第5話:甘い蜜の蒸留塔
明治三十五年の秋も深まり、台北の街には幾分か涼やかな風が吹き抜けるようになっていた。
小学校での遠足から数週間。僕の日常は、午前中は小学校という名の「箱庭」で同級生たちと適当に同調し、午後は大稲埕の瑞長商会に戻って実務の基盤を組み上げるという、奇妙な二重生活で埋め尽くされていた。
商会の敷地の最奥。かつては古い倉庫が並んでいた場所に、今では三本の細長い煙突を突き出した真新しい煉瓦棟がそびえ立っている。
「康政様、温度計の針が指定の目盛りを指しました! 翠玲さん、今です!」
瑞月姉さんの澄んだ声が、むっとするような熱気と、焦げた砂糖のような濃密な匂いに満ちた棟内に響く。
そこには、僕が図面を引き、阿長たち現地の職人が心血を注いで組み上げた、三基の銅製「連続式蒸留塔」が鎮座していた。前に試作した単発式の蒸留器とはわけが違う。これらは互いに真鍮の配管で連結され、原料を投入し続ける限り、止まることなく純粋なアルコールを吐き出し続ける、文字通りの「心臓部」だ。
「分かっています、バルブ開きます!」
翠玲が、真剣な面持ちで蒸気管のバルブを回す。
キィィ、と高い金属音が鳴り、配管が熱膨張で微かに震えた。やがて冷却管を通った液体が、抽出先の巨大なガラス瓶へとポタポタと、しかし絶え間なく滴り落ち始める。
瑞月姉さんがその瓶を布越しに持ち上げ、注意深く匂いを嗅いだ。
「……ツンとした、ひんやりするような香りです。康政様、小さな試作器の時とは明らかに違います。驚くほど透き通っていますわ」
僕は瑞月姉さんから瓶を受け取り、軽く振って表面張力を確かめた。
(よし。純度九十パーセントは超えているはずだ)
前世の知識である多段蒸留の理論。それを当時の未熟な溶接技術と手作業の温度管理に落とし込むのは、筆舌に尽くしがたい苦労があった。だが、これでペニシリンを安定して精製するための最大の障壁であった「安価で大量のエタノール確保」が、現実のシステムとして解決されたのだ。
「阿長、蒸気圧の漏れはない?」
「はい、坊ちゃん。連結部のつなぎ目も、ご指示通りに蜜蝋と石綿で調整を重ねました。以前の一基だけの時とは圧力が桁違いですから、正直、調整中は棟ごと吹き飛ぶかと思いましたが……見てください、この安定した滴りを! これなら二十四時間の連続稼働も夢じゃありません」
汗を拭いながら誇らしげに頷く阿長に、僕は心からの感謝を込めて頷いた。
「坊ちゃん……」
翠玲が算盤を弾き終え、微かに震える声で帳簿を差し出した。
「抽出量と稼働時間、先月の『机上の計算』を上回る歩留まりです。台湾中からタダ同然で買い集めた廃糖蜜が、この塔を通るだけで、新薬を作るための『命の水』に、そして莫大な利益に変わる……。これはもはや、商売というより錬金術ですわ」
翠玲の顔には、かつての不安は消え、商人としての深い確信と興奮が浮かんでいた。外から輸入すれば莫大な外貨が飛んでいく希少な溶剤を、自分たちの領地内で無尽蔵に、しかも圧倒的な低コストで生み出す。この「垂直統合」こそが、列強の巨大資本と渡り合うための僕の最強の武器だ。
*
翌日の尋常小学校。
秋風が吹き込む教室では、同級生たちが無邪気な声を上げていた。
「見てくれよ、この倫敦製の万年筆。親父が特別に輸入してくれたんだぞ!」
大河内龍之介が自慢げに筆箱を広げ、御子柴烈が退屈そうにあくびを噛み殺し、久世景秀がそれを冷笑的に眺めている。
彼らと同じ六歳の子供として机に座りながら、僕の頭の中は昨日の蒸留塔の圧力データと、次なる工程――「大量培養した青カビからのペニシリン抽出スケジュール」の修正で埋まっていた。
(大河内くんの万年筆のインクよりも、僕にとっては今朝確認した第三バルブの締め具合の方が、遥かに世界の運命を左右する重大事に思えるな)
放課後の鐘が鳴る。それは、僕の「本当の仕事」が始まる合図だ。
その日の夕暮れ。再び商会に戻った僕は、試験管の中で静かに揺れる透明な抽出液を見つめていた。
(第一段階は、完全にクリアした)
教室での他愛ない日常という「仮面」と、煉瓦棟の奥で熱気を上げる近代工業の「胎動」。
二つの世界を行き来しながら、僕は自分の手の中にある確かな武器の重みを感じていた。外の世界でどれほど巨大な歴史のうねりが迫っていようと、今の僕にとって最も確実なのは、この銅の塔から滴り落ちる科学の結晶だ。
一九〇二年の終わり。
僕が台湾の片隅で組み上げた三基の歯車は、来るべき戦争という巨大な嵐に向けて、静かに、そして力強く回り始めていた。




