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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第4章 白銀の波濤と、規格の防人

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第13話:白球の軌跡と、海中の産声

 明治四十三年(1910年)、一月。

 豪奢な赤レンガ造りの台湾総督府・長官室に、新城和也の重厚で落ち着いた声が響いていた。

「乃木総督。昨年は格別のご高配を賜り、心より感謝申し上げます。本年も瑞長財団は、この台湾の発展と帝国のために、粉骨砕身の覚悟で事業に邁進する所存です」

 瑞長財団の代表理事であり、新城家の長である和也が、深く、しかし堂々たる威厳を持って一礼した。

「うむ。貴財団の鉄道連絡船は、すでに内地の物流を劇的に変えつつあると聞く。帝都の議会でも、そなたらの働きを称賛する声は日増しに高まっておるぞ」

 乃木希典総督が、満足げに頷く。和也は静かに微笑み、言葉を継いだ。

「恐れ入ります。帝都におられる後藤逓信大臣のもとへも、すでに特使を遣わし、新年のご挨拶と台湾名産の品々、そして第四船竣工の報をお届けしております。大臣も大層お喜びとのことでした」

「ほう、後藤にもか。相変わらず手回しが良い」

 和也の一歩斜め後ろで、十四歳の新城康政は静かに控えていた。台湾の乃木総督、そして帝都の元台湾民政長官・後藤新平。さらには枢密院に鎮座する生存した元老・伊藤博文。表の外交と大人の信頼関係は、和也という器があってこそ完璧に機能する。康政は父の広く頼もしい背中を見つめながら、瑞長の政治的盤面がいかに強固であるかを静かに噛み締めていた。


 数日後、台北市内に設けられた巨大な広場は、凄まじい熱気と喧騒に包まれていた。

 台湾全土の建築現場、工廠、研究所、さらには港湾施設から集められた数千人規模の現場監督や技術者、従業員たちを労うための、瑞長財団主催の「大新年会」である。

「皆、よく集まってくれた! 台湾の土台を作っているのは、他でもない君たちの汗と知恵だ。今日は無礼講だ、腹の底から笑い、大いに飲んでくれ!」

 壇上に立った和也の力強い労いの言葉に、地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こる。

 その巨大な熱狂の裏側では、目まぐるしく運び込まれる酒樽や豚の丸焼き、数千人分の料理の配膳を、瑞月と翠玲の二人が一切の滞りなく完璧に指揮していた。

「第三区画の酒が足りませんわ。すぐに予備の樽を開けなさい」

「けが人が出ないよう、熱源の近くには必ず見張りを配置して」

 瑞月の艷やかで通る声と、翠玲の冷静で的確な指示が、巨大な組織の末端まで血を巡らせていく。

 だが、この巨大な宴をただの「催し」で終わらせない温もりが、そこには確かに存在していた。

「ほら、熱いうちに食べてちょうだいね。たくさんお代わりはあるから」

 会場の中心では、母である和子が湯気を立てる大鍋の前に立ち、現場で泥まみれになって働く職人たちへ、手作りの温かい料理を次々と振る舞っていた。

 その隣では、色鮮やかな台湾の果物や甘いお菓子を籠に入れ、職人たちの家族――はしゃぎ回る子供たちの小さな手に、満面の笑みで手渡して回る一人の女性がいた。侍女のリンである。彼女は康政がこの台湾に生を受けてからずっと傍で仕え、今や新城家の家事全般から、財団の命綱である暗号電信の管理までを一身に担う絶対の忠臣だ。侍女とはいえ、彼女もまた血の繋がりを越えた大切な「家族」の一員であった。

 そして、何より異質であったのは、その数千人の労働者たちの間を縫うようにして、大粒の汗を流しながら酒を注ぎ、重い皿を運んでいる若者たちの存在だった。

「あちらの卓に、豚肉の追加をお願いします!」

 泥臭く声を張り上げ、立ち働く彼らこそ、台湾の最高学府に在籍する『大学の一期生』たちであった。将来の台湾を背負うはずの青白き秀才たちが、ふんぞり返るどころか、労働者たちに頭を下げ、自ら進んで汗だくになりながら配膳係を務めている。

 康政は、喧騒の端からその光景を静かに見つめていた。労働者の汗を知らぬ者に、人の上に立つ資格はない。徹底した実学と平等主義。この光景こそが、春にやってくる帝都の新入生たちが最初に浴びることになる、強烈な洗礼への布石であった。



 二月中旬。台湾各地に新設・整備されつつある公学校(台湾の子供たちが通う小学校)の乾いたグラウンドに、甲高い歓声が響き渡っていた。

 視察に訪れた康政の足元には、子供たちには見慣れない木製のバットと、分厚い革の手袋グローブ、そして硬く縫い合わされた白球がいくつも転がっている。

 初めは遠巻きに見ていた子供たちだったが、同行した財団の若手職員がバットを構え、康政がふわりと投げた白球を快音と共に空へ弾き返した瞬間、子供たちの目の色が劇的に変わった。

「俺にも打たせろ!」「次は僕が投げる!」

 見よう見まねでグローブを手にはめ、不格好に白球を追いかけ始める子供たち。そこには、日本人も、漢人も、原住民の子供たちも関係なかった。ただ一つの球を追い、声を掛け合い、泥まみれになって笑い転げる純粋な熱狂だけがあった。

「素晴らしい熱気ですね」

 康政は、砂埃を上げて走る子供たちの姿から目を離さず、隣に立つ公学校の教師に向かって静かに語りかけた。

「康政様。ただの球遊びに財団の資金を投じて、これほど大量の道具を各地に配る意味が?」

 戸惑う教師に対し、康政は穏やかな敬語を崩さずに言葉を継いだ。

「先生。あの白球を追う彼らの間に、身分や血の違いは存在しますか?」

「え……」

「言葉や文化が違えど、一つの球を追いかけ、連携し、勝利を目指す。その熱狂は、いずれこの島に根付く見えない壁を溶かし、彼らを強く結びつける熱い血潮になります。教育と医療が『体』を創るなら、この白球は彼らの『心』を一つに束ねるためのものです」

 いずれ台湾全土を熱狂させ、民族の壁を打ち砕くことになるスポーツを通じた人心掌握の萌芽。十四歳の少年が描く、百年先を見据えた国造りの深淵に触れ、教師は思わず息を呑み、隣に立つ康政に深く頭を下げた。



 三月下旬。肌寒い海風が吹き荒れる、基隆のドック沖合。

 鉛色の波がうねる海面上に、鈍い鉄の色をした異形の塊が浮かんでいた。瑞長財団の工廠が威信を懸けて組み上げた、重油機関(ディーゼルエンジン)と大容量鉛蓄電池の二つの動力を掛け合わせた『試作潜水艇』である。

 少し離れた海上に停泊する随伴船の甲板には、康政や工廠長と共に、厳しい表情で双眼鏡を構える帝国海軍の軍人の姿があった。牧野博士と共に瑞長財団の技術研究に携わっている、海軍の真田大尉である。

「潜航を開始しました」

 技術者の緊張した声と共に、試作潜水艇のハッチが密閉され、黒い船体がゆっくりと波の底へと沈んでいく。

「いけるか……」

 真田大尉が、食い入るように海面を見つめながら唸った。

「帝国海軍が揮発油ガソリンの引火に怯えながら命がけの訓練を行っているというのに、瑞長はすでに重油機関と蓄電池、この二つの動力を掛け合わせた仕組みで海中へ挑もうとしている。この技術力は、もはや一介の民間企業の域をとうに超えている……」

 だが、引火の危険を排除したとはいえ、安全が保証されたわけではない。ひとたび水漏れが起きれば、あるいは水圧で耐圧殻が破れれば、冷たい水圧が船員たちの肺を瞬時に押し潰す。海面に残る白い泡を見つめながら、甲板には息の詰まるような沈黙と重圧がのしかかっていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 やがて、海面が大きく盛り上がり、ザバーッという激しい水音と共に、黒い鉄の鯨が再びその姿を現した。ハッチが開き、大きく息を吸い込む船員たちの姿が見えた瞬間、随伴船の甲板は爆発するような歓声と安堵の涙に包まれた。

「成功です、康政様! 艇は無事、海中から帰還しました!」

 真田大尉も興奮冷めやらぬ様子で、強く拳を握りしめている。

 だが、康政の表情に笑顔はなかった。彼は冷たい波風に前髪を揺らしながら、浮上した潜水艇をただ冷徹に見据えていた。

「……ええ。彼らは今日、生還しました。しかし」

 歓声に沸く技術者たち、そして真田大尉の方へゆっくりと振り返り、康政は静かな、しかし有無を言わさぬ重さを持った声で告げた。

「機関の爆発という危険を取り除いても、海中という未知の戦場が常に死と隣り合わせであることに変わりはありません。いつか必ず、予期せぬ事故や計器の狂いで、海という魔物が彼らを底へ引きずり込もうとする日が来ます」

 康政の言葉に、甲板の歓声が水を打ったように静まり返った。

「工廠長。早急に『潜水艇救難艦』の設計に入ってください」

「きゅう、なんかん……ですか?」

「はい。海底に沈んだ鉄の檻から、彼らの命を直接引き揚げるための専用の船です。間に合わなくなる前に、一刻も早く取り掛かりましょう。……海は、決して人間の慢心を許してはくれませんから」

 歓喜に酔うことなく、常に最悪の事態を想定し、命を重んじる。その若き支配者の冷徹なまでの責任感と底知れぬ視野の広さに、真田大尉は戦慄を覚え、工廠長と技術者たちは己の甘さを恥じ入るように深く頭を下げた。


 海風が、ふと春の匂いを運んできた。

 四月。帝都の桜が散る頃には、新渡戸稲造の推挙を受け、瑞月の厳しい審査を越えた「知の黒船」――青白き学生たちが、この南の島へと大挙して押し寄せてくる。

 医療、技術、財政、外交。瑞長財団が中長期的な視野で築き上げてきた盤石な土台の上で、いよいよ新たな時代の熱風が吹き荒れようとしていた。


第4章、完。


次話より第5章に入ります。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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