第4話:鉄の解剖学と、飼い慣らされない番犬
台湾北部、基隆港。
深夜の重い海霧が立ち込める極秘の港湾区画に、瑞長商会の紋章が刻まれた巨大な『コンテナ』が、次々と蒸気クレーンで降ろされていた。
「康政くん。本当にこんな鉄屑を、あの翠玲さんを泣かせてまで買う必要があったのかい?」
潮風に白衣を靡かせながら、牧野博士が呆れたように鼻を鳴らした。
厳重な警戒の中でコンテナの扉が開かれると、そこに収まっていたのは、濃厚な油と錆の匂いが染み付いた巨大な鉄の塊――米国海軍の審査に落ちた試作潜水艇の、解体された船体と内燃機関の部品だった。
「ええ、必要です。新品を一隻丸ごと買う予算など、今の我々にはありません」
僕は部品の目録を確認しながら答えた。
「それに、米国で失敗したこの『鉄屑』こそが、今の西洋の技術の限界を知るための最高の教材です」
「にしても、酷い造りですね。先生、配線が剥き出しですよ。漏電で丸焼きになる気だ」
小暮宗太郎助手が、死んだ魚のような目で無機質にツッコミを入れながら、手元の野帳に素早くスケッチを書き込んでいく。
その時、背後の暗がりから、軍靴の鋭い足音が響いた。
「民間商会が巨額の資金を投じて、総督府の港に怪しげなコンテナを下ろしていると聞いて来てみれば……なるほど。内閣や軍令部が注視している米国の潜水艇か。貴様ら、いったい何を企んでいる?」
振り返ると、そこに立っていたのは海軍の軍服を隙なく着こなした、筋骨隆々の将校だった。鋭い眼光と、機械油の染み付いた分厚い掌。陸の事務屋ではない、軍艦の機関室で業火と高圧蒸気を操ってきた本物の現場指揮官の匂い。
海軍機関大尉、真田だった。
財団が莫大な資金を動かし、不気味な研究者を囲い込み始めたことを重く見た海軍上層部が、「保安監査役」という名目で送り込んできた監視役である。
真田大尉はコンテナの中の部品を一瞥するなり、忌々しげに舌打ちをした。
「リベットの打ち方は雑、鋼板の厚みも不均一だ。こんな鉄の棺桶で海に潜れば、水深三十米で水圧に耐えきれず、鋲が弾け飛んで乗組員を殺すぞ。……こんなガラクタで兵器開発の真似事とは、瑞長財団も随分と舐められたものだな」
「なんだと、この筋肉ダルマ!」
真田の冷笑に、牧野博士が噛み付いた。
「俺の描いた『音響探信』と『論理回路』を積めば、こんな鉄屑でも深海の暗殺者に化けるんだよ! あんたみたいな古い蒸気機関しか頭にない石頭には、俺の数式の美しさは一生分からねェだろうが!」
「馬鹿め! 貴様のその狂った高圧電流や電波の理屈に耐えられる『絶縁体』が今の日本にあるか! 鉄の限界を知らぬ学者の妄想だけで船が動くなら、俺たち機関科は苦労せんのだ!」
「先生。落ち着いてください。この男の言う通り、今の日本の技術では三十米で浸水です」
小暮助手が淡々と牧野を宥めつつ、真田に一瞥をくれた。
「ですが軍人殿。あなたのその『現実の鉄の限界を正確に見抜く目』は、我が陣営には欠けているものです。筋肉だけではないようですね」
「貴様ら……軍人をコケにする気か」
真田の額に青筋が浮かぶ。
電気と理論の「頭脳(牧野)」と、鉄と現実の「肉体(真田)」。
顔を突き合わせて怒鳴り合う彼らを見て、僕は内心で深い笑みを浮かべた。
(完璧だ。これほど噛み合う歯車はない)
「真田大尉」
僕は彼らの間に歩み出た。
「その通りです。牧野博士の理論は数十年先の未来を生きていますが、それを現実の鉄に落とし込む技術が、我々には決定的に欠けている。だからこそ、軍の『保安監査役』として赴任されたあなたに、この鉄屑が帝国の脅威にならないか、その厳しい目で『指導』していただきたいのです」
「……何?」
真田が胡乱な目を向ける。僕は懐から、一枚の精密な概念図を取り出して彼に差し出した。
「鉄屑は、ただの教材に過ぎません。ネジの一本、配線の束に至るまで徹底的に解体し、西洋の理屈を完全に理解するための踏み台です。我々が本当に創りたいのは、これです」
それは、空気を必要とせず、高濃度の薬液を触媒で分解した反応熱でタービンを直接回す非大気依存の新型機関――のちに『ワルター機関』と呼ばれる、深海を無限に潜航できる悪魔のエンジンの概念図だった。
「な、なんだこれは……」
真田大尉の目が、極限まで見開かれた。
「燃焼に外気を必要としない……? 薬液を分解し、その膨張圧力で直接タービンを回すだと? 莫迦な、こんな化け物じみた高温高圧に耐えられる『合金』の燃焼室など……!」
「今はまだ、存在しません」
僕は真田の目を真っ直ぐに見据えた。
「だから、ここで一から創るのです。....大尉。帝国海軍も欧米から潜水艇を買い付け、新式タービンの研究を進めていることは存じています。ですが、今の戦債に喘ぐ国の予算で、未知の耐熱合金を一から生み出すような『欧米にも前例のない、失敗する確率が極めて高い基礎研究』に巨額の決裁が下りますか?」
真田がハッとして息を呑む。
日露の戦役を終えたばかりの帝国海軍とて無策ではない。水雷術の向上や最新兵器の研究には血道を上げている。だが、それはあくまで実用化の目処が立っている技術への投資だ。軍の予算会議では必ず「いつ実用化できるのか」「欧米に成功例はあるのか」と問われる。この図面のような、海のものとも山のものともつかぬ悪魔の機関に、軍の貴重な開発予算が回せるはずがない。それを最前線の技術将校である真田が誰よりも痛感しているはずだった。
「失敗すれば、失われるのはすべて我々財団の金です。議会からの追及もありません。ですが、もし成功すれば…大尉、あなたがこの『最強の心臓』を、自らの監査報告として帝国海軍に持ち帰ればいい。我々を『利用』して、海軍の未来を創りませんか」
真田は概念図を握りしめ、ワナワナと肩を震わせた。
軍の窮屈な枠組みの中では決して承認されない『未知への挑戦』を、この一介の民間財団が、誰にも縛られない開発資金と狂った天才学者で成し遂げようとしている。それをただ監視して潰すのは容易い。だが、もしこの技術が本物になれば、帝国海軍は世界を制することができる。
「勘違いするなよ、小僧」
真田大尉はギリッと奥歯を噛み鳴らし、猛禽類のような目で僕を睨み下ろした。
「俺は貴様らの部下になるわけではない。保安監査役という権限を利用して、この現場の設備と資金、そしてこの狂人どもの脳髄を、俺が帝国海軍のために『乗っ取ってやる』だけだ。安全基準から鉄の鍛造まで、俺がすべて現場で指揮を執る。文句は言わせんぞ」
「ええ。存分に乗っ取ってください」
僕は子供の愛想笑いを消し去り、冷徹な実務家の顔で微笑み返した。
「チッ、どいつもこいつも狂ってやがる」
牧野が呆れたように白衣を掻きむしり、小暮が「消火用の砂袋を増やさねば」と呟く。
十歳の影の支配者と、海軍の誇り高き番犬。
決して馴れ合うことのない「喰うか喰われるかの共犯関係」が結ばれた瞬間だった。
こうして、台湾の片隅に設立された極秘の開発拠点『新城技術研究所』は、海外の鉄屑の解剖と、変人たちの激しい衝突を巻き込みながら、ついにその産声を上げたのだった。




