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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第2章 胎動の教室と歯車の音

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第15話:命の恩過と、帝国の新たな規格

 明治三十八年四月。奉天会戦の激闘を終え、一時的な静寂を取り戻した満州の野戦病院。

 泥と血の臭いが染み付いた天幕の奥で、高柳軍医はランプの灯りを頼りに、果てしない書類仕事と格闘していた。


 彼の手元にあるのは、自らが率いた医療部隊が担当した傷病兵たちの「生存率」と「戦線復帰率」をまとめた膨大な統計記録である。数字は嘘をつかない。高柳の部隊が叩き出した術後の生存率は、旧態依然とした医療体制を敷く他部隊のそれを、絶望的なまでに引き離す異常な高水準を記録していた。


「高柳中尉。夜分にすまない」

 天幕の入り口が開き、松葉杖をついた将校が入ってきた。激戦の地で腹部と脚に重傷を負いながらも、ペニシリンの投与によって死淵から生還した大隊長、橘周太少佐である。


「少佐殿。まだ絶対安静の身ですが」

「すまん、どうしても礼が言いたくてな。私の部下たちも、貴官の部隊の迅速な処置と、あの『琥珀色の薬』のおかげで、信じられんほど多くの者が命を拾った。これはいったい、軍のどの機関が開発したものなのだ?」

 橘少佐の問いに、高柳は苦笑しながら首を振った。

「軍ではありません、少佐殿。台湾にある『瑞長商会』という一介の民間企業が開発した医療規格箱と、彼らが定めた衛生手順の賜物です。我々軍医は、彼らの作ったレールの上でメスを振るったに過ぎません」


 橘少佐は驚きに目を見張った後、深く頷いた。

「そうか......台湾の。高柳中尉、貴官はこの事実を上に報告するのだろう。ならば、私の名も添えてくれ。現場の将兵の命を救うのは、机上の空論ではなく、この確かな『医療の箱』だと。前線を預かる指揮官として、上層部へ強く上申する」

「感謝します、少佐殿。貴方のような現場の勇将の後押しがあれば、軍医局の石頭どもも無視はできないでしょう」


 高柳は、橘少佐から得た力強い「現場の証言」を添え、一枚の分厚い『野戦衛生兵站に関する意見書』を書き上げた。そして、軍の面子を完全に潰す覚悟で、その報告書を帝都・大本営へと送付したのである。



 一ヶ月後。帝都・東京、陸軍省の会議室。

 高柳が提出した膨大な統計データと意見書は、陸軍軍医総監をはじめとする上層部の間に、激しい反発と重い沈黙をもたらしていた。


「馬鹿な。切断手術後の化膿による死亡者が、高柳の部隊だけ皆無に等しいだと? 誇大報告も甚だしい!」

 軍医局の将校が苛立たしげに机を叩く。

「しかも、なんだこの提言は。台湾の民間商会が作った『規格箱』と『手順』を、帝国陸軍の新たな標準衛生仕様として全面採用せよだと? 我々軍部が長年かけて築いた医療体系を捨て、素人の商人に頭を下げろというのか。帝国の威信に関わる、言語道断である!」


 軍の面子と権威を重んじる将校たちが、次々と高柳の報告書を却下しようとした、その時だった。


「――待て。その書類、余にも見せろ」

 重厚な足音と共に会議室の扉が開き、一人の男が入ってきた。満州軍総参謀長・児玉源太郎である。講和への道筋を探るため、極秘裏に東京へ戻っていた彼は、部下から報告書の存在を聞きつけ、自らこの場に足を運んでいた。


 児玉は報告書を手に取ると、そこに記された圧倒的な生存率のデータと、システムを考案した『瑞長商会』、そして『康政』という名前に目を留め、ピタリと動きを止めた。


「将校殿。貴様らは、この数字を偽造だと言ったな。そして、商人の知恵など軍の威信に関わると」

 児玉は静かに、だが場を凍らせるほどの低い声で言った。

「余の元に、第三軍の乃木大将から私信が届いておる。『二〇三高地にて次男・保典が銃弾に倒れたが、台湾の商会がもたらした奇跡の薬と箱のおかげで、一命を取り留めた。あの医療体制こそ、我が軍の至宝である』とな」


 その言葉に、会議室の空気が一変した。

 軍内で絶大な敬愛を集める乃木希典。その乃木が、長男に続いて次男をも失うという悲劇を免れた。その事実の重さに、将校たちは息を呑んだ。


 児玉はさらに、報告書に添付されていた一葉の書簡を指差した。

「さらにここには、死淵から生還した橘少佐からの強い上申書も添えられている。現場で血を流す将兵たちが、軍医局の机上の空論ではなく、この『商人の箱』を求めているのだ」


 児玉の脳裏に、開戦前の帝都で対峙した、あの底知れぬ眼をした六歳の少年の姿が鮮明に蘇った。

 まだ誰も実戦の泥濘を知らなかったあの時、規格化した木箱を提示し、これからの戦争は兵站こそが命運を分けると予言してみせた子供。その言葉が今、乃木と橘という「命を救われた者たちの証言」を伴って、圧倒的な真実として児玉の目の前に突きつけられている。


「軍医総監。帝国の威信で、兵の流す血が止まるのか」

 児玉の一喝が、雷鳴のように響き渡った。

「我々は勝った。だが、それは将兵の膨大な血で贖った辛勝だ! この旧態依然とした兵站の甘さが、どれほどの命を散らせたか。高柳の提言通り、瑞長商会の規格を帝国陸軍の標準仕様として採用せよ。列強と肩を並べるための今後の軍制改革は、あの箱を基準に行う!」


 児玉源太郎という陸軍の巨魁が下した絶対的な決断。

 それは、康政が企図したシステムが、単なる一商品の納入を超え、帝国陸軍という巨大な国家機構の「標準スタンダード」として完全に君臨した瞬間であった。



 同じ頃、台湾の瑞長商会本部。

 康政は、執務室の窓辺に立ち、南国の風に吹かれながら、手元に届いた陸軍省からの『衛生兵站・正式採用通知』の電信を見つめていた。


「軍の標準を書き換える。第一段階は、これで完了です」

 康政の横で、商会会長の瑞月が、静かに微笑んだ。

「高柳軍医の執念と、橘少佐たち現場の将校の後押し。そして何より、乃木大将と児玉参謀長というトップの決断のおかげですね。これで、陸軍の衛生兵站は事実上、我々瑞長商会が握ったことになります」


「ええ。前線で誰を救うべきか、その投資の効果が最も良い形で返ってきました」

 康政は、通知書を机に置き、壁に掛けられた巨大な世界地図を見上げた。


「軍の衛生標準を塗り替えた『国家の中枢への浸透』。そして海でロシア兵を救った『国際的な人道の実績』。これで手札はすべて揃いました」

 六歳の体の中に宿る、百年先を見据えた実務家の魂が、静かに、しかし力強く震え始める。


「さあ、始めましょう。次は日本という枠を越え、平和な世界という巨大な市場に、我々の『歯車』を組み込む戦いです」

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