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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第二章 胎動の教室と歯車の音

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第1話:熱狂の島と、海を越えるための符丁

 明治三十五年、一月。  玄界灘の荒波を越え、基隆(キールン)の港に降り立った僕たちを待っていたのは、冬の帝都の刺すような寒さとは無縁の、生温かく湿った南国の風だった。


 日本の中枢である陸軍、財界、海軍に「物流の規格化」という強烈な楔を打ち込むという、綱渡りのような帝都出張を終え、僕たちはついに台北の地へと帰還した。  馬車を降りて深呼吸をすると、むせ返るような潮の香りと、屋台から漂う八角や香辛料の匂いが肺を満たす。児玉源太郎の応接室で嗅いだ、あの濃密な血と葉巻の匂い、そして古色蒼然とした権威の重圧から解放されたことを、五歳の小さな身体が本能的に喜んでいた。


 官舎の庭にはガジュマルの緑が鬱蒼と茂り、内地のような雪景色はない。しかし、食卓の上だけは正月の華やぎに満ちていた。


「康政、学校へ行く前に少しでも太っておかないと。内地の寒さで少し痩せたのではないかしら」  母さんが心配そうに僕の顔を覗き込みながら、大ぶりの魚の丸揚げを僕の皿に取り分けた。 「坊ちゃん、お野菜も食べないと背が伸びませんよ」  リンさんも、甲斐甲斐しく僕の茶碗に青菜の炒め物を山盛りにする。


 僕と父さん、そして同行していた瑞月ミズキ姉さんと阿長アチョを笑顔で迎えたのは、留守を守っていた母さんとリンさん、そして商会の番頭代行である黄翠玲ホァン・スイリンと、長老格の陳チェンだった。


「和也殿、康政殿。お帰りなさいませ。皆様が帝都で大暴れしている間、こちらの金庫は私がしっかりと守り抜きましたわ」  翠玲が、手慣れた手つきで算盤を弾きながら不敵に微笑む。彼女の徹底した資金管理があったからこそ、瑞月姉さんは安心して帝都での交渉に集中できたのだ。


「陳殿も、良質な木材の確保に奔走していただき感謝する。おかげでSSコンテナの量産体制に目処が立った」  父さんが杯を掲げると、陳は照れくさそうに無骨な髭を撫でた。 「なんの、全ては瑞月お嬢様と若君の算盤のおかげです。現場の職人たちも、日本人の監督と通訳を介して見事な連携を見せております。さあ、今日はとことん食べましょう!」


 阿長が珍しく豪快に笑い、商会の仲間たちと酒を酌み交わす。  宴が深まるにつれ、大人たちの話題は自然と「帝都の現実」へと移っていった。


「しかし……内地の港湾は、想像以上に酷い有様でしたな」  阿長が、杯を見つめながら静かに吐き捨てた。「横浜の桟橋は、まるで血管が硬化した老人のようでした。不揃いな荷車、属人的な人足のカン頼み。いくら我々が完璧な箱を作っても、受け入れる側にそれを取り回す『仕組み』がない」


「ええ。だからこそ、児玉閣下という劇薬が必要だったのよ」  瑞月姉さんが、ふう、と息をつく。「あの御方の殺気たるや、今思い出しても背筋が凍るわ。和也様、よくぞあの重圧の中で堂々と渡り合ってくださいました」


「いや、私はただの盾だ。康政が用意した『理』がなければ、五分と立たずに叩き出されていただろう」  父さんは苦笑しながら、まだ微かに震えの残る手で酒を煽った。帝都でのヒリヒリとした緊張感が、家族と仲間の温もりの中でゆっくりと解けていく。だが、僕の頭はすでに「次の一手」へと動き出していた。


 宴の最中、僕は瑞月姉さんと翠玲、そして父さんを別室の書斎へ呼んだ。


「お父さん。SSコンテナが軍に認められた次は、いよいよ『命の箱』を本格的に動かそう」  僕は、懐から一枚の図面を取り出し、机に広げた。商会の一角に建設を予定している、ペニシリン抽出のための特殊プラントの設計図だ。


「これを、今の家内制手工業から、組織的な生産ラインへ移行させるんだ。翠玲さん、これからの生産管理と精製費用の計算をお願いできるかな?」


 翠玲は図面を覗き込み、実務家としての鋭い目を細めた。 「若君……台湾のこのむせ返るような湿気と熱気の中で、青カビだけを純粋に培養するなど、至難の業です。雑菌が少しでも混ざれば、全滅しかねません」


「だから、建物の構造そのものを統一するんだ」  僕は図面の一角を指差した。「入り口は必ず二重扉エアロックにして、外の空気と遮断する。壁には厚く漆喰を塗って調湿効果を持たせ、部屋の四隅には、氷室の要領で切り出した氷を配置して室温を一定に保つ。そして培養には、コンテナの寸法に完璧に収まる『定寸のガラス培養容器』を使うんだ」


「なるほど……容器の寸法を統一すれば、一度に空調管理できる歩留まりが劇的に跳ね上がりますね」  翠玲が、パチパチと頭の中で算盤を弾く音階が変わった。 「問題は、その熱や湿気に耐えうる精度の高いガラス容器をどう調達するかです。内地から取り寄せるか、それとも総督府を巻き込んで台湾に硝子窯を作るか……私が徹底的に費用を割り出してみせましょう」


「頼むよ。まずは陸軍の重要拠点向けの備蓄から始めよう。これが、この国を病と絶望から救うための、最初の一歩になる」  ペニシリンを「魔法」から「産業」へ。僕の言葉に、大人たちが力強く頷いた。


 歴史の歯車は、容赦なく回る。


 明治三十五年、一月末。  その報せは、海底電信線を伝って台湾総督府へ、そして日本中の街角へと瞬く間に駆け巡った。


『大日本帝国、大英帝国トノ間ニ同盟条約ヲ締結セリ』


 日英同盟の公表。  世界最大の覇権国であるイギリスが、極東の小さな島国を対等のパートナーとして認めた。その事実は、台湾に住む日本人社会をも熱狂の渦へと叩き込んだ。  台北の街には日の丸とユニオン・ジャックが掲げられ、夜になれば提灯行列が通りを練り歩き、「万歳」の声が夜空に響き渡った。


 官舎の縁側に座り、遠くから聞こえる歓声を見つめながら、僕は一人、冷え切った緑茶を啜っていた。大人たちの熱狂が大きければ大きいほど、僕の心は急速に冷えていく。


(二十年だ)


 僕は知っている。この同盟が、わずか二十年後のワシントン会議であっさりと破棄される時限爆弾だということを。  イギリスという後ろ盾を失った日本は孤立を深め、太平洋の向こう側で力を蓄えるアメリカという鋼鉄の怪物と、絶望的な殴り合いを演じることになる。あの、全てを焼き尽くす地獄の未来へ。


「康政、こんな所で風に当たっていると冷えるぞ」  背後から、父さんが僕の肩に厚手の外套を掛けてくれた。


「父さん。みんな、とっても嬉しそうだね」 「ああ。一等国の仲間入りをしたのだからな」  父さんの顔にも安堵の色が浮かんでいた。だが、僕はその外套の襟をぎゅっと握りしめ、提灯の炎から視線を外さずに言った。


「でも、僕たちが役に立たなくなったら、イギリスはすぐに手を離すよ。だから僕たちは、ずっと彼らにとって役に立つ『道具』であり続けなきゃいけないんだ。僕たちの作り上げる補給網が、イギリスにとっても手放せないものになれば、彼らは日本を見捨てられない」


 五歳の子供が発した、あまりにも冷徹な国際政治の真理。  父さんはハッとして僕を見下ろし、そして複雑な表情でその言葉を飲み込んだ。


 二月に入り、台北郊外の大工場は本格的な稼働を始めた。  ある日、視察に訪れた後藤長官と新渡戸稲造先生の少し後ろを歩きながら、僕は出荷待ちのSSコンテナに貼り付けられた印字ラベルを無言で確認していた。  そこには、日本語の下に英語で『Medical Supplies(医療物資)』『Keep Dry(水濡れ厳禁)』と記されている。


(スペルミスもない。今は内地向けが主だが、将来的に同盟国であるイギリスの船や、海外の港を経由することになっても、これなら荷扱いを間違えられることはないな)


 前世の仕事で、英語の貿易書類や海外の法案を日常的に読み込んでいた僕にとって、この程度の英文を読むのは息をするのと同じくらい容易いことだった。ふと、視線を上げた新渡戸先生と目が合った。


「おや、康政君。君は、そのアルファベットの羅列が読めるのかね?」


 僕は歩みを止め、子供らしい愛想笑いを一切消して、静かに新渡戸先生を見上げた。 「はい。大英帝国との同盟が成った以上、英語は世界の海と商いを繋ぐ絶対的な共通語です。これからの物流を握る上で、最低限の符丁は頭に入れています」


 五歳の幼児から発せられた淀みのない合理的な返答に、新渡戸は一瞬言葉を失い、やがて感嘆の吐息を漏らした。 「恐れ入った。すでにそこまで見据えているとは。君が英語に親しんでいるのは、帝国にとって非常に心強いことだ」


 だが、僕は新渡戸先生、そして前を歩く後藤長官を見据えて、はっきりと首を振った。 「先生、長官。英語だけでは、足りないんです」


 二人の大人が、足を止めて僕を振り返る。 「足りない? どういうことだ、康政」  後藤が、口に咥えた葉巻を揺らしながら目を細めた。


「長官。僕に『ドイツ語』と『ロシア語』、そして大陸の言葉(官話)を学ぶ環境を与えてくれませんか」


 その言葉に、後藤の目つきが軍政家のそれへと鋭く変わった。 「ドイツ語は分かる。医学と軍事の最先端だ。お前が作ったペニシリンを昇華させるには不可欠だろう。だが、なぜ『ロシア語』と清国の言葉だ?」


「数年以内に、我々は満州で世界最大の陸軍と衝突するからです」  周囲の工場の喧騒にかき消されるほどの、静かで低い声。しかしその言葉は、二人の大人の鼓膜を刃のように叩いた。 「北の巨大な羆ひぐまの持つシベリア鉄道は、九千キロにも及ぶ世界最長の『血管』です。あの無尽蔵の補給網を、貧弱な帝国の兵站へいたんで迎え撃たねばならない。敵の軍の動き、物資の状況、彼らがどのような『理』で動いているのか。相手の符丁(言葉)を知らなければ、こちらの盤面を優位に進めることは不可能です。そして、戦場となる大陸の民を味方につけるための言葉も、同様に……」


 五歳の幼児の口から語られた、あまりにも冷徹な仮想敵の分析と、大陸進出までを見据えた兵站戦略。  後藤新平は、僕を射抜くような鋭い視線で見下ろした。もはやそこには、子供の才覚を面白がる余裕はない。目の前にいるのは、年齢という枠組みを完全に逸脱した、得体の知れない「軍師」だった。


「和也の倅。お前のその頭蓋骨の中には、一体どんな化け物が棲んでいる」  後藤の声が、低く唸った。


 僕は何も答えず、ただ真っ直ぐに後藤の目を見つめ返した。沈黙が、重く立ち込める。  やがて、後藤は口元の葉巻を外し、獰猛な肉食獣のようにニヤリと笑った。


「いいだろう。理由も種明かしも問わん。お前がこの帝国に勝利と『理』をもたらすと言うのなら、望む手札は全てくれてやる。英語は新渡戸の奥方にも協力を仰ごう。ドイツ語は総督府の軍医長に、ロシア語と大陸の言葉は、特務機関の優秀な通訳官を、お前専属の『家庭教師』として宛がってやる。たっぷりと知恵を絞り出してもらうぞ、軍師殿」


 こうして、僕の日常に「語学」という新たな実務の刃を研ぐ時間が加わった。  前世の知識(英語)をベースに、幼児の異常な吸収力を利用して、ドイツ語、ロシア語、そして官話の基礎を、論理と音の両面から脳に叩き込んでいく。それは数年後の破滅の足音に立ち向かうための、目に見えない強固な防壁作りだった。


 熱狂の冬が過ぎ、台湾に短い春が訪れようとしていた四月。


「康政、少し大きいけれど、よく似合っているわよ」  母さんが、僕の背中に真新しい革製の背嚢ランドセルを背負わせ、優しく微笑んだ。


「坊ちゃん、立派になられて……」  リンさんが、目元をハンカチで拭いながら僕の学生帽を整えてくれる。


 僕は六歳になった。  今日から僕は、総督府の役人や日本から渡ってきた有力者の子供たちが通う「台北尋常小学校」へと入学する。


「康政様。学校には、未来の帝国を背負うであろう家柄の子息が多数おります。くれぐれも、ご油断なきよう」  阿長が、僕の足元で静かに膝をつき、声を潜めた。


「分かってるよ、阿長さん。学校は、僕にとって『新しい工場』みたいなものだからね」  僕は背嚢の肩紐をギュッと握りしめた。


 教室に集まる同級生たちは、やがてこの国を動かす中枢の歯車となる存在だ。彼らが持つ血筋やコネクションは、日露戦争、そしてその先の未来を戦い抜くための、極めて重要な「部品」になる。  補給網という血流を作り始めた今、次は、それを動かす頭脳たちを、子供のうちに僕の『盤面』へと引き込んでいく番だ。


「行ってきます、父さん、母さん」


 僕は子供らしい元気な声で玄関を飛び出した。  僕の「お節介」は、いよいよ同世代の掌握という、新たな戦いへと足を踏み入れたのだった。

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