第5話:凱旋
明治三十九年(一九〇六年)、初夏。
台湾北端、基隆港を包む空気は、内地とは比べものにならないほど濃く、湿っていた。海から吹き抜ける湿った風が、荷役労働者たちの流す汗と、絶え間なく吐き出される石炭の煤煙をかき混ぜ、鼻腔を突く独特の匂いを作り出している。
桟橋の最端、瑞長財団が優先使用権を握る第七埠頭には、他とは明らかに異なる異様な光景が広がっていた。そこには、乱雑に積み上げられた麻袋や木箱の姿はない。代わりに鎮座しているのは、鈍い銀光を放つ鋼鉄の函「コンテナ」の整然たる壁だ。
蒸気クレーンが重々しい音を立て、標準化されたその函を次々と船倉へと吸い込んでいく。その光景は、この港が既に「新城の規格」によって再構築されていることを、無言の圧力で誇示していた。
「父さん! お帰りなさい!」
大型定期船のタラップを降りてきた父、和也の姿を見つけ、僕は駆け寄った。
「おお、康政! また少し背が伸びたな。顔つきも精悍になった」
父さんは豪快に笑い、僕を軽々と抱き上げた。その腕は一年前よりも逞しく、東京での熾烈な政治闘争を潜り抜けてきた者の熱量を帯びている。
「和也様。無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます。台北の商会も、基隆の物流拠点も、全て予定通りの稼働率を維持しております」
瑞月姉さんが、潮風に薄紅色の髪をなびかせながら、非の打ち所のない優雅さで一礼した。その後ろでは、岩山のような巨躯を誇る阿長が音もなく進み出て、父さんの重厚な鞄を受け取る。
「旦那様、お疲れ様でした。お荷物は私が。失礼ながら、背後の三名様は?」
阿長の鋭い視線が、父さんの後ろに控える三人の男たちを射抜いた。
「ああ。この方々は、これからの財団を支えてくれる大切な客分だ。挨拶は後でゆっくりと。まずは、我が家へ帰ろう。和子が、首を長くして待っているからね」
台北の高台にある新城家の屋敷。門をくぐると、基隆の荒々しい鉄の匂いは消え、庭に咲く南国の草花の香りが僕たちを包み込んだ。
「和也さん! お帰りなさいませ!」
玄関先で僕たちを待っていたのは、母・和子だった。彼女の瞳には微かに涙が浮かび、けれどその表情は、慈愛に満ちた聖母のような輝きを放っている。
「ただいま、和子。留守の間、康政を支えてくれて感謝するよ。寂しい思いをさせたね」
「いいえ、私は何も。この子が一人で立派にやってしまうものですから……。さあ、お食事にしましょう。リンさんが、今日は朝から張り切っていたんですよ」
その夜、新城家の居間には一年ぶりの穏やかな家族の時間が流れていた。
リンが誇らしげに運んできたのは、地元産の豚肉をじっくり煮込んだ東坡肉や、瑞長商会独自の低温流通網で運ばせた新鮮な海鮮料理だ。
「和也さん、東京ではきっと、難しいお顔でお食事されていたんでしょう? 山本権兵衛様のような高名なお方とお会いしていたなんて、私、心配で……」
和子が甲斐々々しく父さんの皿に料理を運ぶ。父さんは「ははは、大臣も食事の時は一人の魅力的な紳士だよ」と微笑み、一家の主として、穏やかに家族との時間を慈しんでいた。
「康政、学校はどうだ。新しい教科書は理解できているか?」
「それなりに。でも、先生の話よりも、瑞月姉さんと進めている収支報告書を見ている方が、よっぽど未来の勉強になるよ」
「これ、康政。和也さんも、今は学業や仕事の話は忘れてくださいね、久しぶりの家族での食事なんですから」
母さんが少し困ったように僕の頭を撫でる。その手の温かさは、僕の中に渦巻く未来知識の冷徹な計算を、一瞬だけ止めてくれる。
「あなたはまだ十一歳。お父さんのようにお仕事に追われるのは、もっと先でいいのよ。ねえ、和也さん? せめてこの屋敷にいる間だけは、普通の子供でいさせてあげて」
「ああ。そうだね、和子。康政には、康政のペースがある」
父さんは僕と視線を合わせた。その瞳の奥には、和子には見せない『同志』としての信頼が灯っていた。父さんは知っている。僕の頭脳には、この明治という時代を数百年飛び越えた『実務』が詰まっていることを。それでも、この和子の穏やかな温もりこそが、僕たちが狂気に堕ちないための唯一の錨なのだ。
食事が終わると、和子は満足げに僕の頬を撫でてから、茶の準備のために席を立った。扉が閉まった瞬間、室内の温度が数度下がったかのような錯覚を覚える。
「瑞月、阿長。蔵の奥の部屋へ。リン、お前もだ。外部からの接触を完全に断て」
父さんの声が、静かな、けれど有無を言わせぬ「組織の長」のものへと切り替わった。
屋敷の土蔵のさらに奥、重厚なレンガと石積みで囲まれた部屋。
元はペニシリンの原液や特許書類、そしてコンテナの重要機密を保管するために、父さんが特別に造らせた窓一つない閉鎖空間だ。中央の円卓を囲むように、父さんが東京から招いた三人の男たち、そして瑞月、阿長、リンが顔を揃えた。
「康政。改めて紹介しよう。お前が一年前に東京へ発つ私に託した『密命』。それを遂行するために私が拾い上げ、今日まで準備を整えてきた方々だ」
父さんの紹介を受け、銀縁の眼鏡をかけた男、霧島誠一郎が恭しく一礼した。
「若様……と呼ぶべきかな。霧島誠一郎です。一年前、閣下を通じて貴方が私に託した『銘柄リスト』。正直、最初はどこぞの占い師の戯言かと思いましたよ。だが、結果は貴方の予言通りだ。日本郵船、東京電燈、帝国鉄道……これらを底値で、財団名義を使って買い占めた。今や時価総額は買い値の四倍。ロンドンとニューヨークの拠点も確保済みだ」
霧島の言葉に、これまで沈黙を守っていた瑞月が鋭い視線を向けた。
「霧島さん、とおっしゃいましたか。それらの資金移動の際、台北本社の帳簿とどう整合性を取ったのです? 私はこの一年の数字を全て握っています。貴方の独断でこれ以上の流動性を欠くのは、事業継続の上で看過できません」
「ほう、これは手厳しい」
霧島が皮肉げな笑みを浮かべる。
「瑞月代表、ご安心を。全ての取引は、貴女が内地の銀行へ送金した『機材購入費』の名目で、私の用意した海外口座を通じて購入されています。貴女の帳簿に傷はつきませんよ」
二人の間で、実務家同士の火花が散った。瑞月はこの一年の功績を誇りつつ、新参者の実力を見極めようとしている。
「フン。数字の話は、そのあたりにしましょう」
次に声を上げたのは、元海軍工廠の凄腕技師、荒金源三だ。
「おい、坊主。旦那には世話になったが、俺は理屈だけの子供に指図される気はねえぞ。ドックを造るってのはな、泥に塗れ、鉄火場で命を削る仕事だ」
荒金が、僕が描いた設計図を鼻で笑った。
「この図面もそうだ。注水弁の配置が甘い。これじゃあ満潮時の水圧に耐えられねえ」
「荒金さん」
僕は立ち上がり、図面の一点を指差した。
「それは『排水』のためではなく、将来、三千トン級の潜水艦を収める際、水圧バランスを保つための『バラスト制御用』の注水弁です。海軍の基準よりも三メートル深く掘り、側壁の厚さを二倍にしているのは、外部への音漏れを防ぐ防音機能を兼ねているからです。排水に関しては、八田與一さんの放水路と直結させる枠組みを既に組んでいます。これで不満ですか?」
荒金が絶句した。その背後で、阿長が静かに前に出る。
「荒金殿。康政様の言葉は、この屋敷では『絶対』だ。不遜な態度は、私が許さん」
阿長の巨躯が放つ威圧感に、荒金が喉を鳴らした。
「阿長、いいんだ。荒金さんは現場を愛しているだけだ」
僕が制すと、阿長は無言で一歩下がったが、その眼光は荒金を逃さなかった。
「ははっ! 荒金が黙らされるとは傑作だ」
最後に、元・気球連隊の将校、二階堂隆臣が笑った。
「若様、俺は空のことしか分からん。気球に載せる内燃機関を独自研究して軍を追われた身だ。あんたが求めている『発動機のための特殊鋼』と、異常燃焼を起こさない『高度に分留された揮発油』。その調達方法はシンガポールとスウェーデンに目星をつけた。俺が、世界中から最高の馬力をさらってきてやるよ」
「二階堂さん」
それまで給仕に徹していたリンが、初めて口を開いた。
「その『揮発油』の調達、海外支店との電信連絡は私が管理します。康政様の暗号表を預かっているのは私ですから。貴方の勝手な行動で、こちらの暗号を漏らすような真似は絶対に許しません」
リンの凛とした声に、二階堂が「おっと、可愛いメイドさんにも牙があったか」と両手を挙げた。
法務の盾、工匠の腕、発動機の専門家。
そして、これまで僕を支えてきた瑞月の経営力、阿長の武力、リンの防諜。
父さんが命懸けで集めてきた「牙」たちが、一年前の僕の『密命』を経て、ついに完全な円卓を形成した。
「役者は揃いましたね、父さん」
僕は、父さんに向かって深く頷いた。
「ああ。康政、お前が仕込んだ『弾薬』は十二分にある。さて、この狂乱の加熱景気。いつ、引き金を引く?」
父さんの問いに、僕は窓のない部屋の壁の向こう、闇に沈む基隆の海を想った。
「あと数ヶ月です。それまでは、皆さんに、さらに大きく『欲』をかいてもらいましょう。世界中が破滅するその瞬間に、我々だけが『本物の富』と『技術』を握るために」
一年前、東京へ発つ父に託した計画。
家族の温もりを胸に、僕は九歳の子供の顔を脱ぎ捨てた。




