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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第5章:飛躍の盤面 知の要塞

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第2話:悲報の海と、未来へ歩む足音

 明治四十三年(1910年)四月中旬。

 台湾・基隆キールン工廠は、重く湿った熱帯の潮風と、むせ返るような鉄と油の匂い、そして、大人たちの血を吐くような慟哭に包まれていた。


「なぜだ……! 我々の手元には、あれよりも深く、長く潜れる艇があるというのに!」


 海軍の真田大尉が、広げられた海図と図面台に両拳を叩きつけて男泣きしていた。その背後では、瑞長の試作潜水艇の設計図を引き、血の滲むような徹夜を重ねて鉄を叩き続けてきた工廠の熟練の職人たちが、油に塗れた手で顔を覆って咽び泣いている。

 帝都から台湾へと渡ってきたばかりの工学部の新入生たちは、現場の大人たちが全身から放つ本物の絶望と悲痛を前に、一言も発することができず、ただ青ざめて立ち尽くすことしかできなかった。


 四月十五日。帝国海軍『第六潜水艇』が瀬戸内海にて沈没。

 佐久間艇長以下、乗組員十四名全員が、有毒瓦斯ガスと浸水という地獄のような暗黒の艦内で、誰一人として己の持ち場を離れることなく殉職したという、痛ましい悲報であった。


 重く張り詰めた空気の中、新入生の一人が、震える声で絞り出した。

「瑞長の潜水艇を急行させ……昇降口ハッチを繋いで、皆様を助け出すことはできなかったのでしょうか」


 その悲痛な問いに、康政は静かに歩み寄り、学生の肩にそっと手を置いた。その表情には、冷徹さではなく、海よりも深い哀惜の色が浮かんでいた。


「悔しいですね……本当に、胸が張り裂けそうです」

 康政は温和な声を震わせ、ゆっくりと首を横に振った。

「ですが、できなかったのです。彼らの艇の昇降口と、我々の艇の昇降口は、接合部の規格が全く違います。仮に暗い海底で寸分の狂いもなく横付けできたとしても、規格の違う扉を無理に開ければ、恐ろしい水圧によって我々もろとも一瞬で押し潰されてしまう。……そして何より、我々には彼らを外から救い出す『手』がないのです」


 康政の視線は、遠い海へと向けられた。

「現在の潜水夫が纏う釣鐘型の潜水服では、あの深度の水圧に耐えて自由な作業を行うことは不可能です。何より、そのような過酷な環境で鋼鉄を切り裂き、命を繋ぐことのできる熟練の潜水夫も、彼らを育成する体制も、今のこの国には存在しません。我々にいくら高度な技術と莫大な資金があっても、沈みゆく命に手を差し伸べる術すら持たなかった……」


 それが、物理的な規格の不一致、そして救助体制という運用面の未熟さが招いた残酷な現実であった。どれほど命を救いたいと強く願っても、未発達な技術と装備の壁は、人間の感情など一切考慮してはくれない。

 康政は、涙で顔を濡らす学生たちと、肩を震わせる工員たちを、慈しむような真っ直ぐな瞳で見渡した。


「どうか皆さん、この身を切られるような無念を、決して忘れないでください。これが、人間の慢心を許さぬ海の現実です」

 康政の声は、祈るように優しく、しかし確固たる響きを持っていた。

「悲しみを乗り越えて、共に頭脳を絞りましょう。二度と、冷たい海の底に鉄の墓標を立てさせないために。船の規格を統一し、水圧に耐えうる潜水装備を開発し、命を救う専門の潜水夫を育成する。いかなる困難をも乗り越えて海中から命を引き上げる『救難艦』を、我々の手で造り上げるのです。それこそが、皆さんが修めるべき実学の道だと、私は信じています」

 その温かくも重い言葉は、学生たちの魂の奥底に「命を救うための技術」の尊さを、胸の奥に深く刻みつけた。



 翌五月。

 遠く離れた欧州・ロンドンでは『日英博覧会』が華々しく開幕していた。

 広大な会場に設えられた日本の見事な伝統工芸や、庭園、近代化の歩みが世界中から称賛を浴びていた。政府高官や財閥の重鎮たちは、極東の島国がついに大英帝国と肩を並べる「一等国」の仲間入りを果たしたという美酒に酔いしれていた。世界は表向き、華やかな平和と祝祭の空気に包まれていた。


 だが、その喧騒から遠く離れた台湾・台北の新城家には、ロンドンの空疎なお祭り騒ぎなど比較にならないほど、尊く、そして血の通った温かな時間が流れていた。


「あ……和也さん、康政! 見てちょうだい!」

 初夏の柔らかな陽光が差し込む居間で、和子が両手を口元に当てて小さく息を呑んだ。

 ふかふかとした絨毯の上で、赤ん坊の沙絵子が、ぷっくりとした両足を小刻みに震わせながら、自らの力で立ち上がっていたのだ。沙絵子は満面の笑みを浮かべ、小さな両手で一生懸命に均衡バランスを取りながら、よちよちと不器用な「初めての一歩」を踏み出した。


「おお……! 歩いた、歩いたぞ!」

 和也が父親として相好を崩し、大きな両手を広げて待ち構える。その頼もしい腕の中にふわりと飛び込んだ沙絵子を、和也は愛おしそうに高く抱き上げた。きゃあきゃあと笑う無邪気な声が、部屋中に響き渡る。

 部屋の隅では、侍女のリンがお茶の支度をする手を止め、その光景を我がことのように目を細めて見守っていた。彼女の柔らかな微笑みが、この家がどれほど深い信頼と愛情で結ばれているかを物語っている。


「よく頑張ったね、沙絵子」

 康政は目を細め、和也に抱き上げられた妹の小さな手を、自分の指でそっと握った。沙絵子は不思議そうに兄の顔を見つめ、えへへと笑ってその指を強く握り返してきた。その力強くて柔らかな体温が、康政の胸にじんわりと染み込んでいく。


 冷たい海の底に沈んだ鉄の墓標とも、列強の虚栄が渦巻く華やかな博覧会とも無縁の、ただただ守るべき、かけがえのない平和な日常。この温かな家族の笑顔と、未来へ向かって歩み出した小さな足音こそが、康政にとって何よりも尊い宝物であった。



 数日後。台北・瑞長財団本部。

 新城家の温もりから一転、重厚な洋館の奥に位置する会議室では、財団の首脳陣と重役たちが顔を突き合わせ、息詰まるような静寂に包まれていた。


 長机の上座には総帥の和也、その隣には設計顧問の康政、そして交渉を司る瑞月が座している。その対面には、財団の金庫番である翠玲が鋭い眼差しを書類に向けており、部屋の隅には新城家の護衛にして物流の要、阿長がいわおのように静かに控えていた。阿長は一切の口を挟まないが、その存在だけで会議室に独特の規律をもたらしている。


「皆様にお集まりいただいたのは他でもありません。大陸南部の拠点から、看過できない報告が上がってまいりました」

 和也が手元の分厚い書類を置き、重々しい口調で切り出した。

「広州をはじめとする南部の諸都市において、革命勢力の武器調達と資金移動が、我々の想定を遥かに上回る速度で活発化しております。もはや時間の問題です。清朝は、遠からず内側から瓦解するでしょう」


 重役たちの間に、どよめきが走る。政府がロンドンで美酒に酔っている間に、極東のすぐ隣で、四百年続いた巨大な帝国がひっくり返ろうとしているのだ。

 ざわめきが収まるのを待ち、康政が静かに立ち上がった。その声は温和でありながら、どこまでも透き通るような理知的な響きを持ち、会議室の空気を一瞬で支配した。


「父上の仰る通りです。動乱の火の手が上がれば、大陸に権益を持つ列強の公使館や軍部、そして外資の巨大商館が一斉に本国へ向けて緊急の暗号電信を打ち始めます。現在の細い海底電信線では、瞬く間に許容量を超え、極東の通信網は完全に麻痺するでしょう」

 康政は、居並ぶ重役たちの顔を一人ひとり、冷静に見渡した。

「他国の情報の渋滞に巻き込まれ、我々『瑞長』の目が塞がれる事態だけは避けねばなりません。列強の回線とは完全に独立した、他を圧倒する通信量を持つ『新城規格の海底電信線』の敷設を急ぐべきです。通信の需要が飽和する前に、我々自らの手で確固たる情報網を築き上げます」


 康政の揺るぎない方針に、その場に居た皆が深く頷いた。だが、造船実務を担う重役が深刻な顔で挙手をした。

「康政様、独自の通信網の確保は急務と存じます。しかし……海底深くに線を沈めるための専用の『敷設艦ふせつかん』を建造するにしても、基隆の船渠せんきょは現在、新型輸送船と、救難艦の建造で完全に手一杯でございます。到底、新たな艦を造る余裕は……」


「ええ、その懸念はもっともです」

 康政は柔らかく微笑み、手元に用意していた巨大な海図を机の上に広げた。

「電信線の本体は、我々の命綱とも言える最高機密ですから、基隆工廠の敷地内に専用の製造棟を設けて内製します。しかし、敷設艦の船体そのものは、内地の優秀な造船所に特命で発注しましょう。資金に糸目はつけません」

 そして康政は、台湾全土が描かれた海図の南端、一つの港湾都市をトントンと指で叩いた。

「我々の手掛ける事業は、すでに基隆の船渠一つでは物理的な限界を迎えています。南方の油田や鉱物資源を安全に引き込むためにも、南シナ海に直結する『高雄たかお』に、第二の拠点が要る」


 さらに康政は、その指を極東から遠く離れた、欧州の地図へと滑らせた。

「現在、欧州における英国と独逸ドイツの建艦競争は、尋常ならざる水準に達しています。遠からず欧州で巨大な戦火が交わされれば、極東の海から列強の商船が一斉に姿を消し、太平洋の海運に巨大な空白が生まれる。その時、自前の巨大な船渠(ドック)と船を持つ者が、世界の海運を救うことになります。今すぐ、高雄の広大な土地を買い押さえ、東洋最大の自社船渠の建設を進めるべきです」


「待ってください、康政様」

 それまで沈黙していた翠玲が、鋭い声で口を挟んだ。

「高雄の船渠に海底電信線……その投資額は、瑞長がこれまで扱ってきた灌漑事業に近いです。いくら先の特需が見込めるからといって、現在の資金流動性に過度な負荷をかけるのは危険です。回収の見込みはあるのですか」


「翠玲さん、あなたの懸念は正しい」

 康政は彼女の厳しい指摘を真っ向から受け止め、頷いた。

「ですが、私の構想は単なる基盤の整備に留まりません。海底電信線と並行して、もう一つ、我々が今すぐ着手すべき全く新しい通信事業があります。それは『無線の電信』……それも、符号の送受信ではなく、人間の声や音楽をそのまま大衆へ届ける、『放送』事業の構築です」


「放送……? 誰に向けたものですの」

 瑞月が眉をひそめて尋ねる。康政は淀みなく答えた。


「すべての大衆です。我々の工廠で安価な受信機を造り、大衆の家庭に広く普及させるのです。牧野博士の研究により、受信機の要となる『真空管』の小型化には、既に研究室での試作に成功しています。受信機を極限まで安価で大衆に提供し、音楽や最新の情勢を『無料』で放送する。そうして大衆の耳を惹きつけた上で、放送の合間に、自社の製品や他企業からの『広告宣伝』を流し、莫大な利益を上げるのです。新聞という紙の束を凌駕する、極東最大の情報媒体を、我々が握ります」


 康政の語る、誰も思いつかなかった全く新しい商いの姿。翠玲はその論理を頭の中で高速に計算し、やがて驚愕を含んだ溜息を漏らした。

「……情報の伝達そのものを商品にするのではなく、情報を届ける『場』を売り物にするというのですか。それならば、投資の回収は……いえ、それ以上の莫大な富が転がり込みますわね」


 康政はさらに、部屋の隅に控える阿長に視線を投げた。阿長は無言で頷く。康政が何を求めているか、彼は既に理解していた。


「もちろん、これは明日明後日にできることではありません。研究室で天才が試作品を完成させることと、数万台の規模で均一な工業生産を行うことは、全くの別次元です。規格の統一と安定供給、そして生産工程の確立。……これを成し遂げるには、数年の歳月と並外れた物流の管理、そして工業の壁が立ち塞がります。だからこそ、今この瞬間から『量産化計画』と『放送局の開設』に向けた巨大な事業を、同時に始動させなければならないのです」


 康政の言葉には、誰かに許可を乞うような響きは一切なかった。ただひたすら温和で、しかし誰よりも遠い世界を見透かし、進むべき唯一の道を照らし出す実業家の声であった。重役たちは誰一人反論できず、その途方もない規模の戦略にただ圧倒され、深い感嘆とともに同意の声を上げた。


 だが、秘密を共有する和也や瑞月、そして翠玲だけは、康政の優しげな瞳の奥に秘められた「本当の願い」に気づいていた。

 康政が見据えているのは、単なる大戦の造船需要や、莫大な利益を生む広告媒体だけではない。巨大な帝国が瓦解し、極東が未曾有の混乱に陥った時、最も人々を苦しめ、殺すのは暴徒ではなく「流言飛語デマ」による群衆の恐慌パニックであることを、彼は未来の歴史から痛いほど知っているのだ。


(物理的な壁の前に、命を救えなかった悔しさは……もうあの冷たい海だけで十分だ)


 冷たい海で失われた命を想い、そして、自宅で初めて歩みを踏み出した、愛する妹の柔らかな笑顔を思い浮かべる。

 来るべき動乱の足音から人々を守るため、一斉に正しい声を届け、不安を消し去るための『無線の放送』。

 康政は、沙絵子たちが生きる未来の平和を守り抜くため、底知れぬ深い愛情と知性をもって、世界を覆う巨大な『見えざる防波堤』を静かに組み上げようとしていた。

ご一読いただき、ありがとうございます。


引き続き見守っていただければ幸いです。

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