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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第4章 白銀の波濤と、規格の防人

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第2話:帝都の華、双璧の淑女

 明治四十一年(一九〇八年)、八月後半。

 基隆キールンの港に横付けされた『瑞長丸』の巨体は、朝の光を浴びて鈍い銀色の光を放っていた。瑞長商会が初めて自社建造した記念すべき貨客船。その武骨ながらも信頼感のある姿は、これから始まる長い旅路の頼もしき相棒だった。

 桟橋では、見送りに集まった工員やその家族たちの喧騒が響いている。これから内地へ向かう一行を、財団の代理人として見送る阿長あちょうの表情は、いつになく引き締まっていた。

「阿長、僕たちが不在の間、台湾のすべてを君に託す。何かあれば、迷わず君の判断で動いてほしい。あと母の事くれぐれもよろしく」

 僕が差し出した手を、阿長は両手で包み込むようにして固く握り返した。

「心得ています、康政様。現場の荒金親方も、揉め事に強い陳さんも、皆が康政様の帰りを待っています。ここは私たちが命に代えても守り抜く、大切な『家』ですから、もちろん和子様もです」

 そこへ、黒塗りの馬車が静かに止まった。降り立ったのは、台湾総督府民政長官・後藤新平である。

「新城君、いよいよ発つか。帝都では児玉閣下にお会いすると聞いている」

「はい。後藤長官。留守の間、特区の民草のこと、何卒よろしくお願い申し上げます」

 僕が深く頭を下げると、後藤は眼鏡の奥の鋭い眼光を少しだけ和らげた。

「案ずるな。君の築いたこの経済の環は、もはや総督府にとっても失えぬ国益だ。不穏な動きがあれば、私が責任を持って封じよう。君は君の信じる道を、帝都で示してくるがいい」

 かつての政敵から贈られた、それは確かな信頼の証であった。


 出航した瑞長丸の甲板では、外国人技師の子供たちと、日本の学友たちが言葉の壁を越えてキャッチボールに興じていた。その無邪気な笑い声を、翠玲スイレイは慈しむような眼差しで見守っていた。

「翠玲さん、子供たちの世話まで任せてしまって、すみません」

 歩み寄った僕に、翠玲は静かに首を振った。

「いいえ、康政様。この子たちの無垢な笑顔こそが、私たちが守るべき未来の姿です。康政様こそ、少しお顔色が優れません。帝都での重責、どうぞお独りで背負い込まないでくださいね」

 彼女の包み込むような言葉に、僕は張り詰めていた心がわずかに解けるのを感じた。


 船内のサロンでは、医学的な知見を携えた白石医師が、膨大な資料と向き合っていた。その後ろには、僕が設立した『瑞長塾』の第一期生の中から選抜された、数名の若者たちが静かに控えている。彼らは十代後半から二十代前半と年齢は様々だが、いずれも厳しい実学を修め、流暢な日本語と高度な計算能力を身につけた即戦力であった。彼らは僕の意図を汲み、白石医師が求める前に必要な医学統計の数値を瞬時に紙に書き出し、無言で差し出している。

「康政君。足尾の件、古河側は経済的な損失ばかりを口にするだろうが、私は『命の負債』という観点から彼らを突くつもりだ。医学が経済の奴隷であってはならんからな」

 白石医師の静かな、しかし鉄のような意志。僕はこの旅が単なる会談ではなく、日本の歪みを正すための戦いであることを再確認した。そして同時に、背後に控える塾生たちに視線を送った。彼らをこの旅に同行させたのは、実務の補佐だけが目的ではない。帝都という「文明の中心」と、そこに巣食う「古いシステムの現実」を彼ら自身の肌で感じさせ、次代を担う視野を広げさせるための、僕なりの生きた教育であった。


 数日の航海を経て、瑞長丸がいよいよ帝都の玄関口である横浜港へ横付けされようとしていた時のことだ。

 甲板の最前列には、海風に吹かれながら目の前に広がる「日本の中心」に目を輝かせる五人の少年少女たちの姿があった。学友である御子柴烈みこしば れつ久世景秀くぜ かげひで橘響子たちばな きょうこ、そして外国人技師の子供であるトーマスとアリスである。

「すっげえ……! あれが帝国海軍の戦艦か! 大砲、俺の背丈より太いぞ!」

 血の気の多い御子柴烈は、横須賀方面から回航してきている灰色の軍艦群を見下ろして身を乗り出した。しかし、目をキラキラさせていた彼の表情は、軍艦の足元で行われている作業を見て、すぐに不思議そうなものに変わった。

「なぁ、なんであんなに大勢の人が、竹の籠を背負って泥だらけになってるんだ? 石炭を積むなら、台湾の工事現場みたいにトロッコを使えばいいのに。あんな手作業じゃ、戦う前に疲れちまうぞ」

 烈の素朴な疑問に、イギリス人技師の息子であるトーマスと、アメリカ人技師の娘アリスも、手すりから顔を出して港を見下ろした。

「ほんとだ。パパが作ってる港より、ずっと人や馬車がごちゃごちゃしてるね。イギリスの船着き場は、もっと道がスッキリ分かれてるよ」

「馬のフンもいっぱい落ちてるわ。あんな道を歩いたら、ドレスが汚れちゃう」

 トーマスとアリスは、母国や台湾の整然とした現場と比べ、華やかなはずの帝都の港が、実はとても「窮屈で不器用」であることに子供ながらに気づいていた。


 一方、将来は華族として政界に進むことになる久世景秀は、港の設備ではなく、行き交う「大人たち」の様子を冷ややかに観察していた。

「面白いな。あそこで偉そうに怒鳴り散らしてる税関の役人たち、うちの船の『瑞長商会』の旗を見た途端に、急にペコペコして道を開けたぞ」

 景秀は鼻で笑った。ただの学生である彼はこの瞬間、大人たちが振りかざす「バッジや制服」よりも、商会が持つ「お金と力」の方が強いのだという、生々しい現実を肌で感じ取っていた。

 響子はそんな男子たちの会話を聞きながら、無言で僕から預かった手帳に、港の人だかりや建物の配置を一生懸命にスケッチしていた。だが、タラップが下ろされ、一行が埠頭へと降り立った瞬間、彼女の手はピタリと止まった。


 喧騒に包まれた埠頭の最前列。

 一台のピカピカに磨かれた黒塗りの馬車が停まっており、その傍らに、周囲の空気をピンと張り詰めさせるような女性が立っていた。瑞長商会の代表、瑞月姉さん陳瑞月チェン・ルイズエである。

 彼女が纏う漆黒のドレスは、子供の目から見てもため息が出るほど美しく、洗練されていた。だが、響子たちを釘付けにしたのは、その「怖いくらいの美しさ」だ。外国の立派な貿易商や、強面の警察官たちでさえ、彼女が一瞥するだけで、まるで魔法にかけられたように道を譲っていく。

「……すごい」

 響子は、思わず手帳を胸に抱きしめた。台湾では「康政くんのところの綺麗な女の人」くらいに思っていた瑞月が、この大きな帝都の入り口では、大人たちをたった一人で従える「女王様」のように見えたのだ。瑞月のその姿は、響子の胸の奥に「私もあんな風になりたい」という強烈な憧れを植え付けた。やんちゃな烈や、少し斜に構えていた景秀でさえ、海軍の将校すら目を逸らす瑞月の威圧感に気圧され、思わず背筋をピンと伸ばしてしまう。


 子供たちがガチガチに緊張しているのを見透かしたように、瑞月はふっと優しく、けれどどこか悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「ようこそ、帝都へ。長旅、ご苦労様でした。あなたたちが今見ている華やかな景色は、実はとても不器用で、古い仕組みで動いています。康政と一緒に、その『裏側』でどんなことが起きているか……しっかり、見学しておいでなさい」

 ただの楽しい修学旅行ではない。大人たちの本当の世界を覗く旅が始まるのだと、子供たちはゴクリと息を呑み、誰一人として目を逸らすことなく力強く頷いた。


「瑞月姉さん、出迎えありがとう。古河との交渉の首尾はどうでしたか」

 僕が声をかけると、瑞月は扇子を優雅に広げた。

「ふふ、近藤さんと共に、古河の重役たちには『瑞長財団と手を取り合わぬ未来がいかに暗いか』を、骨の髄まで理解していただいたわ。彼ら、今は貴方にお会いして赦しを請う日を、震えて待っておりますよ」

 不敵な微笑みを浮かべる瑞月。翠玲の慈愛と瑞月の知略。瑞長財団を支える双璧の淑女が揃い、一行はいよいよ、帝都の深部へと足を踏み入れる。同行した塾生たちは、港湾施設のクレーンの配置や、行き交う荷馬車の非効率な動きを、冷徹な観察眼で無言のまま手帳に書き留めていた。


 その日の夕刻。僕、父・和也、瑞月、翠玲、白石の一行は、軍の最重鎮・児玉源太郎大将の私邸を訪れた。書斎に通された僕たちは、上座に座る児玉大将に対し、最敬礼を捧げた。部屋の隅には、塾生の一人が鞄を抱えて彫像のように控えている。

「新城和也、並びに康政にございます。拝謁の栄を賜り、心より感謝申し上げます、児玉閣下」

 父の重々しい挨拶に、児玉は鋭い視線を向けた。

「堅苦しい挨拶は抜きにせよと言いたいところだが……新城、貴様の連れてきた面々は、どうやら遊びに来たわけではなさそうだな」


 僕が小さく手を動かすと、控えていた塾生が一歩進み出て、持参した魔法瓶をテーブルに置き、音を立てずにグラスを並べた。僕はそのグラスにアイスコーヒーを注ぎ、静かに差し出した。

「閣下、この酷暑に、まずは一時の涼を。この氷は、僕達が独自に開発した断熱技術によるものです。物流が温度を支配する。それは前線の兵士に生温い水ではなく、氷を届ける力に他なりません」

 児玉は冷え切ったグラスを手に取り、その氷の感触に眉を動かした。一口飲み、その深い味わいに息を吐き出す。

「面白い。だが、この程度の『手品』で、軍の人事を動かそうというのではあるまいな。乃木を台湾へ、だと? 奴は今、陛下の思し召しで学習院長を務めておるのだぞ。それを動かすことが、どれほど重い意味を持つか、分かっておるのか」


 児玉の声は低く、部屋の空気が一気に重くなる。その眼光は、数多の戦場を潜り抜けてきた名将特有の、人の本質を射抜くような鋭さがあった。

「重々承知しております、閣下。不遜を承知で申し上げれば、乃木閣下の現在のお姿は、かつて台湾総督として苦悩されていた当時よりも、さらに痛ましく私の目に映るのです」

 僕は言葉を選び、しかし決然と語りかけた。

「乃木閣下は今も、旅順での犠牲を一身に背負い、静寂の中に身を置いておられます。ですが、その高潔な精神が、いつか自らを追い詰めてしまわれるのではないか。……余計な越権行為とは存じますが、僕は閣下にこそ、再び『前線』に立っていただきたいのです。それも、かつて我々の医療で命を繋いだご子息を配下に従え、親子で台湾の防衛を担うという形で。共に向こうへ来ていただくよう、閣下からお力添えをいただけないでしょうか」


 沈黙が流れた。児玉は最後のアイスコーヒーを飲み干すと、グラスを机に置いた。

「貴様、乃木に『死に場所』を与えぬつもりか。あ奴を、もう一度泥臭い実務の現場に引きずり戻せというのだな」

 児玉の表情は依然として厳しいが、その言葉には親友を案じる者としての苦い響きがあった。

「はい。閣下には、陛下の赤子を守るという新たな使命を、台湾で果たしていただきたいのです。白石医師の医学的知見による兵員の健康管理、そして我が財団の物流。これら全てを乃木閣下の指揮下に置き、血を流さぬ最強の防衛体制を築く。これこそが、乃木閣下に相応しい『新たな戦い』であると信じます」


 児玉は大きく息を吐き出した。

「小生意気な若造め。軍の統帥権を、一商会の理屈で動かそうというのか。だが……その独善的なまでの熱意、嫌いではない。白石医師の医学的進言、そして瑞月殿の地政学的分析。それに、貴様の後ろで微動だにせず控えている、その若き実務家たちの練度。新城、貴様の周りには日本を動かす要素が揃っておるな。よかろう。この技術、この論理。俺が責任を持って陛下に奏上し、乃木を台湾へ送る道を作ってやる。ただし、あ奴を説得するのは他ならぬ貴様らだぞ」


 邸を辞し、馬車に揺られる僕たちの横顔は、一様に引き締まっていた。瑞月が、静かに一通の電信を僕に差し出した。

「康政、グレート・ホワイト・フリートの動きが早まっているわ。彼らの入港まで、もう猶予はない。横浜の迎賓室の準備は完了しているけれど、本当にあのアメリカ人たちに、あんな『甘い罠』を仕掛けるつもり?」

 僕は、夜の東京の街並みを見つめながら、静かに答えた。

「罠ではありません。彼らに、戦うよりも協力する方が遥かに『合理的』であることを、胃袋と五感に刻み込ませるだけです。瑞月姉さん、翠玲さん。明日は、いよいよ乃木閣下との面会です。日本の未来を、ここから変えに行きましょう」


 翠玲が僕の手の上に、そっと自分の手を重ねた。

「康政様なら、きっと大丈夫です」

 二人の姉、信頼する仲間たち、そして次代を担う塾生たち。最強の布陣を得て、新城康政はついに、歴史の巨星との対峙へと向かう。その会談が、日本の行方を大きく歪めることになるとは、この時まだ誰も知らなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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引き続き見守っていただければ幸いです。

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