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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第3章 世界を繋ぐ規格の牙

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第6話:箱庭の市場と、泥に咲く鉄の蓮

 明治三十九年(一九〇六年)、秋。

 台湾北部のうだるような暑さがようやく和らぎ始めた頃、新城康政しんじょう やすまさが通う「台北尋常小学校」の教室内では、ある歪な『市場』ができあがっていた。


 この学校の生徒は、台湾総督府の高官や駐留軍の将校、あるいは内地から進出してきた巨大資本家の子供たちである。金銭的な不自由を知らない彼らの間で今、熱狂的な価値を持っているものがあった。

 内地からさらに海を渡って持ち込まれる「欧州製の高級文房具」――中でも、深緑色の軸に金色の文字が刻まれたドイツ・ファバーカステル社の鉛筆と、滑らかな羊皮紙のような手触りを持つイギリス製のノートである。当時の台湾では、親の権力を使っても容易には手に入らない希少品だった。


「また交換の条件が上がったぞ。先週は独楽こま三つだったのに、今日は特大のビー玉五つに、一ヶ月の掃除当番の肩代わりだってさ」

「仕方ないよ。高木君、今度の総督府の視察の時に、どうしてもあの鉛筆を見せびらかしたいんだって」


 教室の隅で、子供たちがひそひそと取引を行っている。

 その光景を、窓際の席からニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて眺めている少年がいた。内地の有力な華族の三男坊、久世景秀くぜ かげひでである。


「景秀様。高木の奴、泣きそうになりながら掃除当番の約束に頷きましたよ」

 取り巻きの一人が、戦利品であるビー玉をジャラジャラと鳴らしながら報告に来る。

「そう。ご苦労様。でも、僕は別に無理やり奪ったわけじゃないからね。彼が『どうしても欲しい』って言うから、交換してあげただけだよ。ああ、残りの鉛筆はあと二本だけだから、明日はもっと欲しい人が増えるかもしれないね」

 久世は、自分の手元にある舶来品の箱を撫でながら、無邪気さを装った残酷な笑みを深めた。

 彼は自分で直接売り買いはしない。自らの家系が持つコネクションで希少品を独占し、それを取り巻きに小出しに与え、教室内の「需要と供給」を意図的に支配しているのだ。わざと品薄を作り出し、同級生たちが欲に駆られて右往左往する様を眺めて遊ぶ。それが、この少年の悪趣味な嗜好だった。


 ダンッ!


 突如、教室の空気を震わせる破裂音が響いた。

 体格の良い少年が、久世の取り巻きの胸ぐらを掴み、机に叩きつけたのだ。

「てめえら、いい加減にしろよ! 鉛筆一本で他人に掃除を押し付けて、へらへら笑ってんじゃねえ!」

 台湾駐留軍の猛将として名高い将校の嫡男、御子柴烈みこしば れつである。彼は父親譲りの強い正義感を持ち、この陰湿なやり口に我慢の限界を迎えていた。


「乱暴はいけないなぁ、御子柴君」

 久世が、席を立たずに優雅にたしなめた。

「僕たちは何も悪いことはしていないよ。高木君が自分で『掃除を代わるから譲ってくれ』って言ったんだ。嫌なら、買わなきゃいいのにね」

「ふざけるな! お前が裏でコソコソ隠して、わざとみんなを困らせてることくらい分かってんだよ!」

 御子柴は久世を睨みつけるが、拳を振り上げることはできない。もしここで華族の息子を殴れば、最前線で部隊を率いている猛将の父親の顔に泥を塗ることになる。そのジレンマを理解しているからこそ、久世は余裕の笑みを崩さない。いつもの光景である。


「康政君。久世君の隠し在庫、彼のお父様の書斎にまだ五箱も残ってるそうよ。みんなをわざと焦らせて、自分に逆らえないようにして遊んでるのね」

 僕の前の席に座る少女、橘響子たちばな きょうこが、教科書を開いたまま唇だけを動かして囁いた。数日前から彼女に探らせていた正確な諜報結果だ。

「ありがとう、橘さん。君の報告通り、価格の高騰は今日のこの時間が上限だ。そろそろ、おもちゃ箱をひっくり返そう」


 僕は懐中時計を一瞥してから静かに席を立ち、一触即発の御子柴と久世の間へと歩み出た。

「二人とも、やめないか。喧嘩をして先生に叱られたら、ご両親が悲しむよ」

「康政……お前は引っ込んでろ! こいつのやり方は卑怯だ!」

 御子柴が怒鳴るが、僕はそれを手で制し、教室の入り口へ視線を送った。

「リン。予定通りに」


 数日前から僕の指示を受け、廊下で秒単位の待機をしていたリンが、二人の大柄な使用人に抱えさせた白木の箱を運び込んできた。

 重々しい音を立てて教室の教卓に置かれた箱の蓋を、僕が開ける。

 その瞬間、教室中の子供たちが息を呑んだ。


 箱の中にぎっしりと詰まっていたのは、久世が「希少品」として出し惜しみしていたのと同じファバーカステルの最高級鉛筆と、真新しいノートの山だった。その数は、百や二百ではない。

「……な、なんだよそれ」

 久世の顔から、初めてあの作り物の笑みが消え失せた。


「瑞長商会の船で、荷物の隙間が空いていたからね。たくさん買ってきたんだ。運ぶお金を足しても、普通の鉛筆と大して変わらない値段だったよ」

 僕は箱の横に立ち、クラス全員に向けて宣言した。

「今日から、うちの商会がこれをみんなに『普通の値段』で売るよ。欲しい人は、お小遣いを持ってくればいつでも買える。掃除当番を代わったり、誰かのご機嫌を取ったりする必要はないよ」


 教室が、一瞬の静寂の後に爆発的な歓声に包まれた。

 久世の取り巻きたちは慌てて彼から離れ、僕の箱の前に群がり始めた。誰もが「いつでも普通に買える」と分かった瞬間、久世が手元に隠し持っている「希少な鉛筆」の価値は、文字通りただの木の棒と同等まで暴落したのだ。


「……お前、わざとこんな大量に……」

 久世が、震える声で僕を睨みつけた。しかしその瞳の奥には、怒りよりもむしろ、自分の完璧な箱庭をたった一撃で粉砕されたことへの『強烈な畏敬』が渦巻いていた。

「わざとじゃないよ。みんなが欲しがっていたから、たくさん持ってきただけさ。御子柴君も、拳を痛めずに済んで良かったね」


 御子柴は、呆然とした顔で僕と箱を交互に見比べ、やがて腹の底から笑い出した。

「はっ、ははは! すげえなお前! 腕力を使わずに、この嫌味な奴を完全に黙らせやがった! 最高だ、康政!」

 御子柴が僕の背中をバンバンと叩く。その横で、久世もまた、諦めたように両手を挙げて上品なため息を漏らした。

「降参だよ。僕の負けだ。新城康政。君とは、敵に回すよりも友達になった方が、ずっと面白いことができそうだね」


 駐留軍の猛将の息子と、内地華族の知恵者。

 この日、強烈な個性を持つ二人の学友が、僕の陣営に加わった。

 だが、彼らはまだ知らない。この教室での出来事が、これから大人の世界で僕たちが仕掛ける『圧倒的な資本と物流による市場の制圧』の、ほんの小さな予行演習に過ぎないということを。



 同日、午後。

 

 基隆キールン港の西側に広がる広大な泥濘ぬかるみの予定地では、教室での出来事と全く同じ理屈の『暴力』が、より大規模で泥臭い実務として展開されていた。


「駄目だ! 何度計算しても、このままドックを掘れば周囲の農地が全部塩害で死ぬぞ!」

 泥まみれになった若き土木技師、八田與一はった よいちが図面を叩きつけて叫んだ。

 その横で、元海軍工廠の凄腕技師・荒金源三(あらまきげんぞう)が葉巻を噛み千切る。

「知るか! 俺たちは商会の依頼で、東洋一のドックを造ってるんだ! 農地のことなんか後回しだ、さっさと海と繋ぐ水路を掘れ!」


「それでは海運関係の利益にしかなりません!」

 八田が一歩も引かずに怒鳴り返す。

「ドックに注水・排水するための巨大なポンプ設備があるんでしょう? その動力を利用して、基隆川の淡水を引き込み、周辺の荒れ地に『農業用灌漑かんがい水路』として分配するんです! ドックの掘削で出た膨大な土砂は、そのまま川の氾濫を防ぐ堤防と、新たな農地の造成に使います。海運施設と、地域の農業基盤を『一体化』させるんです。これなら、無駄な土砂の運搬費も浮き、地元も潤う完璧な一石二鳥です!」


 海運施設と農業インフラの極限の融合デュアルユース

 八田の提示した青写真の合理性に、海軍との折衝を担う真田大尉も唸った。

「確かに、それならば総督府の民政局も喜こぶだろう。だが、問題がある」

 真田が、足元の泥を踏みしめた。

「この周辺の荷役と土砂運搬を牛耳っている『沖仲仕おきなかしの組』と、地元の地主たちだ。彼らは商会の足元を見て、土地の立ち退き料と土砂の運搬費に、相場の十倍を吹っかけてきている。奴らが首を縦に振らない限り、重機一つ入れられん」


 そこに、けたたましい内燃機関の駆動音を響かせ、一台の黒塗りの車輌が泥濘の前に静かに横付けされた。

 米国製の最新型・ガソリン自動車。一九〇六年の台湾において、総督府ですら数台しか所有していない超絶的な奢侈しゃし品である。瑞長商会が、自社の「SSコンテナ」による国際輸送の確実性を実証するためだけに、莫大な関税を支払って輸入したばかりの『動く権力の象徴』だった。


 運転手が開けた後部座席の扉から降り立ったのは、瑞長商会代表の瑞月と、法務顧問の霧島誠一郎(きりしませいいちろう)である。


「荒金さん、八田さん。泥遊びの進み具合はいかがですか?」

 瑞月が、荒っぽい現場には不釣り合いなほど洗練された洋装で、優雅に微笑みながら問いかけた。沖仲仕たちは、見たこともない黒塗りの自動車と、そこから降り立った圧倒的な美貌の女社長に目を奪われ、言葉を失っている。

「社長……。進むわけがねえ。地元の沖仲仕の顔役どもが、権利を盾に道を塞いでやがるんだ。阿長を使って力ずくで叩き出すしか……」

「野蛮な真似は不要です。市場の障害は、より巨大な『実務』で押し潰せばよいのですから」


 瑞月はそう言うと、背後に控えていた霧島に目配せをした。

 霧島は銀縁の眼鏡を押し上げ、分厚い書類の束を荒金たちに提示した。


「彼ら沖仲仕の組や地主達は、我々が『彼らの荷車と小舟』に頼らなければ土砂を動かせないと思い込んでいる。だが、我々には『SSコンテナ』と、港まで直結させた専用の鉄道路線がある。昨日から、全ての中継輸送線を我が社のコンテナ専用貨車に切り替えました。これにより、彼ら沖仲仕は完全に仕事(需要)を失いました」

 霧島の冷徹な声が響く。

「さらに、彼らが強気だったのは、台湾銀行から莫大な事業資金を借り入れていたからです。私はこの三日間、瑞月代表の指示で商会の資金を使い彼らの抱える『債権(借金)』をすべて買い取らせていただきました」


 荒金と八田が、息を呑んだ。

「それって、つまり……」

「ええ。彼らは現在、無収入となった上に、我々に対して莫大な借金を背負っている状態です」

 瑞月が、美しくも酷薄な笑みを浮かべた。

「先ほど、組の顔役たちと直接交渉してきました。『明日、全額を現金で返済して破産するか。それとも、法外な要求を取り下げ、我々の治水事業の末端労働者として適正な賃金で雇い直されるか』。彼らは土下座をして、後者の契約書に捺印署名しましたよ」


 暴力も、軍の権力も使わない。

 ただ最新鋭の自動車を乗り回すような「圧倒的な資本力」で相手の命綱(債権)を握り潰し、「圧倒的な物流手段コンテナ」で相手の存在価値をゼロにする。康政が教室で見せた『市場の破壊』を、大人たちは何十万倍もの規模で、冷酷に実行したのだ。


「恐ろしい連中だ。あんたら、本当に一介の商会なのか?」

 荒金が戦慄するように呟く。

「さあ、障害は全て取り除きました。重機を入れてください、八田さん。康政様が望む『鉄のドック』と、この地を潤す『水脈』を、一刻も早く完成させるのです」


 瑞月の号令と同時に、地響きを立てて米国製の蒸気掘削機が動き始めた。

 黒煙を噴き上げ、巨大な鉄の爪が湿地の泥をえぐり、台湾の大地が悲鳴を上げる。石炭とグリース、そして掘り返された赤土の匂いが混ざり合い、熱気となって周囲を包み込んだ。

 教室の小さな市場から、基隆の巨大な土木事業まで。新城康政という十一歳の頭脳が描いた青写真に従い、全ての実務が、完璧な歯車となって狂いなく回り始めていた。

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