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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第3章 世界を繋ぐ規格の牙

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第13話:中秋の月と、鋼鉄の竜骨

 明治四十年(一九〇七年)、九月下旬。

 台湾の夏は、去り際に一際強い湿り気を残していく。だが今宵、基隆キールンの街を包む風には、確かな秋の涼気と、家々から漂う線香の芳香が混じり合っていた。


 今宵は「中秋節ちゅうしゅうせつ」。

 この日のために、僕は八田與一はった よいちに命じ、工廠に隣接する広大な荒地を、国籍も身分も問わずに人々が憩える庭園へと作り変えさせた。その名も『基隆園』。

 庭園の中央に据えられた人工池には、工廠の最新設備から引かれた清冽な水が流れ込み、水面に映る巨大な満月を、無数の赤い提灯ランタンと最新の白熱電球が鮮やかに彩っている。


「康政、見てくれ! この提灯、僕が描いたんだ!」

 御子柴烈みこしば れつが、顔を油まみれにして誇らしげに指差したのは、武骨な軍艦の絵が描かれたどこか不格好だが力強い提灯だった。

「いい絵だね、御子柴。工廠の明かりに負けていないよ」

 僕が笑って答えると、隣では橘響子たちばな きょうこが、ニューヨークから来た技師の娘アリスに、手慣れた所作で月餅げっぺいを切り分けていた。


 池の対岸には、台北タイペイからこの日のために駆けつけた父・和也と母・和子の姿があった。

 父さんは台北の拠点で、総督府の官僚たちや地元資本家との神経を擦り切らすような折衝を日々続けている。母さんはそんな父さんを支えつつ、異国の地で不安を抱える技師の妻たちの良き相談役となっていた。

 瑞月みづき姉さんが二人の傍らに立ち、月光を浴びて白く光る横顔で何かを語りかけている。その穏やかな光景を見つめていると、父さんが僕を呼び寄せ、人目を忍ぶように声を低めて告げた。


「康政、まだ誰にも言ってはいないのだが、お母さんの体に、新しい命が宿ったようだ」

 その言葉に、僕は一瞬、言葉を失った。

「本当ですか、父さん」

「ああ。この地に来て、お前たちの活躍を見て安心したのかもしれんな」

 父さんが照れ臭そうに笑う。母さんの膨らみ始めたお腹には、僕の弟か、あるいは妹となる命が息づいているのだ。

 この時代、出産は常に死と隣り合わせの命がけの儀式だ。そしてこの子が成人する頃、世界はより残酷な戦火に包まれているかもしれない。

(守らなければならない)

 僕が作ろうとしているこの「規格」という名の盾は、まだ見ぬ家族を守るためのものでもあるのだと、改めて胸に深く刻んだ。



「美しい月ですね、ダンカン氏」

 水辺の石ベンチで、一人琥珀色のウィスキーを揺らしていたアリスター・ダンカンに声をかけた。

「ええ、ミスター・シンジョウ。故郷グラスゴーの月よりも明るい。だが、私の心は曇ったままです」

 彼は忌々しそうに工廠の煙突を睨んだ。

「あの電気炉は、私の計算通りに動いていない。台湾のこの呪わしい多湿な空気が、冷却の瞬間に鋼の組成を狂わせる。ひび割れ(クラック)の屍をこれ以上積み上げれば、私は冶金技師としての看板を池に投げ捨てるしかない」


 その時、彼の足元で図面を整理していた助手の呉明輝ウー・ミンフイが、静かに、しかし決然とした口調で茶を差し出した。

「ダンカン先生。......1つ、試していただきたいことがあります」

 明輝は僕を介して、現地の鍛冶屋に伝わる古い伝承を語り始めた。

「僕の親戚に、農具を打つ鍛冶屋がいます。彼らは湿度の高い夜に大きな鉄を打つ時、冷え方がまばらになって割れるのを防ぐため、冷却用の砂に『特定の貝殻を焼いた灰』を混ぜて、熱が逃げる速度をわざと遅くするんです。先生の図面にある『温度低下の理想的な曲線』に、その灰の分量を計算して当てはめられないでしょうか」


 ダンカンは最初、鼻で笑おうとした。だが、明輝が地面の砂に小枝で描き出した「熱伝導率の推移グラフ」を見た瞬間、彼の目は職人のそれへと変わった。

「……これは……バカな。数値をあえて『停滞』させるのか? いや、待て。この気候下では、それが冷却曲線を理想形に近づける、唯一のパズルの一片になる……のか?」

 ダンカンは飲みかけのグラスを置き、明輝の肩を掴んだ。

「ミスター・シンジョウ、宴は終わりだ。今すぐ工廠を開けてくれ! 炉の余熱が消える前に、この少年の『魔法の灰』を試す!」

 

 翌朝。朝靄に包まれた工廠の片隅で――

「……割れない」

 ダンカンが呟いた声は、震えていた。次の瞬間、彼は狂ったように笑い出した。

「成功だ! 我々はついに、この気候を“支配した”ぞ!」

 明輝は、息を呑んだまま、その光景を見つめていた。 


 荒金源三あらかね げんぞうが雄叫びを上げた。

「若様! やりました! 完璧です!」

 油圧プレスによって極限までU字にねじ曲げられながらも、表面に一筋の亀裂すら走らせず耐え抜いた、鈍色の特殊鋼の試験片。

 荒金が震える指でそれを撫でる。

「これほどの靭性じんせい。国産の、いや、世界でも稀に見る高張力鋼です! これなら潜水艦の耐圧殻どころか、戦艦の装甲すら凌駕できます!」


「素晴らしい成果です、荒金さん」

 僕は試作結果の数値を精査しながら、静かに、しかし冷徹な判断を下した。

「ですが、潜水艇の建造はまだ先です。一度に精錬できるのは、せいぜい十数屯。この貴重な鋼を、まずは僕たちの物流の核となる『二千屯級の中型高速貨客船』の心臓部……主機関区と推進軸に注ぎ込みます。実績がないのなら、素材の圧倒的優位でそれを埋めるんです」



 数日後。瑞長財団の執務室は、張り詰めた沈黙に支配されていた。

 訪れたのは、大日本帝国海軍の精鋭、神崎鋭治かんざき えいじ中佐。そして、砲術の専門家として随行した若き米内光政よない みつまさ大尉である。


「瑞長財団が手にしたという特殊鋼の配合技術。それを、帝国の国益のために『無償提供』していただきたい」

 神崎中佐の言葉は、提案という名の命令だった。だが、瑞月姉さんはその圧倒的な美貌に、慈愛に満ちた、しかし心の底を凍らせるような微笑を浮かべて応じた。


「中佐殿、実務のお話をしましょう。海軍省は現在、日露戦争の外債利払いに追われ、新規の戦艦建造予算を大蔵省に完全に凍結されている。違いますか?」


 神崎の表情が、一瞬で凍りついた。

 帝都・東京の瑞長財団『東京支部』は、金融網を通じて政財界の深奥からこの情報を引き出し、海底ケーブル経由の商業暗号として、台北の父さんの元へ届けていたのだ。

「予算が下りない以上、技術を奪い取るしかない。それが『本音』でしょう? ですが、瑞長財団は国家の慈悲を乞う慈善団体ではありませんわ」


 瑞月姉さんは、一枚の契約書を卓上に滑らせた。

「技術は売りません。ですが、海軍が真にその鋼を必要とするのなら、適正な価格で『納入』して差し上げます。ただし、対価は金銭だけでは足りません。呉や横須賀の海軍工廠から、優秀な火工職人とリベット工の親方衆を十数名、期間限定で我が造船所に『出向』させていただきたいのです。財団の技術を学んだ彼らが軍に戻る頃には、帝国の至宝となっているはずですわ」


 神崎は絶句した。技術を拒みつつ、軍の熟練職人の「腕」を合法的に借り受け、自社の実績不足を埋める。目の前の女性は、海軍すら自らの造船の『道具』として利用しようとしていた。



 一方、現場では米内大尉が、破壊試験にかけられた鋼鉄の破片を、食い入るように見つめていた。

「信じられん。国産の炉で、この数値を叩き出したのか」

 二十七歳の青年将校は、油圧プレス機で限界まで曲げられながらも、決して折れることなく耐え抜いた『試験片』と、その引張試験のデータ記録を食い入るように見つめていた。

「私は鍛冶屋ではないので、製造の過程は分からん。だが、大砲を撃つ側の人間として、この数値が示す『靭性』の意味は痛いほど分かる。もし我が軍の主砲の砲身にこの鋼が使えれば、今の何倍もの圧力で、より重い砲弾を撃ち出せる」


「お気に召しましたか、米内大尉殿」

 執務室から戻ってきた僕が声をかけると、米内大尉は長く、重い沈黙の後、深く頷いた。

「……恐ろしいな」

 米内は低く呟いた。

「この鋼があれば、戦の“前提”そのものが変わる。いつか、海軍が君たちの『規格』に救われる日が来るかもしれん」

 そう言い残していった。


 中秋の宴から、瞬く間に三ヶ月が過ぎ去った。

 台湾の秋は短く、十一月を過ぎると基隆の街は断続的な雨と、北からの冷たい湿った風に包まれるようになる。


 その間、基隆工廠はかつてない熱狂の中にあった。

 十月。神崎中佐との約束通り、呉や横須賀から十数名の老練な親方衆が到着した。彼らは当初、台湾の未熟な工員たちを「野蛮な素人」と侮っていたが、康政が提示した十分の一ミリ単位の精密な計測機器と、明輝が主導する徹底した温度管理方式を目の当たりにし、その自尊心は数週間で「驚愕」へと変わった。


 そして何より僕たちを支えたのは、台湾中から集まった六百名の地元工員たちだった。

「若様、地元の連中は飲み込みが早いです。親方の鉄拳にもめげず、新城規格を自分のものにしようと必死ですよ」

 明輝が報告する通り、僕たちは東京支部を通じて「技術を教えるための指導員」こそ内地から招いたが、汗を流す実働部隊は可能な限り台湾の人々で固めた。この島に真の産業を根付かせるという意志こそが、彼らの忠誠心を引き出し、驚異的な速度で「混成造船部隊」を作り上げたのだ。


 十一月。英国グラスゴーから、貨客船の「背骨」となる長大な竜骨キールの鋼材が、巨大なクレーン船によってドックへと運び込まれた。母さんの体調は安定しており、台北の邸宅で穏やかに過ごしているという。その知らせが届くたび、ドックに響くハンマーの音は、僕の耳に祝福の鐘のように鳴り響いた。


 十二月。明治四十年の暮れ。

 灰色の雨雲が垂れ込める基隆の空の下、第一ドックの底には、泥と油にまみれながらも誇り高く立つ男たちの姿があった。


「いよいよですなぁ」

 作業服に身を包んだ荒金が、その巨大な鉄の背骨を見上げていた。

「ああ。ここから、僕たちの物流が始まるんだ」


 火工の親方が、新城規格の特殊鋼で鍛えられた巨大な木槌ハンマーを下ろす合図を送る。


読んで頂きありがとうございます。


誤字報告助かります。感謝申し上げます。

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