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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第3章 世界を繋ぐ規格の牙

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第11話:未完の鼓動と、海を渡る友垣

 明治四十年(一九〇七年)、七月中旬。

 台湾北部の気候は、容赦のない熱気と湿気をはらみ、人間の体力と気力を根こそぎ奪い去ろうとしていた。


 基隆キールンの巨大工廠内には、怒号と金属音がこだましていた。僕、新城康政しんじょう やすまさは、首に巻いた手拭いで絶え間なく流れる汗を拭いながら、目の前で繰り広げられる「実務の泥沼」を睨みつけていた。


「ノオォ! 違う、ミスター・ハッタ! これでは全くお話にならない!」

 アメリカから招いた生産管理技師、サミュエル・ミラーが、顔を真っ赤にして叫んだ。彼の手には、最新鋭のプラット・アンド・ホイットニー社製精密旋盤に取り付けられた水準器が握られている。

「デトロイトの工場では、基礎コンクリートの誤差はコンマ数ミリ単位だ。だがこの台座は、右奥に向かってわずかに沈み込んでいる! これでは主軸が歪み、新城規格の公差など到底出せない!」

 通訳を介してその言葉を聞いた土木技師の八田與一はった よいちが、泥だらけの地下足袋を踏み鳴らして怒鳴り返す。

「ふざけるな毛唐(けとう)! ここは数ヶ月前まで海の底だった埋立地だぞ! 毎日これだけ重い鉄の塊を降ろせば、地盤が数ミリ沈むのなんか当たり前だ! 俺のコンクリートのせいにするな!」


 最新の機械ハードを海を越えて持ち込んでも、それを支える地盤(環境)が適応しなければ、ただの鉄のオブジェに過ぎない。これが、設計図だけでは決してわからない「現場の洗礼」であった。


「二人とも、そこまでです」

 僕は水筒の麦茶をあおり、二人の間に割って入った。

「ミラーさん。ここはニューヨークではない。気候も地盤も違う場所で、本国と全く同じ条件を求めるのは非合理的だ。八田さん、文句を言う前に『シム(調整用の薄い金属板)』を何枚か重ねて、台座の四隅の水平をミリ単位で出し直してください。地盤が沈むなら、沈んだ後の状態で固定するしかない」


 僕は自らスパナを握り、油と泥に塗れながら、巨大な旋盤の足元に潜り込んだ。

 一二歳の細い腕では、太いボルトを締めるだけで息が上がる。だが、総責任者である僕自身が泥にまみれ、「新城規格」の妥協なき水平出しを実践して見せることでしか、英米の気難しいプロフェッショナルたちと、日本の職人たちを一つのシステムに統合することはできないのだ。

「ミスター・シンジョウ。あなたがそこまでやるなら、私も付き合おう」

 ミラーがため息をつきながら上着を脱ぎ捨て、八田も無言でバールを手に取った。

 魔法のような一発稼働はない。ボルト一本、シム一枚の狂いを手作業で潰していく、果てしない泥仕合の幕開けであった。



 その頃、工廠から少し離れた高台にある「外国人居留区」では、瑞月みづきが瑞長財団として、もう一つの重要な実務をこなしていた。


「まあ……。この氷のように冷たいお茶は、一体どうやって淹れているの?」

 ミラーの妻であるエマが、グラスの表面に浮かぶ水滴を見つめながら、信じられないという顔で感嘆の声を漏らした。

「工廠の冷却システムから、清浄な氷をこちらに回しておりますの。台湾の夏は、皆様の故郷より少しばかり情熱的ですから」

 瑞月が、白磁のティーカップを並べながら、涼やかに流暢な英語で答え微笑む。彼女の地頭の良さなのか、短期間で学んだとは思えない語学能力である。

 彼女が主催したティーパーティーの卓には、イギリス製の銀器とともに、キンキンに冷やされたダージリンティー、そして台湾南部から取り寄せた最高級のアップルマンゴーやライチが、宝石のように美しく盛り付けられていた。


 窓の外からは、明るい笑い声が聞こえてくる。瑞月が居住区内に設けた専用の遊戯室プレイルームで、就学前の幼い子供たちや年長の子女たちが、イギリスから招聘した家庭教師チューターと遊んでいるのだ。七つの家族が連れてきた子供たちのうち、康政たちと同じ学年に編入したのは十歳のトーマスと九歳のアリスの二人だけだが、それ以外の家族のケアも、瑞月は完璧な資金力で包み込んでいた。


「ダンカン夫人、お加減はいかがですか? 慣れない気候で、お疲れが出ているのではと心配しておりました」

「ええ、ミズキ。正直に言えば、最初の数日はロンドンの霧が恋しくて泣きそうでした。でも……この甘い果実と、あなたの細やかな気配りのおかげで、少しこの島が好きになれそうです」

 冶金技師ダンカンの妻が、マンゴーを口に運びながら、ようやく顔に血の気を戻して笑った。


 夫たちが最高の仕事をするには、帰るべき家庭の安定が不可欠である。異国の地でのホームシックは、技術者の精神を蝕み、やがてプロジェクト全体の崩壊を招く。瑞月は新城財団の代表としての圧倒的な権限を使い、彼女たちの不安を「贅沢なもてなし」と「完璧な生活基盤」で徹底的に防衛していた。



 一方、台北尋常小学校の教室内では、小さな「異文化の衝突」が起きていた。

 僕が手配した特別枠により編入してきた、ダンカンの息子トーマスと、ミラーの娘アリスである。


「おい康政。あのトーマスって奴、俺より頭一つデカいぞ。本当に十歳か?」

 駐留軍の猛将の息子、御子柴烈みこしば れつが、離れた席に座る金髪の少年を警戒するように睨みつける。

「骨格も栄養状態も違うからね。でも、言葉が通じなくて一番不安なのは彼らの方だよ」

 僕は黒板に目を向けながら答えた。今日は七夕。教室の隅には、笹の葉が飾られている。

「ねえ、康政君。あの子……泣きそうよ」

 橘響子たちばな きょうこが、僕の袖を軽く引いた。

 彼女の視線の先では、アリスが配られた短冊を前に、うつむいて肩を震わせていた。僕が歩み寄って短冊を覗き込むと、そこには拙い英語でこう書かれていた。

『I want to see New York again.(もう一度、ニューヨークが見たい)』


 僕は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。大人たちの契約と都合で、地球の裏側まで連れてこられた子供たち。彼らにとって、この島はまだ「寂しい異国」でしかない。


「アリス」

 僕は英語で話しかけ、彼女の短冊にそっと手を添えた。

「ニューヨークには敵わないかもしれないけれど、この島にも、君たちの『居場所ホーム』は作れるよ。放課後、みんなで遊ばないか?」



 放課後。学校の裏にある広い空き地。

 僕は、アメリカから取り寄せた真新しい革のグローブをはめ、固い白球を握りしめていた。


「おい康政、なんだその妙な手袋は。それにその球、石みたいに固いぞ」

 御子柴が、興味津々で僕の周りを嗅ぎ回る。久世景秀も、日傘を畳んで面白そうに見学している。

「これは『ベースボール』というアメリカの球技だよ。やり方は簡単だ。僕が投げる球を、あの木の棒で打つ。御子柴、ちょっと打ってみろ」


 僕は大きく振りかぶり、御子柴に向かってボールを投げた。

 ……が、山なりのボールは御子柴の遥か手前でバウンドし、コロコロと転がっていった。

「あはは! なんだ康政、お前、頭は切れるのに体はからっきしだな!」

 御子柴が腹を抱えて笑う。僕は苦笑いしながら肩をすくめた。

 僕の運動神経は褒められたものではない。だが、三十代の実務家の精神を十二歳の虚弱な体に閉じ込めた僕にとって、これからの過酷な時代を生き抜く「基礎体力スタミナ」の構築は、最優先の課題だった。何より、このスポーツには別の目的がある。


「Hey, Thomas!」

 僕は、遠巻きに見ていたトーマスに向かってボールを投げ渡した。

「Show me how it's done.(手本を見せてくれ)」

 トーマスは目を丸くしたが、アメリカで慣れ親しんだボールの感触に顔を輝かせた。彼が振りかぶって投げたボールは、シュッと空気を切り裂き、僕のグローブにズドッと重い音を立てて収まった。

「すげえ! 今の球、全く見えなかったぞ!」

 武人としての本能を刺激された御子柴が、目をギラギラさせてトーマスに駆け寄る。言葉は通じなくても、身振り手振りでボールの握り方を教え合い始めた。


 一方、木陰のベンチでは、泥だらけの輪に入れないアリスが、一人ぽつんと膝を抱えていた。

 そこへ、橘響子が静かに歩み寄った。彼女の小さな手には、色鮮やかな和柄が美しい「千代紙ちよがみ」が何枚か握られている。

 響子は隣に座ると、何も言わずに一枚の赤い千代紙を折り始めた。細い指先が幾度か紙を裏返し、角を合わせる。数分後、彼女の手のひらの上で、見事な一羽の「折り鶴」が完成した。


「……Magic?(魔法?)」

 アリスが、涙の引っ込んだ丸い目で、その鶴を見つめた。

 響子はふわりと微笑み、アリスの手のひらに鶴を乗せると、今度は青い千代紙を彼女に手渡した。

「一緒によ(Together)」

 響子がゆっくりと紙を折り、アリスがそれを見よう見まねでなぞっていく。言葉が通じなくても、指先から伝わる静かな文化の共有が、少女の心から「異国の孤独」をゆっくりと溶かしていった。


「ミスター・シンジョウ。あなたは、子供たちの心まで完璧に計算しているのか」

 迎えに来たミラーが、呆れたような、しかし深い感謝の入り混じった声で呟いた。隣にはダンカンも並び、自分の息子が日本の子供たちと笑い合い、アリスが響子と折り紙を教え合っている姿を、眩しそうに見つめていた。

「計算ではありませんよ、ミラーさん。……これは、融和ですよ。大人の都合で引かれた境界線は、あのベースの周りにも、あやとりや折り紙の輪の中にも存在しない。この小さな空き地から、確かな友垣ともがきが生まれるんです」

 僕は息を切らし、膝に手をつきながらも、確かな充実感とともにその光景を見つめていた。



 それから三週間後。七月の終わり。

 泥と汗にまみれた果てしない微調整の日々を経て、基隆工廠はついに一つの到達点を迎えていた。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った工場内で、第一号の精密旋盤と電気炉が、ついに完璧な水平を保ち、沈み込みを計算し尽くしたコンクリートの台座に強固に固定されていた。


 錆止めのグリースが鈍く光るその巨大な鉄の塊たちは、海を越えてきた頭脳と、地元の職人たちの泥臭い意地のぶつかり合いを経て、ついに「一つの規格」として統合されたのだ。


「準備は整いましたね」

 僕は、隣に立つ二階堂と荒金に声をかけた。

「ああ。明日から、いよいよ本番の『火入れ』だ。若様の欲しがる化け物を、この手で削り出してやりますよ」


 遠くから、夜行性の鳥の鳴き声が聞こえる。

 一九〇七年、夏の本番。果てしない実務のセットアップが終わり、工廠はついに最初の「鉄の鼓動」を鳴らすため、ようやくスタートラインに立った。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


もし面白いと感じていただけましたら、


評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。


引き続き見守っていただければ幸いです。


※本作では、史実に基づく当時の価値観や言葉遣いを重視しています。

そのため現代とは異なる表現が登場しますが、作品世界の一部として描写しています。

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