第10話:二〇三高地の地獄と、即納される箱
明治三十七年九月。満州・大連の野戦病院。
秋風が吹き始めたものの、前線から運ばれてくる傷病兵の熱気と死臭は、天幕の中に淀んでいた。
「高柳中尉。頼む、その『琥珀色の水』を、私の受け持ちの兵にも分けてはくれまいか」
数ヶ月前、高柳を「いかがわしい」と嘲笑していた古参の軍医少佐が、今は憔悴しきった顔で頭を下げていた。
少佐の担当する病棟では、切断手術を繰り返しても敗血症で兵士たちが次々と死んでいた。対して、高柳率いる特設衛生班の病棟だけが、信じがたい治癒率を維持している。
この「数字」はすでに報告書として大連から総参謀部へ送られていたが、現場の軍医たちにとっては、目の前の同僚が起こしている「奇跡」こそが何よりの衝撃だった。
「条件は一つです、少佐。我が班の配布する手順書を一行たりとも違えず守ること。酒精アルコールによる徹底した洗浄を怠れば、薬の効果は半減します」
「……分かっている。異論はない」
病院長もついに瑞長商会の『規格箱コンテナ』の有効性を認め、公式な活用を指示した。
これを受けて高柳の部隊は拡大され、多数の輸送馬を伴う特別医療部隊として、最大の激戦地――旅順、二〇三高地の麓へと進撃を開始した。
明治三十七年十二月。二〇三高地。
そこは、この世の地獄を具現化したような場所だった。
大部隊を率いて最前線に到着した高柳だったが、そこで直面したのは、康政が予見していた「兵站の物理的な限界」だった。
「馬が倒れたか! 予備を回せ! 小箱を泥に落とすな!」
砲火と泥濘が悪路を塞ぎ、後方拠点から「小箱」を運び出す輸送網が麻痺し始めていた。拠点のコンテナには薬があるのに、この数キロの泥道が越えられない。
その惨状の中、黒い外套に身を包んだ小柄な男が、数名の将校を連れて現れた。
満州軍総参謀長――児玉源太郎だ。
戦況打開のために最前線へ乗り込んできた児玉は、救護所の前で足を止め、厳しい表情で立ち並ぶ『医療用小箱』を睨みつけた。
「これか。大連からの報告にあった『死神を追い返す箱』というのは」
児玉は膝をつき、泥にまみれた小箱の蓋を開けた。
馬の背に合うよう計算し尽くされた寸法、そして鼻を突く高純度エタノールの匂い。児玉はそれを見て、記憶の底にある「東京で会ったあの奇妙な小僧」の姿を呼び起こした。
「ふん。報告書で読んだ時は眉唾だと思ったが……実物を見れば分かる。この徹底した合理性、やはりあの小僧――康政の仕業か。後藤新平の奴め、本当に戦場にまであの子供の玩具をねじ込んできおったか」
児玉は呆れたように、しかし頼もしげに笑った。
「高柳中尉! 直ちに台湾の後藤へ打電しろ。『箱の威力は確認した。ありったけ増産して輸送せよ。軍の全力をもってこれを受け入れる』とな!」
同日。台湾総督府、民政長官室。
「康政! 児玉大将からの緊急電信だ! 読んで字の如く、ありったけだぞ!」
後藤新平長官が、興奮で赤ら顔になりながら電文を机に叩きつけた。
「満州の帝国陸軍全体がこの薬を求めている。だが、この数は尋常ではないぞ。白石医師に頼んで、今すぐ人を集めて……」
僕は長官の焦りを見つめながら、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「そんなにたくさん、必要なんですか? 大変だ」
「すっとぼけるな! お前のことだ、こうなることは分かっていたんだろう?」
後藤長官の鋭い視線が僕を射抜く。僕は一瞬だけ沈黙し、それから少しだけ声を潜めて笑った。
「阿長たちが、お節介なんです。軍医様たちが喜んで使ってくれていると聞いて、いつ注文が来てもいいように、寝る間も惜しんで準備を始めてしまっていて」
「何だと?」
「明日の朝の『瑞昌丸』に、規格箱コンテナ三十基は積み込めるはずです。白石先生も、品質のチェックは終わっていると仰っていましたし……。運が良かったですね、長官」
長官室に重苦しい沈黙が流れた。
後藤長官は、目の前の六歳の子供が語る「運が良かった」という言葉が、どれほど周到に準備された嘘であるかを察していた。
結果が出る前から、巨額の投資をして量産体制を整えていた。そうでなければ、この規模の即納など物理的に不可能なのだ。
「康政。貴様、化かし合いをするにはまだ若すぎるぞ」
後藤長官は椅子に深く背を預け、苦笑いとも戦慄ともつかぬ顔で僕を見つめた。
「いいだろう。貴様の『お節介な部下たち』に感謝しておこう。……直ちに船を出せ」
「はい。喜んで、長官」
僕は子供らしい無邪気な礼をして、長官室を後にした。
背後に刺さる後藤新平の視線が、かつてないほど重く、そして熱を帯びているのを感じながら。




