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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第1章:台北の産声と、静かなる覚醒

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第15話:海神の来訪、二つの海を統べる算盤

 明治三十四年、秋深まる帝都・東京。  台湾への帰還を翌日に控えた築地精養軒の一室には、巨大な嵐が過ぎ去った後のような、静かで重い疲労感が漂っていた。


 窓の外には、ガス灯に照らされた居留地の洋館が並び、遠く東京湾の潮の香りが微かに鼻を掠める。  豪奢な絨毯の上に置かれた革トランクに、父と瑞月ミズキ姉さんは無言で書類の束を詰め込んでいた。児玉源太郎の裏書、軍医部からの臨床報告書、兵站監部の実証データ、そして日本資本主義の父・渋沢栄一と交わした提携の覚書。  わずか数週間の間に、この小さなトランクに詰め込まれた紙切れの重さは、大日本帝国という国家の「血流」の方向を物理的にねじ曲げるほどの質量を持っていた。


「信じられんな」  父がトランクの留め金を掛けながら、低く掠れた声で呟いた。 「台湾を出た時は、児玉閣下に一矢報いることができれば御の字だと思っていた。それが、近衛師団を動かし、渋沢翁の金庫を開けさせた。たった数週間で、我々は帝都の奥の院まで踏み込んでしまった」


「私たちの算盤が、国家の求める数字と完全に一致したからですわ、和也さん」  瑞月姉さんが、手元のSSコンテナの縮小模型を丁寧に布で包みながら応じる。その横顔には、一介の貿易商から「国家インフラの設計者」へと這い上がった、冷徹な商人としての凄みが張り付いていた。


 大人たちが歴史の歯車を回した余韻に浸る中、僕は部屋の隅の長椅子に座り、荷造り用の小さな木箱を一つ、また一つと積み上げては崩す遊びを繰り返していた。  父の視線が、ふと僕に向けられる。その目には、愛情と同量の「底知れぬ畏怖」が混じっていた。


「康政。お前がいなければ、あの頑固な軍医どもも、渋沢翁も、土壇場で首を縦には振らなかっただろう。お前は一体、どこまで先の景色を見ているんだ」


「僕は何もしてないよ、父さん。ただ、本当のことを言っただけだもん」  僕は無邪気な子供の顔を作って笑った。  僕が恐れているのは、数十年後にこの国を焼き尽くす炎だ。だが、それを今語るわけにはいかない。今はただ、この大日本帝国という危うい巨人が、外の岩にぶつかっても砕けないように、内側の骨組み(ロジスティクス)を鋼鉄に鍛え上げるだけだ。陸軍と財界は手に入れた。あとは、台湾へ帰る船に乗るだけだ。


 そう思っていた矢先だった。  コン、コン。  客室の重厚なマホガニーの扉が、控えめに、しかし奇妙な圧迫感を持って叩かれた。


 阿長アチョが警戒しながら扉を開ける。  そこに立っていたのは、顔面を蒼白に引き攣らせた精養軒の支配人だった。彼は小刻みに震えながら、後ろに立つ「人物」を案内してきたのだ。


「夜分遅くに申し訳ございません、新城様。こちらの御仁が、どうしても直接お会いしたいと」


 支配人の背後から姿を現したのは、軍服ではなく、仕立ての良い漆黒の外套トンビ・コートを羽織った大柄な男だった。  筋骨隆々たる体躯。短く刈り込んだ頭髪。そして何より、部屋の空気を一瞬で凍らせるような、猛禽類のごとき鋭い眼光。男が部屋に一歩踏み込んだ瞬間、重厚な葉巻の香りと、血生臭い「潮の匂い」が室内に充満した。


 父は、反射的に立ち上がった。  台湾総督府の高級文官として、中央省庁の頂点に立つ男たちの顔と経歴は、名鑑の記述と共に脳髄に焼き付いている。薩摩の出身にして、事実上、大日本帝国海軍の近代化を一身に背負う最強の官僚。


「夜分にご足労いただき恐縮です、山本大臣」


 父が深く頭を下げる。海軍大臣、山本権兵衛。  こちらの素早い対応と、名乗る前に正体を見破った手際に、山本はわずかに太い眉を動かした。田舎の役人と高を括っていたが、目の前の男が並の文官ではないと直感したのだ。


「陸軍の石頭どもと、あの渋沢栄一を出し抜いた男の顔が見たくてな。邪魔をするぞ」


 山本は勧められた革張りの椅子にどっかりと腰を下ろすと、外套も脱がずに単刀直入に切り出した。その声は低く、腹の底に響くような威圧感があった。


「児玉の野郎が面白がっている規格化された箱、SSコンテナの話は聞いている。野原を走り回る陸軍には役立つかもしれん。渋沢の爺さんが飛びつくのも分かる。だがな、新城君」


 山本の眼光が、テーブルの上に置かれたコンテナの模型を射抜く。


「海軍は陸軍のように単純にはいかん。軍艦の船底は丸いのだ。そこに四角い箱を積めば、無駄なデッドスペースができるばかりか、重心が高くなり復原性が狂う。海を舐めるな。お前たちの作った算盤は、波打ち際で止まる代物だ。鉄道を海に繋ぐなど、机上の空論にすぎん」


 それは、海軍という巨大な組織を束ねるトップとしての、一切の妥協を許さない物理的・軍事的な拒絶だった。外洋の荒波と格闘する軍艦にとって、四角い箱など無用の長物であり、危険極まりない異物でしかない。


 圧倒的な論理と暴力の化身を前に、室内は水を打ったように静まり返った。  だが、父は決して視線を逸らさなかった。瑞月姉さんもまた、息を呑みながらも、手元の図面が入った鞄の留め金に静かに手をかけていた。


「大臣。ご懸念は尤もです。我々も、外洋の荒波の恐ろしさを知らぬ素人ではございません」


 父の静かで、しかし芯の通った声が、海軍大臣の威圧感を真っ向から受け止める。


「我々は、海軍の軍艦にこの四角い箱を積めとは、一言も申しておりません。我々は、『二つの海』を分けて考えております」


 父がテーブルの上に広げたのは、台湾を出発する前に台湾総督府鉄道部の長谷川謹介部長と交わした、極秘の設計図だった。青焼きの図面には、総督府鉄道部の正式な認可印が押されている。


「津軽海峡、下関海峡、そして将来を見据えた対馬海峡。波の穏やかなこれらの『内海・要衝』には、この箱を載せた貨車ごと甲板の軌道に固定する『鉄道連絡船』を就役させます。これにより、有事における国内および半島への兵員・物資の展開速度は劇的に跳ね上がります。水際での積み替え作業そのものを消滅させるのです」


 山本権兵衛の太い指が、図面上の連絡船の構造をなぞる。陸軍の兵站線を海で分断させないための、強引だが極めて有効な軍事インフラ。その価値を、海軍のトップが理解できないはずがない。


「貨車ごと船に載せるか。確かに、内海であれば波浪の危険は少ない。兵站の速度は跳ね上がるだろう。だが、外洋は違うぞ」  山本の眼光が再び鋭さを増す。 「台湾への航路、あるいは大陸の奥深くへ続く外洋航路で、そんな頭でっかちな船を走らせれば、横波に飲まれてたちまち転覆する。海は陸の延長ではないのだ」


 その鋭い指摘を待っていたかのように、瑞月姉さんが淀みなく説明を引き継いだ。


「仰る通りです。ゆえに、外洋の荒波を越える航路には、危険な車両の乗り入れは一切行いません。外洋に出るのは、貨車から下ろされたこの『SSコンテナ』の箱のみです」


 瑞月は別の図面を山本の前に滑らせた。それは、既存の貨物船の船倉の断面図だった。 「特設給糧船や民間貨物船の船倉に、この四角い箱だけを隙間なくブロック状に積み込みます。重量物を船底に密着させることで重心は極めて低く安定し、外洋の荒波にも十分に耐えられます」


「積み込むだと? 何千個もの巨大な箱を、どうやっていち早く船底へ降ろすというのだ。人力のデリックでは日が暮れるぞ」


「陸の力を借ります」  瑞月はさらに別の中長期計画の図面を広げた。そこには、巨大な鋼鉄の櫓が描かれていた。


「これを実現するため、主要な港の岸壁に、箱を直接吊り上げる『門型の巨大起重機』を建設する中長期計画を推進しております。強力な蒸気動力で箱を掴み、そのまま船倉へ垂直に降ろす。これにより、港での荷役時間は数日から数時間へと激減します」


 瑞月は商人としての冷徹な笑みを浮かべ、海軍大臣の目を見据えた。 「特設給糧船が港での荷役に縛られる時間が減れば、それは海軍の補給艦隊が実質二倍に増えることと同義です。兵站の滞りが海軍の作戦行動を制限する時代は、この起重機と箱によって終わります」


 内海には貨車ごと載せる連絡船。外洋には巨大起重機で箱だけを積むコンテナ輸送。  波の高さと海域の性質によってロジスティクスを完全に分担し、その両方を「同じ規格の箱」で繋ぐ。  二段構えの完璧な国家兵站網を突きつけられ、山本は完全に押し黙った。これは単なる軍需品の売り込みではない。数年後の日本の港湾インフラを根底から書き換える、恐るべき設計図だ。


 大人たちの静かで熱を帯びた交渉の傍らで、僕は長椅子の上で、荷造り用の小さな木箱を、木彫りの船の模型に素早く出し入れして遊んでいた。  カタ、カタと鳴る乾いた木音が、静まり返った精養軒の室内に響く。山本が不意に僕へ目を留めた。


「坊主。船に箱を積むのが、そんなに面白いか」


 僕は手を止め、無邪気な子供の顔を作って答えた。


「うん。でもね、大きな機械を作ったり、箱がぴったり入る船を造るのには、何年もかかるってお父さんが言ってたよ。だから、今のうちから海軍の船の『お部屋の広さ』だけは、この箱の大きさに合わせて設計しておいてくれないと、戦争に間に合わないんだって」


 山本の動きが、氷を打たれたようにピタリと止まった。  港湾設備の建設と、軍艦・輸送船の造船にかかる膨大な時間。それを見越し、今この瞬間から海軍の造船規格に縛りをかけようとする、底知れぬ時間感覚。  五歳の子供の無邪気な言葉を通して、山本権兵衛は目の前の親子が数年後に必ず起きる巨大な戦争を見据え、その総力戦に備えて国家の骨組みを改造しようとしている事実を悟ったのだ。


 海軍大臣は、しばらく図面と僕の顔を交互に見つめ、やがて深く、長く息を吐き出した。  彼は何も確約しなかった。ただ、己の脳髄に「数年後の総力戦」と「規格化された箱」という、深く鋭い楔を打ち込まれた事実だけを噛み締め、静かに立ち上がった。


「長谷川の奴め。台湾に、とんでもない劇薬を飼っているな」


 誰に言うともなく低く呟き、山本は漆黒の外套を翻した。 「横須賀の工廠に、図面の写しを送っておけ。造船の規格に一枚噛ませる。波打ち際で止まる算盤ではなかったようだな」


 それだけを言い残し、海軍大臣は夜の闇の中へ消えていった。  扉が閉まり、足音が完全に遠ざかった後、父と瑞月姉さんは深く息をつき、無言のまま視線を交わして静かに頷き合った。海軍からの本格的な接触は、歴史が動く頃に必ず向こうからやって来る。その種は、最も確実な土壌に蒔かれた。


 翌朝。僕たちを乗せた大型客船は、秋晴れの横浜港から長声一発の汽笛を鳴らし、出航した。  潮風を浴びながら甲板に立つ僕の目に、遠ざかる帝都の近代的な街並みが映る。陸軍の野戦兵站、財界のインフラ投資、そして海軍の造船規格。大日本帝国の国力を支える巨大な柱に、物流という実務の楔を打ち込むことができた。


 父の背中越しに見る水平線は、どこまでも青く、静かだった。

第1章完になります。 初めての投稿で不慣れな点があったり、個人的な諸事情により不規則ですが投稿続けていく予定です。温かい目で見ていただければ幸いです。

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