第3話:語学の密室と、甘い蜜の錬金術
明治三十五年、初夏。
尋常小学校での授業を終えた放課後、僕の「もう一つの学校」は、総督府の奥に用意された一室で行われていた。
「――『ペテルブルクからの指令により、極東方面軍は大量の毛皮付き外套および、肉の缶詰の調達を急いでいる』。……先生、訳はこれで合っていますか?」
分厚いロシア語の原書から顔を上げ、僕は無邪気に小首を傾げた。
向かいの長椅子に座るロシア語の『家庭教師』――後藤新平長官の息がかかった軍の特務機関員――は、額にじっとりと汗を浮かべていた。
「あ、ああ……完璧だ、新城くん。発音も申し分ない」
「よかった! でも変ですね。この書類の宛先になっているウラジオストクの部隊は、そんなにたくさんの冬役立ち備品が必要なんですか? まるで、シベリア鉄道に乗ってやってくる大勢のお友達を、寒い冬の間ずっとおもてなしする準備みたい」
特務機関員の顔から、すっと血の気が引くのが分かった。
単なる語学のテキストとして渡された「極東ロシア軍の物資調達リスト」。それを読み解けば、ロシアがウラル山脈の向こうから大規模な兵力を極東へ移動させ、そのまま冬営させる準備を進めていることは明白だった。
「今日は、ここまでにしようか。よく復習しておくように」
逃げるように部屋を出ていく機関員の後ろ姿を見送りながら、僕は密かに息を吐いた。
(後藤長官め。ただの語学の授業に本物の軍事情報を混ぜて、僕の反応を試しているな)
僕は机の上のロシア語の書類をパラパラと捲った。
(だが、これで確認できた。極東ロシア軍の物資調達の動きは、僕の記憶にある史実と寸分違わない。僕が台湾で物流を弄ったくらいで、日露戦争という歴史の大きな流れに影響は出ていないらしい)
特務機関員が持ち込む「生きた情報」は、世界の軍事動向と自分の立ち位置を測るための、都合の良いバロメーターになっていた。
総督府を出た僕は、護衛のリンと共に大稲埕に構える瑞長商会の倉庫群へと向かった。
建設予定地である広大な空き地には、すでに陳瑞月、黄翠玲、そして阿長の三人が集まっていた。
「坊ちゃん、お待ちしておりました。ご指示の通り、新工場の図面と予算案を引いてみましたが……」
翠玲が、珍しく困惑した顔で分厚い帳簿を抱えている。
「青カビから『ペニシリン』を安定して抽出・精製するためには、大量の『高純度アルコール(エタノール)』が必要とのこと。しかし、工業用アルコールを内地や海外から輸入していては、薬の原価が跳ね上がってしまいます」
翠玲の懸念はもっともだった。ペニシリンの大量生産における最大のボトルネックは、抽出液の不純物を取り除くためのアルコールの確保にある。
だが、ここは台湾だ。解決策はすでに僕の足元に転がっている。
「翠玲さん、輸入なんてしないよ。アルコールは、この台湾で無尽蔵に、しかもタダ同然で作れる」
僕がそう言うと、瑞月が目を丸くした。
「どういうことですか、康政様」
「新渡戸先生が今、台湾のあちこちに新しい『製糖工場』を作らせているよね。サトウキビからお砂糖を作るとき、最後に黒くてドロドロした甘い汁がたくさん余るはずなんだ。それを何て言うか知ってる?」
「廃糖蜜ですね。家畜の飼料にするか、大半は使い道がなくて捨てられていると聞きますが……」
阿長が顎を撫でながら答える。
「それだよ」僕は満面の笑みを作った。「その捨てられている廃糖蜜を、商会で全部安く買い叩くんだ。それを酵母で発酵させて蒸留すれば、立派な高純度アルコールになる。ゴミから、薬を作るための必須素材を錬成するんだよ」
しんと、倉庫に静寂が落ちた。
台湾の基幹産業として国策で爆発的に増産されているサトウキビ。その副産物である産業廃棄物を独占的に買い上げ、医療用物資へと変換する。原料費はほぼゼロに等しい。
翠玲が、わななきながら算盤を弾き始めた。
「……原料費がタダ同然で、アルコールが作り放題。それがすべて、新薬の利益に乗る……!」
翠玲は帳簿を抱きしめ、悦楽に顔を歪ませた。
「坊ちゃんは商売の神様です! すぐに各地の製糖工場に使いを走らせ、廃糖蜜の独占買取契約を結んできます!」
「康政様。こちらも、ご検分をお願いします」
興奮する翠玲を横目に、阿長が倉庫の奥から一つの木箱を運んできた。
完成したばかりの「新城規格(SSコンテナ)」の医療用モデルだった。頑丈な外殻を開けると、内部は細かい区画に分かれており、氷を入れる冷却層、ペニシリンの培養トレイ、そしてエタノールを入れるガラス瓶が、寸分の狂いもなく隙間なく収まるよう設計されている。
「素晴らしい。これなら、台湾海峡の荒波に揺られても、中のガラス瓶や培養液が割れることは絶対にないね」
「はい。積み下ろしも、規格通りに組まれた荷車を使えば、これまでの半分の時間で済みます」
阿長の報告に、僕は満足深く頷いた。
エタノールの錬金術と、このSSコンテナ。
これで「命を運ぶ箱」を量産する準備は整った。
僕は倉庫の入り口に立ち、初夏の風が吹く北の空――遠く満州の地へと視線を向けた。
(開戦まで、あと二年か)
日露戦争は必ず起きる。だが、僕がどれほど画期的な薬と物流網を用意したところで、旧態依然とした巨大な帝国陸軍全体を直ちに動かせるわけがない。史実通りにいけば、数多の兵士が銃弾だけではなく、脚気かっけなどの恐ろしい病や劣悪な衛生環境によって命を落とすことになるだろう。
それに、僕の介入がこの先の歴史にどのような影響を及ぼすかは分からない。僕の用意した『命の箱』も、凄惨な戦局全体から見れば、大海に投げ込んだただの小石に過ぎないかもしれない。
(まあ、やれるだけの準備はやっておこう)
すべてが計算通りにいくとは思っていない。だが、規格化された物流とペニシリンという楔くさびを、戦場に打ち込んでおく。それが前線の生存率をどれだけ引き上げ、結果として巨大組織の在り方にどう影響を与えていくか。今の僕にできるのは、ただ淡々と足場を固めることだけだ。
僕は、目前に迫る歴史のうねりを見据えながら、静かに息を吐いた。
少しでも多くの理不尽を減らすため。台湾の片隅で、着々と僕の歯車が組み上がりつつあった。




