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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第4章 白銀の波濤と、規格の防人

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第5話:命の島と、受け継がれる盾

 横浜の迎賓館で大国アメリカの『白い艦隊』を実務の力で圧倒させた、あの息詰まる夜からわずか数日後のことである。

 日本の表玄関を出航した大型客船は、一路、南国の陽光が待つ台湾へと波を切って進んでいた。


 潮風の吹き抜ける甲板には、瑞長財団の面々と子供たち、そして新たに台湾総督として再任された乃木希典大将とその家族の姿がある。

 康政は眩しい海風に目を細めながら、昨晩の船室での静かな語らいを思い返していた。


 ――静かな夜のことである。

 波の音が微かに響く客船の一室で、康政は白石医師と向かい合って温かい茶を啜っていた。

「白石先生。出航前の慌ただしい中、足尾銅山の件……本当にご苦労様でした」

 康政が深く頭を下げると、白石医師は少しだけ疲労の色を見せつつも、その理知的な瞳に確かな光を宿して応えた。

「いえ。出航の間際となりましたが、古河の重役と技術者たちに、医学的見地からの『引導』をしっかりと渡してまいりました」


 事の始まりは、瑞長財団が誇る交渉人・瑞月が、古河側に圧倒的な手腕で「瑞長製浄化設備の導入」を丸呑みさせたことだった。しかし、設備を入れる約束は取り付けたものの、古河側にはまだ『あれは鉱毒ではなく、土地の風土病だ』と言い逃れようとする甘い空気が残っていたのである。

「瑞月代表がこじ開けた扉を、無駄にするわけにはいきませんからね」

 白石医師は茶を一口啜り、声に静かな怒りと威厳を滲ませた。

「重金属の蓄積が人体に引き起こす深刻な神経障害と、自然界に及ぼす不可逆的な破壊の機序メカニズム。彼らが目を背けてきたその残酷な事実を、最新の臨床結果とともに徹底的に突きつけてやりました」

「……彼らの反応は」

「青ざめ、完全に沈黙しておりました。もはや『知らなかった』『病気のせいだ』という言い訳は、医学の前に一切通用しません。自らの手で引き起こしているのが紛れもない『公害』であるという事実を、骨の髄まで認識させました」


 白石医師は小さく息を吐き、表情を和らげた。

「これで、瑞月代表がねじ込んだ浄化設備も、決して手を抜かれたり形骸化したりすることなく、厳格に稼働するはずです。私の帝都での役目は、ここまでです」

「白石先生のその『医学のメス』がなければ、いずれ彼らは設備を持て余し、再び毒を流し始めていたかもしれません。これでようやく、足尾の地に本当の救いの雨を降らせることができますね」

 康政は、窓の外に広がる暗い海を見つめ、深く頭を下げたのだった。瑞月の交渉という「盾」と、白石医師の医学という「剣」。二つの力が完全に噛み合ったことで、史実の足尾の悲劇は、確かな軌道修正を果たしたのである。


 ――そして現在。


 客船は高く汽笛を鳴らし、活気に満ちた基隆キールンの岸壁へと近づいていく。康政は甲板の先頭に立ち、乃木総督と並んで新しい台湾の景色を見つめた。帝都に蒔いた「命の救済」という種が芽吹くことを確信しながら、瑞長財団は再び、彼らの本拠地である南の島へと降り立とうとしていた。


「それにしても、児玉の奴め。相変わらず……底の知れぬ男だ」

 乃木は海を見つめながら、呆れたように、しかし深い感謝を込めて呟いた。

 晩餐会の翌日、乃木が台湾行きを決意したと報告を入れるや否や、帝都の中枢にいる盟友・児玉源太郎は猛烈な政治力を発揮した。学習院院長の後任人事から宮中への奏上、そして台湾での官舎の手配に至るまで、あらゆる事務手続きを水面下で、わずか数日のうちに完了させてしまったのだ。

「新城殿が赤坂へ向かった時点で、児玉は私が承諾することを見越して、すべての準備を終えていたのだろう。おかげで私と家族は、最低限の身の回りの品だけで、君たちと同じ船に乗ることができた」

 乃木が深い敬意を込めて視線を向けると、十三歳の康政は「我々は思いを伝えただけです」と、静かに微笑んで一礼した。


 やがて船が真新しいコンクリートの埠頭に接岸し、タラップが下ろされる。そこには、この島の歴史を動かす重鎮たちがズラリと並んで乃木を待ち受けていた。

「お戻りをお待ち申し上げておりました。我らが台湾総督、乃木大将閣下」

 口髭を蓄えた台湾総督府総務長官、後藤新平が喜びに満ちた表情で進み出ると、絶対のトップに対する最も丁寧な臣下の礼をとった。

 その後藤の隣で、武骨な軍服に身を包んだ白髪の老将――前総督である佐久間左馬太が、重々しく歩み寄る。

「よく戻られた、乃木大将殿」

 佐久間は、総督としての威儀を正した乃木に向けて深く頷いた。

「印や書類の正式な引き継ぎは、後日総督府にて行うとして……まずは私の『武力による平定』の役目が終わり、貴公と、その後ろにいる若き実務家たちが創る『命の基盤』の時代が来たことを、歓迎しよう。乃木総督、この島を託します」

 武から政へ、そして命を繋ぐ実務へ。二人の将軍による象徴的で重厚な魂の引き継ぎが交わされ、乃木はついに台湾の最高権力者として、再びその地に足を踏み入れた。


 一行は後藤らの案内で、基隆から台北へと向かう最新鋭の特別列車に乗り込んだ。

 乃木の記憶に深く刻み込まれている十年前の台湾は、泥まみれの道とマラリアが蔓延する「死の島」であった。だが、列車の窓から外の景色を眺める乃木の目は、驚愕に大きく見開かれていた。

 眼下に広がる道に泥濘などなく、清潔な煉瓦と石で舗装されている。そして街の血管のように張り巡らされた上下水道が、太陽の光を反射して輝いていた。

「総督を苦しめたマラリアなどの伝染病は、淀んだ水で繁殖する蚊と、不衛生な水質が最大の原因です」

 向かいの席で、後藤新平が誇らしげに語る。

「我々総督府は、瑞長商会の莫大な資本と規格化の力を用いて、この島全土に『清潔な水』を循環させる基盤を構築しました。病魔という見えない敵は、大砲ではなく、この衛生と土木でねじ伏せたのです」


 その言葉を裏付けるように、数日間の船旅を終えたばかりの子供たちが、窓の外を見ながら無邪気な声を上げた。

「あー、やっぱり台湾ここは空気が綺麗だね! 大きく息が吸えるよ!」

 ロンドンを知るトーマスが、両手を広げて深呼吸をする。

「ええ、帝都は馬車の土埃や石炭の煙で、少し息苦しかったもの。列車の揺れも少なくて快適だわ」

 アリスも大きく頷き、安堵の笑みを浮かべた。

「帝都の交差点みたいに、馬車と市電の車輪が絡まって動けなくなることもないし……私、数日帝都を見てよくわかったわ。康政様たちが作ったこの島の仕組みって、世界と比べてもすごく特別なのね」

 その西洋の子供たちの生きた言葉に、乃木は息を呑んだ。近代化の最先端である西洋を知り、数日前まで日本の中心を見ていた子供たちが、安堵とともに「この極東の島の基盤こそが最も優れている」と実感を持って口にしているのだ。


「……父上」

 生き残った御子息が、車窓から見える清潔な街並みを見つめながら静かに口を開いた。

「泥水や水たまりが一つもありません。あの凄惨で不潔だった前線とは、まるで別世界です」

「ええ……」静子夫人もまた、目頭を押さえながら震える声で同意した。「あなたがかつて、どれほど心を砕いても救えなかった風土病の島が、こんなにも清らかな『命の島』に変わるなんて……」

 最愛の家族のその言葉を聞き、乃木は無言のまま目を閉じた。長年彼を縛り付けていた「部下を病で死なせた悔恨」の冷たい氷が完全に溶け去り、熱い震えとなって全身を駆け巡った。


 やがて列車は台北駅に到着し、一行は新城家の本邸へと足を踏み入れた。

「康政、和也さん、瑞月さん! お帰りなさい、ご無事で……本当によかった……」

 玄関で待ち受けていたのは、康政の母である和子と、台湾での実務を裏から支えるリンであった。二人の目には、無事に大仕事を終えて帰ってきた家族への安堵の涙が浮かんでいる。

 その温かい出迎えを受けた瞬間、大国を震え上がらせてきた康政の「冷徹なトップ」としての張り詰めた気配が、ふっと柔らかく解け落ちた。

「母さん、リンさん。ただいま戻りました」

 康政は、家族を心から愛する、謙虚で優しい息子と兄の顔に戻り、深く頭を下げた。

「留守の間、しっかりと家を守ってくれてありがとう。……母さん、沙絵子はまだ寝ているかな?」

「ええ、さっきまで起きていたけれど、今は奥の部屋ですやすや眠っているわよ」

「よかった。少しだけ、顔を見てきてもいいですか」

 康政は母に優しく微笑みかけると、静かな、しかし逸る足取りで一直線に奥の部屋へと向かっていった。


 陽光が差し込む静かな部屋。そこには、真新しいベビーベッドで規則正しい寝息を立てる、生まれたばかりの赤ん坊――康政の妹、沙絵子の姿があった。

 その無垢な寝顔を見た瞬間、康政はベッドの縁にそっと両手をつき、まるで祈るように目を伏せた。彼の肉体は十三歳の少年だが、その内には四十代の酸いも甘いも噛み分けた大人の魂が宿っている。

「……ただいま、沙絵子」

 康政は、壊れ物を扱うように極めて慎重に、赤ん坊の小さな手を自分の指で包み込んだ。

「もう大丈夫だ。君が将来、理不尽な暴力や病に脅かされることのないよう、僕が必ず、この世界に強固な盾を築き上げてみせる。だから、安心して大きくなるんだよ」

 その声音には、冷徹な計算など微塵もない。己の全てを懸けて家族の命を守り抜こうとする、不器用なほどに深く、温かい無償の愛そのものであった。


 その様子を、半開きの襖の隙間から、同行してきた子供たちが静かに見つめていた。

「……驚いたな。あのアメリカの将校たちを震え上がらせた康政が、あんなに優しい顔をするなんて」

 御子柴烈が信じられないものを見るような目で呟き、久世景秀も無言で眼鏡の位置を直す。

 だが、その男子たちの驚きをよそに、橘響子だけは一人、音もなく部屋の中へと足を踏み入れていた。

 響子は康政の邪魔にならないよう、ベビーベッドの窓際へ静かに回り込むと、差し込み始めた午後の強い西日を遮るように、薄絹のカーテンをサッと引いた。部屋の光が、赤ん坊の眠りを妨げない柔らかなものへと変わる。

「……響子さん?」

 康政が小さく振り返ると、響子は厨房に立つ時と同じ、聡明で優しい笑みを浮かべていた。

「烈くん、景秀くん。驚くことじゃないわ」

 響子は、襖の外にいる少年たちに向けて、そして目の前の康政に向けて、静かに言葉を紡いだ。

「いかに巨大な兵站や仕組みを築こうとも、その中心に『守るべき命と温かさ』がなければ、ただの冷たい鉄の塊よ。康政くんのあの冷徹な計算はすべて、この温かさを守り抜くためのものなのね」

 響子はそう言って、熟睡する沙絵子の布団の乱れをそっと直した。大国の艦隊を動かした康政の手と、日々の命を支える響子の手が、ごく自然に、一つの小さな命を守るために動いている。


 その美しい光景を、乃木大将は静かに後ろから見つめていた。

(……見事だ。新城康政、君の本当の強さ、しかとこの目で見届けた)

 己の全てを懸けて、次世代の命を守り抜く。あの途方もなく深い『家族と未来への祈り』こそが、この若き怪物たちを動かす最強の原動力だったのだ。

「私も、君たちの深き祈りに負けてはいられんな」

 乃木は誰に聞こえるでもなく、低く力強い声で呟いた。

「次なる世代が決して無駄死にすることのない完璧な要塞を、この命の島で、二度と無駄死にを出さぬ盾を――共に築こうはないか」

 南国の柔らかな光の下、乃木希典の魂に、生涯で最も熱く、そして澄み切った戦いの炎が燃え上がっていた。

読んで頂きありがとうございます。


誤字報告助かります。感謝申し上げます。

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