第3話:金庫番の悲鳴と、帝大の狂人たち
パチ、パチ、パチパチパチパチ……ッ!
瑞長商会の執務室に、まるで機関銃のような算盤の音が鳴り響いていた。
「赤字です! いえ、正確には『異常な速度での現金の流出』ですわ!」
大番頭の黄翠玲が、額に滲んだ汗を拭いもせず、分厚い帳簿を机に叩きつけた。
「和也様にも幾度かご相談しましたが、財団の支出規模が常軌を逸しています。南部の巨大堰堤工事に投じる莫大なセメント及び資材の代金と重機の手配。それに加えて、あの『瑞長塾』に集めた数百人の若者たちの給金と食費。特許の一時金として得た巨富が、毎月恐ろしい勢いで溶けています!」
執務室のソファには、商会代表である瑞月姉さんが優雅に腰掛けていたが、その美貌にも微かな疲労の色が滲んでいた。
「白石先生の厳格な品質管理や阿長さん生産管理のおかげで、ペニシリンの精製工程は完璧に安定しているわ。軍や各国の医療機関からの注文は引きも切らず、日々の利益は莫大なものになっている。けれど、それと同じくらいの速度で『未来の基盤作り』に金が消えていく……。康政、あなたの描く展望を実現するには、今の商会の稼ぎでもまだ足りないというの?」
瑞月姉さんと翠玲の厳しい視線を浴びながら、僕は手元の茶を一口啜り、静かに頷いた。
「ええ。ですが、ここから先が本命です。僕はこれから、海外から『潜水艇』を買います」
「……は?」
翠玲の口から、間の抜けた声が漏れた。
「せ、潜水艇? あの、海に潜るという鉄の筒ですか? あんな最新鋭の軍事兵器、一隻買うだけで商会が吹き飛びますわよ!」
「ですから、新品は買いません」
僕は一枚の書類を机に広げた。
「狙うのは、米国の海軍審査に落ちた『失敗作の試作艇』や、スクラップ寸前の旧型艇。あるいは設計図と中核部品のみです。それを休眠会社を経由して安値で買い叩き、鉄屑として台湾に持ち込みます。すべてを一から開発する資金も時間も、今の我々にはありません。西洋の技術を解体し、彼らの限界を知ることこそが、最も安上がりな近道です」
「なるほど。型落ち品を買って、それを自前で改良する気ね」
瑞月姉さんが、鋭い経営者の目つきを取り戻して腕を組んだ。
「でも康政。その西洋の最新機械を解体して、数十年先の理屈に作り直せるような『頭脳』が、この亜細亜にいるの?」
「見つけましたよ。父さんが、見事な調書を纏めてくれました」
僕は、父和也から受け取った裏情報の束を二人に見せた。
「牧野正博士と、その助手。東京帝国大学で、優秀すぎるが故に干されている『異端の男たち』です。彼らのような人間は、金や権力では動きません。必要なのは『極上の謎』です」
数週間後。台北の裏路地に密かに用意された瑞長財団の研究室。
そこには、内地から呼び寄せられた二人の男が立っていた。
一人は、ボサボサの髪にヨレヨレの白衣を纏い、落ち窪んだ目に狂気的な知的好奇心をギラギラと燃え盛らせた男――帝大を追われた異端の天才・牧野博士。
そしてもう一人は、牧野の背後に幽霊のように立つ、酷く青白い顔をした青年だった。目の下には濃い隈を作り、手には万が一の爆発に備えた消火用の砂袋をぶら下げている。彼が帝大で唯一、牧野の下から逃げ出さなかった変わり者の助手・小暮宗太郎だった。
「で? 帝大の地下室で腐っていた俺を、わざわざこんな南の島まで呼びつけたスポンサーってのは、どこのどいつだ?」
牧野が苛立たしげに部屋を見渡す。
部屋の隅の椅子から立ち上がったのは、九歳の子供である僕だった。
「初めまして、牧野博士。私が瑞長財団の設計責任者、新城康政です」
「あァ?」
牧野は露骨に顔をしかめ、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「子供のお守りをするために海を渡ってきた覚えはないぞ。俺は電気と電波の神髄を……」
「先生。三日ぶりのまともな食事の提供者です。噛み付かないでください」
背後の小暮助手が、ひどく平坦で感情の読めない声でピシャリと遮った。
「それに、一目でわかるこの部屋の設備にかかっている費用。帝大の我々の二年分の予算を優に超えています。この方はただの子供ではありませんよ」
「チッ。分かってるよ」
牧野は舌打ちをしつつも、助手の言葉には一理あると大人しくなった。僕は懐から一枚の紙切れを取り出して机に置いた。
「これを見てください」
それは、ただの数式と奇妙な回路図だった。
だが、牧野の視線がその紙に落ちた瞬間――彼の言葉はピタリと止まり、全身が硬直した。
「な、なんだ、これは」
牧野の目が極限まで見開かれ、震える指が紙片の上を這う。
「ガラス管の中に電極を置き……熱電子を放出させる……? 違う、ただの整流じゃない。微小な電気信号を入力すれば、出力側で波が何十倍にも増幅される……ッ!?」
それは、数年後に西洋で発明される「三極真空管」の基礎論理回路だった。現代のあらゆる電子機器の原点であり、あらゆる通信および電波・音波装置に不可欠な「増幅器」の心臓部である。
「ほう。整流だけでなく増幅器ですか。熱電子放射の制御……実に美しい」
いつの間にか牧野の横から紙を覗き込んでいた小暮助手が、死んだ魚のような目を僅かに見開いて呟いた。
「これなら、先生の無茶な高圧電流でも回路が焼き切れませんね。次の実験では、私が眉毛を焦がさずに済みそうだ」
「馬鹿野郎、小暮! 問題はそこじゃねェ!」
牧野は食い入るように数式を見つめながら、ギリッと歯を食いしばった。
「さらにその裏面! 海中を伝わる音波の反射時間を計算する『音響探信』の基礎方程式だ! ……だが、俺には分かる。理論は完璧だが、これを形にするだけの真空技術も絶縁体も、今の日本には逆立ちしたって存在しねェ!」
己の頭の中にある理想に、現実の技術が追いついていないことへの強烈な絶望。それこそが、彼が帝大で狂人扱いされた理由だった。
「だから、私が用意します」
僕の静かな声に、牧野が顔を上げた。
「あなたたちに、満足のいく実験予算と、世界中の最新素材を買い集める機会を与えましょう。その代わり、あなたたちの頭脳で、私の頭の中にある『未来の景色』を現実の図面に翻訳してほしいのです」
僕は牧野の目を真っ直ぐに見据えた。
「帝大のちっぽけな権力争いと、この南の島で、世界の海をひっくり返す通信と電気の心臓部を創り出す仕事。技術者として、どちらが面白いですか?」
牧野は数式が書かれた紙片を握りしめ、やがて、喉の奥から絞り出すような狂笑を漏らした。
「ひひっ……ははははッ! 帝大の老害どもより、九歳の子供の頭蓋骨の中の方が、よっぽど広くて底知れねェや! いいだろう、俺の脳髄、好きに使い潰してみせろ!」
「やれやれ。また徹夜の日々が始まりそうですね」
小暮助手は深くため息をつきながらも、僕に向かって深々と頭を下げた。
「スポンサー殿。先生がこの島を吹き飛ばさないよう、私が責任を持って手綱を握ります」
暴走する異端の天才と、それを冷静に制御する秀才の助手。
金庫番が悲鳴を上げるほどの予算と引き換えに、財団はついに、世界を数十年分スキップさせるための最強の「頭脳」を手に入れたのだった。




