあるオランダ領の島々にしかない。だから、ロイヤル・ダッチ・シェルっていう巨大な独占資本と直談判してくるつもりだよ」
「直談判って……お前なぁ」
烈が頭を抱え、景秀と響子が顔を見合わせて苦笑する。しかし彼らの目には、康政が描く規格外の未来への、確かな高揚感が宿っていた。
その数日後。一行は瑞長財団の総帥である和也、そして金庫番の翠玲と合流し、高雄から北上した嘉南平原の奥地へと足を運んでいた。
そこにあったのは、自然の地形そのものを書き換えているかのような、土木工事の熱気であった。
明治三十八年の着工からわずか五年。瑞長財団が惜しみなく投じた莫大な資金と、康政がもたらした未来の工法知識、そして米国から取り寄せた最新鋭の重機群が、人力の限界を軽々と突破していた。
谷を塞ぐ巨大な堰堤はすでに天高くそびえ立ち、そこから台湾南部の平野部へと向かって、血管のように無数の水路網が同時に掘り進められ、すでに最終局面に差し掛かっていた。
翠玲は、眼下に広がるその壮大な景色と、大地を走る水路を見下ろしたあと、パタンと手元の帳簿を閉じた。
「これまで、湯水のように消えていく予算書に判を押すたび、胃が痛くなる思いでしたけれど」
翠玲は小さく息を吐き、隣に立つ康政を見た。
「これほどの景色を見せられては、金庫番としてはもう何も言えませんわね。……ええ、見事な『生きたお金』の使い方です」
「翠玲さんがしっかり財布の紐を握って、支え続けてくれたおかげだよ。本当にありがとう」
康政が深く頭を下げると、翠玲は少しだけ誇らしげに目を細めた。
「和也さん、康政さん! よく来てくださいました!」
泥だらけの作業服を着た八田與一が、日に焼けた顔に満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「八田さん、素晴らしい進捗ですね。皆様に怪我がないことが何より嬉しいです」
「瑞長財団の全面的なご支援のおかげです。……あと数ヶ月です。あと数ヶ月でこの大地に水が流れ、発電所の水車が回ります。台湾の農民は貧しさから救われ、莫大な電気が生まれる」
八田はそこで一度言葉を切り、真剣な眼差しで和也と康政を見つめた。
「ですが、ここからが本当の勝負ですね。この嘉南の巨大工事が終われば、ここで汗を流してくれた数万の労働者たちの『次の働き口』が必要になります。……和也様、康政様。彼らを受け入れる高雄の準備は、よろしいですね?」
ダムや灌漑事業の完成は、同時に数万の失業者を生み出す危険を孕んでいる。八田の技術者としての、そして労働者の家族を想うその言葉に、和也と康政は力強く頷いた。
「もちろんです、八田さん。だからこそ、今まさに高雄の測量と基礎調査の視察を終えてきたところです」
和也が凛とした声で応じ、康政がその言葉を継いだ。
「ダムや水路と、高雄の巨大施設群を同時に建設することは、瑞長塾が育成した高度な技師たちの数からしても不可能です。ですから、この嘉南の工事が終わり次第、彼ら労働者と技師たちをそのまま高雄へと移し、次なる『精錬所や工廠の建設』へと繋げます。……雇用の連鎖は、決して途切らせません」
康政のその約束に、八田は安堵したように顔をほころばせ、深く頭を下げた。
しかし、その福音は同時に、瑞長財団の総帥である和也と康政にとって、重い使命の再確認でもあった。
労働者たちを高雄へ移し、巨大な基盤設備を建設する。……だが、莫大な電力が生まれ、施設が完成しても、それを動かすための南方の資源を引っ張る外交の公道が未開通のままでは、すべてが空転してしまう。
和也と康政は、無言で視線を交わした。愛する者たちを守る新たな産業という盾を稼働させ、数万の民の生活を維持するためには、一刻も早く、列強に通じる「公的な交渉の道」をこじ開けなければならない。刻限は、目前に迫っていた。
台北・台湾総督府。
重厚な赤レンガの建物の奥、総督執務室にて、瑞長財団の長である和也と、それに付き従う康政は、台湾総督・乃木希典と対座していた。
かつて康政が東京から直接招聘したこの武人は、総督としての威厳をまといながらも、二人に向ける眼差しはどこまでも温かかった。
「よく来てくれた、和也殿、康政殿。嘉南の工事もいよいよ大詰めと聞いている。台湾の民を代表して、改めて礼を言わせてくれ」
「もったいないお言葉です、乃木閣下」
和也が、瑞長財団の総帥として凛とした声で応じた。今日の会談の主導権を握るのは和也である。
「本日は、その嘉南の事業に関連して、閣下に折り入ってご相談したい儀がございまして参りました」
「ほう。私にできることなら何でも言ってみたまえ」
「ありがとうございます」和也は姿勢を正し、真っ直ぐに乃木を見据えた。「閣下もご存知の通り、数ヶ月後には堰堤と水路が完成し、莫大な電力が生まれます。我々瑞長財団は、その電力を用いて高雄に東洋最大の船渠と、軽銀の精錬所、さらには大規模な石油精製所を建設いたします」
「軽銀に、石油の精製所だと……」
「はい。しかし、その原料となる鉱石や石油は、イギリスやオランダが支配する南方の島々にしかありません。我々は是が非でも、ロイヤル・ダッチ・シェルなどの巨大資本と直接交渉を行い、資源の安定供給の経路を確立せねばならないのです」
乃木は少しだけ眉をひそめ、顎の髭を撫でた。
「相手は国家を背負った巨大な独占資本だ。いかに瑞長が力を持とうとも、極東の一民間企業がいきなり門を叩いて、対等な交渉の席に着ける相手ではないぞ」
「おっしゃる通りです」和也は力強く頷いた。「だからこそ、閣下にお願いがございます。我々瑞長財団を、外務省を通じた『日本政府の公的な代行者』として、本国へご推挙いただけないでしょうか」
和也の真っ直ぐな要求に、乃木は目を細めた。そこへ、康政が静かに、しかし深い誠実さを込めた声で言葉を添える。
「閣下、一民間企業が差し出がましいお願いをしていることは重々承知しております。ですが、我々が持つ最新の医療技術……特に風土病や感染症に対する特効薬と衛生管理の知見は、熱帯の密林で労働力の維持に苦しむイギリスやオランダの企業にとって、喉から手が出るほど欲しい技術のはずです」
康政は丁寧に言葉を紡いだ。
「我々が独自の物流網と医療を彼らに提供し、代わりに資源を得る。この互恵関係は、瑞長だけでなく、必ずや日本という国の南進と安全保障にとって、強固な防壁となります。どうか、国としての窓口を開くお力添えをいただけないでしょうか」
私心など微塵もない、ただ人々を守り、国を豊かにしようとする二人の若者の眼差し。乃木希典は大きく頷き、破顔した。
「よかろう。和也殿、康政殿の歩む道は、常に民のためであった。莫大な私費を投じて台湾の基盤を整えた君たちを、国が後押しせんでどうする。……すぐに内地の外務省へ、私が直接、強い推薦状をしたためよう。駐英・駐蘭大使を動かし、政府の公式な特使として、彼らに交渉の場を用意させる」
「閣下……! ありがとうございます!」
和也と康政は、深く、深く頭を下げた。巨大な帝国主義の扉が、今、公的な力によって開かれようとしていた。
数日後。台北・瑞長財団本部。
重厚な執務室には、和也と康政を囲むように、瑞月、霧島誠一郎、そして燕が集められていた。
「乃木総督が動いてくださった。これで外務省から正式な外交の道筋が開かれる」
和也が力強く宣言すると、霧島が眼鏡の奥で知的な光を放ち、瑞月が艶やかに微笑んだ。
しかし、康政の表情は冷静であった。彼は卓上に広げられた東南アジアの地図を見つめ、静かに語り始めた。
「ですが、相手は巨大な国家と官僚組織です。総督の推薦状が外務省へ行き、そこからロンドンやアムステルダムを経由して、実際にシンガポールの現地へ『交渉の席を設けるように』という指令が届くまでには、早くても半年、長ければ一年の月日がかかるでしょう」
康政は、集まった三人の顔を真剣な眼差しで見渡した。
「ただ返事を待っている時間は、僕たちにはありません。半年という準備期間を利用して……皆さんには、先行して香港へ向かっていただきたいのです」
「香港、ですか」霧島が低く問い返す。
「はい」康政は頷いた。「近い将来、大陸ではかつてない規模の動乱が起きます。その巨大な火の粉が降りかかった時、僕は大切な家族や、財団で働く皆、そして我々を信じてくれる仲間たちを、危険な目に遭わせたくないのです。……霧島さん、燕さん」
「はっ」
「大陸の動向を正確に把握するための情報の窓口と、いざという時に友好的な資本や人々を避難させるための金融の受け皿が必要です。お二人の力で、香港に真っ当な企業としての安全な防壁を、今のうちに構築してきてはいただけないでしょうか」
康政の、決して命令ではない、心からの願い。霧島は口角をわずかに上げ、分厚い国際法の専門書を叩いた。
「承知いたしました。法の網を用い、誰にも怪しまれることのない、真っ当にして強固な『瑞長財団・香港支部』を正式に設立いたしましょう。いざという時、我々の物流と資金を安全に保護するための、受け皿として機能させます」
燕もまた、静かに頭を下げる。
「私はその香港支部を拠点とし、港湾や電信局への挨拶回りを進めます。最高純度の情報を得るための、根を張ってまいります」
「ありがとうございます。……そして、瑞月さん」
康政が視線を向けると、漆黒の装いに身を包んだ瑞月が、ふわりと優雅に微笑んだ。瑞月という女性は、交渉の場においてはその魅力的な容姿で相手を圧倒させる、財団最強の武器であった。
「政府を通じた縦の道筋は、どうしても時間がかかります。瑞月さんには香港の英国人社交界に入り込んでいただき、ご自身の魅力と手腕で、シンガポールの石油幹部へ繋がる有力者からの紹介状を手に入れていただきたいのです。正式な会談が決まった時、それが現場での最大の切り札になります」
「お任せください、康政様」
瑞月は、艶やかな唇に自信に満ちた笑みを浮かべた。
「野蛮な帝国の商人たちから、極上の手土産を頂戴してまいりますわ」
和也が立ち上がり、三人に力強く頷いた。
「香港での基盤作り、頼んだぞ。外務省からの吉報がいつになるかは分からないが、いざシンガポールでの会談が決まった時は、俺と康政も必ず台湾から駆けつける。その時は、全員で大勝負に出よう」
それから数十日後。大英帝国直轄植民地・香港。
ヴィクトリア・ハーバーの海風には、石炭の煙と、八角や桂皮といった香辛料の強烈な匂いが入り混じっていた。
湾内を我が物顔で埋め尽くす英国の巨大な蒸気船の隙間を、中国の伝統的なジャンク船が縫うように行き交っている。海岸沿いには香港上海銀行をはじめとする重厚なヴィクトリア朝の西洋建築が立ち並び、その背後の急勾配の斜面には、中国語の看板と密集した市街地がどこまでも張り付いていた。
東洋と西洋が暴力的なまでの活気で混ざり合う、大英帝国のアジア最大の要衝。その熱帯特有のまとわりつくような湿気と喧騒の中に、瑞月、霧島、燕の三人は降り立った。
焦る必要はない。急ぐ必要もない。
彼らはこの街の深淵に財団の根を静かに張り巡らせるのだ。愛する者たちの未来を守るため、瑞長財団という巨大な知性の集合体が、確かな足取りで混沌の街へと歩み出していった。
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