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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第2章 胎動の教室と歯車の音

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第2話:教室の箱庭と、空を飛ぶ紙

 明治三十五年、四月。

 台北尋常小学校の真新しい教室には、春の柔らかな日差しと共に、特有の空気が淀んでいた。

 黒板に向かって並べられた机に座る三十名ほどの児童たちは、皆一様に上等な身なりをしている。総督府の高官、軍の将校、あるいは内地から渡ってきた裕福な商人たちの子息。ここは単なる学び舎ではなく、親たちの持つ階級や力関係がそのまま持ち込まれる、小さな「箱庭」だった。


 教室の後方の席からその様子をぼんやりと眺めながら、僕は小さく息を吐いた。

(初日から、ずいぶんと賑やかなことだ)

 まだ授業も始まっていないというのに、教室の前方ではすでにひとつの騒ぎが起きようとしていた。

 中心にいるのは、恰幅の良い少年だ。総督府の高官の息子の大河内龍之介りゅうのすけだ、取り巻きを従え、自慢げに金ピカの懐中時計を見せびらかしている。


「いいか? これは倫敦(ロンドン)で親父が買ってきた本物の舶来品だぞ。お前らなんかが一生かかっても買えない代物だ」

 少年がふんぞり返ると、周囲の子供たちは羨望の眼差しを向けた。

 その輪の少し外側で、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている少年がいた。久世景秀(くぜ かげひで)、内地の有力な華族の三男坊だと聞いている。

 久世は、おずおずと時計を見つめていた小柄な少年――平民出身の商人風の身なりをした彼――の背中を、ポンと軽く押した。

「そんなに見たいなら、少し触らせてもらえば? ほら、よく見てごらんよ」

 久世の言葉に背中を押されるように、小柄な少年が恐る恐る手を伸ばした。

 その瞬間だった。

「あっ!」

 誰かの手がぶつかったのか、あるいは久世が絶妙なタイミングで足を引っかけたのか。時計は少年の手から滑り落ち、硬い板張りの床に激突した。

 パチン、と乾いた音が響き、文字盤を覆うガラスが割れて飛んだ。


 教室が水を打ったように静まり返る。

「き、貴様! 何てことをしてくれたんだ!」

 大河内龍之介が顔を真っ赤にして怒鳴り上げた。小柄な少年は顔面を蒼白にし、床にへたり込む。

「弁償しろ! お前のような平民の分際で、どうやってこの時計の代金を払うんだ!」

 怒号が響く中、久世だけは「あーあ、困ったねぇ」と口では同情しながら、面白そうにその様子を観察していた。どうやら自分で手を下さず、他人が慌てふためく状況を作り出して遊んでいるらしい。ずいぶんと性格の悪い暇つぶしだ。


「おい、やめろ」

 その空気を切り裂くように、低い声が響いた。

 立ち上がったのは、教室の最前列で腕を組んでいた、ひときわ体格の良い少年だった。御子柴烈(みこしばれつ)、台湾駐留軍の猛将として名高い将校の嫡男だ。

 御子柴は、大河内龍之介に大股で歩み寄ると、真っ直ぐに睨みつけた。

「わざと落としたわけじゃないだろう。弱い者いじめみたいな真似をして、恥ずかしくないのか」

「な、なんだと……! 貴様、軍人の倅だからって偉そうに!」

「ああ? やるか」

 御子柴が、太い腕を振り上げ、拳を握りしめた。

(やれやれ)

 僕は立ち上がった。あそこで御子柴が彼を殴れば、確実に先生が飛んできて、親まで呼び出される大騒動になる。入学初日からそんな面倒なホームルームに付き合わされるのは御免だった。


 僕はトコトコと歩き出し、振り下ろされそうになった御子柴の袖を、ちょいちょいと引っ張った。

「御子柴くん、手が痛くなっちゃうよ」

 僕が声をかけると、御子柴が怪訝な顔で僕を見下ろした。

「なんだ、お前は」

「だって、殴っても時計のガラスはくっつかないし、先生に怒られて廊下に立たされるだけだよ? そんなの、全然面白くないじゃない」

 六歳児の素直な疑問として伝えると、御子柴は一瞬あっけにとられ、やがて渋々と握りしめていた拳を下ろした。


「ねえ、泣かないで」

 僕は、床にへたり込む少年と、まだ顔を真っ赤にしている大河内龍之介の間にしゃがみ込んだ。

「壊れた時計より、ずっと面白いものを見せてあげる」

 僕は懐からノートを一枚破り取ると、素早い手つきでそれを折り始めた。

 前世の知識である流体力学と、翼の断面の理屈を少しだけ応用した、よく飛ぶ紙滑空機だ。

「鳥が空を飛ぶのはね、気合でも魔法でもないんだよ。ただの『理屈』なんだ」

 僕は立ち上がり、出来上がったその不格好な紙の塊を、教室の奥へ向けて軽く押し出すように放った。


 ――すうっ、と。

 それは、教室の空気を綺麗に捉え、滑るように真っ直ぐに飛んでいった。

「なんだあれ!?」

「飛んでる……鳥みたいだ!」

 子供たちから驚きの声が上がる。紙滑空機は長い時間宙を舞い、黒板の桟へふわりと着陸した。


「どう? すごいでしょ」

 僕は、呆然としている高官の息子を振り返って笑った。

「時計のことは許してあげるって約束するなら、特別に君だけに、この『絶対に落ちない鳥』の折り方を教えてあげるよ」

「ほ、本当か!?」

 大河内龍之介の瞳からはすでに怒りは消え失せ、見たこともない新しい玩具への興味でいっぱいになっていた。「うん、約束だ」と彼が頷いたことで、険悪だった空気は嘘のように霧散した。


 子供たちが教卓の紙飛行機に群がる中、御子柴だけがその場に立ち尽くしていた。

「魔法か……?」

 空を飛んだ紙の軌跡から目を離せない御子柴に、僕は笑いかけた。

「魔法じゃないよ、ただの『理屈』だよ。風の通り道を計算すれば、いつか鳥よりも巨大な金属の塊だって、空を飛べるようになるかもしれないね」

「金属が、空を……」

「地べたで喧嘩するより、そっちの方が面白そうだと思わない?」

 御子柴は弾かれたように僕を見た。その瞳には、先ほどの怒りとは違う、純粋な好奇心が灯っていた。


「君、変な奴だね」

 僕が席に戻ろうとした時、久世が少しだけ引きつった笑みを浮かべて話しかけてきた。

「ただの紙切れ一つで喧嘩を止めて、しかもあいつに恩まで売った。……君、本当に僕たちと同い年?」

 自分の作った意地悪な遊びを、あっさりと別の遊びで上書きされたことが面白くないらしい。

 僕は小首を傾げて答えた。

「ただの紙飛行機遊びだよ。でも、久世くんのやってた遊びよりは、みんな楽しそうでしょ? 今度、もっと面白い遊びを思いついたら誘うから、君も一緒にやろうよ」

 久世は目を丸くした後、ふっと口元を緩めた。

「生意気だなぁ。まあいいよ、他の奴らよりは退屈しなさそうだし」


 席に戻りながら、僕は教室の一番後ろの席に目を向けた。

 そこには、騒ぎの輪に加わらず、手帳に何かを熱心に書き留めている少女がいた。橘響子(たちばなきょうこ)

 ふと顔を上げた彼女と目が合う。彼女は僕をじっと観察するような目を向けた後、少しだけ口角を上げて、また手帳に視線を戻した。


 明治三十五年、春。

 のちに長い学生時代を共に過ごし、様々な出来事を経て、僕の最も頼もしい理解者となっていく彼らとの、これが最初の出会いだった。

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