第4話:夏の残り香と、真実を創る少女
じっとりと肌にまとわりつくような、猛烈な台湾の夏が過ぎようとしていた。
旧暦の七月。台湾では「鬼月」と呼ばれ、あの世の門が開き、霊たちがこの世に戻ってくる季節とされる。大稲埕の街角では、どの家も通りに供え物を並べ、線香や紙銭を燃やす「中元普渡」の儀式が行われていた。
「康政様、冷たい西瓜を切りましたよ。少し塩を振ると、甘みが増して美味しいんです」
夜風が吹き抜ける新城家の縁側で、リンが硝子の皿に盛られた鮮やかな赤色の西瓜を運んできた。
「ありがとう、リン。瑞月姉さんたちも休んだらどう?」
僕が声をかけると、庭先で紙銭を燃やす火鉢の片付けをしていた瑞月姉さんと翠玲さんが、ふう、と額の汗を拭って縁側に腰を下ろした。
「台湾の霊魂(好兄弟)へのご挨拶は終わりました。あとは、旦那様のお家の番ですね」
瑞月姉さんが微笑みながら視線を向けた先では、父・和也が、小さな素焼きの皿で麻幹を焚いていた。日本のお盆の風習である「迎え火」だ。
台湾の風習と、日本の風習。本来なら交わることのない二つの文化が、この縁側ではごく自然に溶け合っている。線香の独特な甘い香りと、日本の蚊遣り豚から立ち上る除虫菊の匂い。
僕は西瓜にかぶりつきながら、縁側で笑い合う父や瑞月姉さんたちの姿をぼんやりと眺めていた。
(この穏やかな日常を続けるためにも、僕は僕の仕事を急がないとね)
秋風の気配に混じって、遠い北の地で燻る火薬の匂いが、歴史の知識として僕の鼻腔を掠める。僕は小さく息を吐き、西瓜の種を庭先の暗がりへと吹き飛ばした。
やがて季節は巡り、台北の街にも秋の涼びやかな風が吹き始めた頃。
僕たち台北尋常小学校の一年生は、近代化が進む台北駅周辺への「野外学習」に出かけていた。
煉瓦造りの駅舎や活気あふれる市場の視察。御子柴烈は相変わらず退屈そうに欠伸を噛み殺し、久世景秀は行き交う大人たちの力関係を観察しては薄く笑っている。
そして列の最後尾では、橘響子が、駅の構造や荷馬車の数をひたすら手帳に書き留めていた。
事件が起きたのは、広場の木陰で昼食の休憩を取っていた時だった。
「ない! 僕のお菓子がないぞ!」
クラスメイトの大河内龍之介が、顔を真っ赤にして立ち上がった。総督府高官の息子である彼が自慢げに見せびらかしていた、舶来品の焼き菓子が入った美しい金属製の缶が消えていたのだ。
「誰が盗んだ! ……あいつだ! あそこにいる汚い労働者が盗んだに決まってる!」
パニックになった龍之介は、近くの荷車の下で休んでいた台湾人の荷運びの青年を指差して喚き散らした。
たちまち、引率の教師たちの顔色が変わった。大河内家の機嫌を損ねれば、自分たちの評価に関わる。彼らは証拠もないまま青年に詰め寄り、高圧的な態度で持ち物を改めさせようとし始めた。
「おい、証拠もないのに疑うな! 卑怯だぞ!」
御子柴が怒鳴り声を上げるが、教師たちは「子供は口を出すな」と取り合わない。
「あーあ。大人は保身のためなら、簡単に誰かを『生贄』にするね」
久世が呆れたように冷笑を浮かべる。自分の非を認めるより、立場の弱い誰かに罪を押し付ける方が、大人たちにとっては効率的な「帳尻合わせ」なのだろう。
(やれやれ。仕方ない)
僕は立ち上がると、龍之介が座っていた場所の周辺を歩き回った。そして、少し離れた茂みの手前で足を止め、草むらの奥を指差した。
「先生、泥棒はあっちです」
「新城くん、急に何を……」
「よく見てください。お菓子を包んでいた紙の切れ端が落ちています。それに、この土の上の足跡。人間の靴じゃなくて、犬のものです」
僕は茂みを掻き分けると、そこには中身を綺麗に舐め回された空のお菓子の缶が転がっていた。野犬か、あるいはそれに類する動物が、匂いにつられて持ち去ったのだ。
物理的な問題は、これで解決した。
しかし、その場には最悪な「感情の泥沼」だけが残された。
平民を泥棒扱いして騒ぎ立てた龍之介の『面目』そして、それに同調してしまった教師たちの『バツの悪さ』。自分たちの非を認めたくない教師たちは、咳払いをして誤魔化そうとした。
「ま、まあ……あのように紛らわしい場所にいたあの者にも、少しは非があるということで……」
見苦しい大人たちだ。僕が呆れてため息をつこうとした、その時だった。
「先生。私の『記録』には、こうあります」
よく通る、凛とした少女の声が響いた。
橘響子だった。彼女は手帳を広げ、朗読するように言葉を紡ぎ始めた。
「――『休憩中、腹を空かせた恐ろしい野犬が、休んでいた労働者の青年に襲いかかろうとしました。それに気づいた勇敢な大河内くんは、青年を助けるため、自らの高価なお菓子を身代わりとして茂みに投げ与えました。なんという誇り高き、帝国の男児としての精神でしょう』」
しんと、その場が静まり返る。
それは、事実の断片(野犬、お菓子、青年)を並べ替えて作られた、誰も傷つかない、しかし誰も反論できない完璧な『嘘』だった。
「あ……ああっ! そ、その通りだ!」
誰よりも早くその『美談』に飛びついたのは、教師たちだった。
「なんという勇敢な行いか! 先生は大河内くんを誇りに思うぞ!」
龍之介も、最初は戸惑っていたものの、やがて居心地の悪さが消え去り、「ふん、帝国の男として当然のことをしたまでだ」と胸を張った。
丸く収まった。僕の出した『事実』に、彼女が綺麗な服を着せたのだ。
帰り道、列の後ろを歩く響子に、僕は並んで話しかけた。
「君が作文で助け舟を出さなかったら、先生たちは面目を守るためにあの青年を理不尽に罰していただろうね。……でも、あれは嘘だ」
響子は手帳をパタンと閉じ、僕を見て不敵に笑った。
「事実はただの『点』よ。誰がその点を線で結ぶかで、『真実』の形なんていくらでも変わるわ。大人はね、醜い事実よりも、自分にとって都合の良い美しい嘘の方を信じたがる生き物なの」
涼しい顔で言い放つ彼女の横顔を見て、僕はハッとした。
(なるほど。僕の『論理』や『金』で物理的な問題は解決できても、人間の厄介な『感情』や『面目』まではコントロールしきれない。事実に物語を被せて、周囲の反発を無力化してしまう彼女の力は……僕にはない、全く別の強力な武器だ)
強引に物事を進めようとすれば、必ず人間の非合理な摩擦が生じる。だが、彼女のこの異質な才能があれば、それをも手品のように消し去れるかもしれない。
「面白いね、君のその手帳」
僕は、彼女の持つ手帳を指差して笑いかけた。
「今度、僕のやっている退屈な商売の話も、君のペンで少しだけ面白おかしく書いてみてくれないかな」
響子は少しだけ目を丸くした後、ふっと口角を上げた。
「気が向いたら、取材してあげてもいいわよ」
まだ明確な目的があるわけではない。ただ、自分の手が届かない領域の才能を持つ「面白い同級生」を見つけた。
秋風が吹き抜ける台北の街角で、僕は彼女の才能に、純粋な感嘆と興味を抱いていた。




