第14話:基隆の春
明治四十一年(一九〇八年)、一月一日。
基隆の海から吹きつける風は冷たいが、瑞長財団の『基隆園』は、早朝から柔らかな高揚感に包まれていた。
今日から三日間、財団のすべての工廠と研究所は火を落とし、完全な休息に入る。康政の信条は「精緻な労働には、質の高い休息が不可欠である」というものだ。無理な稼働は規格の狂いを生む。それは実務家として最も避けるべき事態であった。
正午。庭園の中央広場には、財団の全職員とその家族、二千名を超える人々が、身分や国籍を越えて一堂に会していた。演壇に立った父・和也が、低く、威厳のある声で語りかける。
「皆、この一年、実によく励んでくれた。我々がこの地で進めている事業は、単なる商売ではない。海を越えた人々が手を取り合い、新しい時代の『安心』を造り上げる聖業である。……ここに集うすべての者が、瑞長財団という一つの大きな家族だ。諸君らの健勝と、我らが事業の益々の発展を願い、乾杯しよう!」
「「「乾杯!!」」」
地響きのような歓声とともに、和也が力強く杯を上げる。公の場での父さんは、あくまで冷徹かつ情熱的な総帥として振る舞い、工員たちの忠誠心を束ねていた。
宴が終わり、家族だけで囲んだ静かな食膳の席。
三ヶ月前の秋、中秋節の夜に父さんから「新しい命」の知らせを聞いて以来、新城家の絆はより一層深まっていた。母・和子の腹部は、冬の羽織の上からでもそれと分かるほどにふっくらと膨らみ、その穏やかな微笑みは、家族全員にとっての北極星のような安らぎとなっていた。
「和子、具合はどうだい? 台北から基隆までの移動は、やはり体に障ったのではないか」
和也がいたわるように問いかけると、母さんは優しく首を振った。
「いいえ、あなた。康政や瑞月さんの顔を見れば、疲れなど吹き飛びますわ。この子も、お兄様たちの造る活気ある音が大好きなようです」
康政は、母さんの膨らんだお腹にそっと目を向けた。生まれてくる新しい命。その子が歩む道に、戦争や病の影を落としてはならない。自らが推し進める「規格化」という名の盾が、いかに重く、尊いものかを再認識する正月となった。
一月四日。仕事始めの前日、基隆園の広場で恒例の野球大会が開催された。
対戦相手は、基隆の治安と物流を司るエリート集団『基隆守備隊・港務局混成チーム』である。
「康政! 今日は接待野球じゃないぞ! 軍人の意地を見せてやる!」
相手チームの投手としてマウンドに立つ若手将校が、豪速球を投げ込む。
対する『新城オールスターズ』は、康政、御子柴烈、橘響子を核とし、外野には呉明輝や、技術者の息子エドワードたちが名を連ねる。
「試合開始!」
試合は予想外の熱戦となった。力押しの守備隊に対し、康政たちは徹底した「合理的な守備隊形」と「緻密な連携」で対抗する。
「二塁、二歩右だ!」
響子の鋭い指示に、エドワードが俊敏に動く。言葉は通じずとも、野球という共通の「ルール(規格)」が、国籍の異なる彼らを一つの生命体のように繋いでいた。
最終回、康政が放った鋭い打球が右中間を破る。泥まみれになって三塁に滑り込む康政に、観客席の工員たちから地響きのような「シンジョウ!」コールが沸き起こった。この親睦試合を通じて、財団と地域の権力層との間には、理屈ではない奇妙な連帯感が芽生え始めていた。
三月
基隆の第一ドックでは、冬の雨を突いて、二千屯級貨客船の「肋材」が、ついに巨大なクジラの骨組みのように立ち上がり始めた。
海軍から派遣された老練な親方衆と、呉明輝たち現地の若者が、泥にまみれながら一つの鋼を打ち鳴らしている。
船の形が見え始めるたび、康政はそこに新しい命の産声を聞くような錯覚を覚えた。
一九〇八年、春。
鉄の産声は、静かに、確実にその音量を増していた。
14話にて第3章完となります。次話より第4章に入ります。
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第4章では、帝都編が動き出します。
引き続き見守っていただければ幸いです。




