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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第1章:台北の産声と、静かなる覚醒

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第14話:論語と算盤の巨人、大人の実務と子供の積み木

 習志野の演習場から帝都へと帰還した僕たちを待っていたのは、近衛師団長から陸軍省へ提出された「絶賛の簡易報告書」だった。

 三千人の兵站を滞りなく回し、野営中の感染症による離脱者をゼロに抑え込んだという「完璧な数字」。それは、軍医部と兵站部という二つの巨大な壁を完全に沈黙させ、後藤新平長官の紹介状の価値を確固たるものにした。


 だが、父と瑞月ミズキ姉さんの足は止まらない。

 軍という国家の「暴力装置」を動かした今、次に向かうべきは、この国の「血液」そのものを生み出す心臓部だった。


 秋晴れの空の下、僕たちを乗せた馬車は日本橋を渡った。

 銀座の煉瓦街とは違う、重厚な経済の熱気が渦巻く街。その中心にそびえ立つ擬洋風建築、第一国立銀行の頭取室に、その「巨人」は座っていた。


「児玉君から電信があったよ。台湾から来た文官が、頭の固い近衛の連中を振り回して大立ち回りを演じたそうじゃないか」


 日本資本主義の父、渋沢栄一。

 六十代を迎えたその双眸は、好々爺の穏やかさと、一切の誤魔化しを許さない冷徹な大商人の光を併せ持っていた。彼の机の上には、すでに僕たちが習志野で叩き出した「荷役時間と兵員損耗率のデータ」の写しが置かれていた。財界の巨頭は、軍部の動きなどとうに把握しているのだ。


「お初にお目に掛かります、渋沢先生。台湾総督府文官、新城和也にございます。本日は、帝国の物流を根底から変える『算盤そろばん』をお持ちしました」

「瑞長商会代表、陳瑞月と申します」


 父と瑞月姉さんが深く頭を下げる。

 この場において、五歳の僕はあくまで「大人の事情で連れ歩かれている子供」にすぎない。僕は革張りの大きな長椅子ソファの端にちょこんと座り、持参した同じ形の木製の「積み木」をテーブルに並べて遊び始めた。


 交渉の火蓋を切ったのは、父だった。

「先生もご存知の通り、軍は『SSコンテナ』の有用性を認めました。ですが、軍内部だけの規格では意味がありません。これを全国の港湾、そして鉄道網に接続しなければ、真の物流革命とは呼べない。我々は、先生のお力をお借りしたいのです」


「なるほど。荷役の時間を四分の一にし、荷傷みをゼロにする『規格化された箱』か。陸軍が飛びつくわけだ」

 渋沢翁は図面から顔を上げ、今度は瑞月を真っ直ぐに射抜いた。

「だが、軍の兵站と民間の商いは違う。君たちはこの箱を日本の標準規格にし、全国の鉄道や海運に網を張ろうとしている。……それは特定の商会による『独占』ではないのか? 私は、私利私欲のためだけに富を独占する者を好まん。そこに『公益』……すなわち『義』はあるのかね」


 渋沢栄一が重んじる「義利合一(論語と算盤)」。

 この最も厳しい問いに対し、瑞月姉さんは商人として、一歩も引かずに微笑んだ。


「先生。我々は『箱の専売』で暴利を貪るつもりは毛頭ございません。むしろ、このコンテナの『規格と図面』は、先生の息がかかった鉄道会社や海運会社に、無償で公開いたします」


「無償で公開だと?」

 渋沢翁の眉がピクリと動いた。


「はい。規格が統一され、荷役の回転率が上がれば、日本全体の物流の『総量』が爆発的に増えます。我々瑞長商会は、その増え続ける物流の拠点ハブの管理と、一部の許認可製造(ライセンス製造)だけで十分に潤う算段です。市場そのものを巨大化させ、皆で分かち合う。これこそが、先生の掲げる『合本がっぽん主義』に適う公益の姿かと存じますが」


 沈黙が落ちた。

 特定の利権を囲い込むのではなく、インフラそのものを効率化し、国全体の富を底上げする。後藤新平の推薦、児玉源太郎の裏書き、そしてこのスケールの大きなビジネスモデル。


「見事な算盤だ」

 渋沢翁は、深く息を吐き出して頷いた。大人たちの用意した盤面は、完璧だった。

 しかし、翁の鋭い眼光は再び父・和也へと向けられた。


「だが新城君、一つだけ腑に落ちん。君はなぜ、そこまでして『日本の物流を急いで繋ぐ』ことに執念を燃やすのだ? その算盤の奥にある、君自身の『論語』を聞かせてはくれまいか」


 父が言葉を探そうとした、まさにその時だった。

 カチャ、カチャ。

 長椅子のテーブルで、僕が遊んでいた積み木の音が、静まり返った頭取室に響いた。


「坊主、何を作っているんだね?」

 渋沢翁が、ふと険しい表情を緩め、五歳の僕に声をかけた。


 僕は、同じ形に切り揃えられた無数の木片を、隙間なくブロック状に組み上げたものを見せ、無邪気な笑顔で答えた。


「壁だよ。……バラバラの小さな石は、大きな岩にぶつかるとすぐに砕けちゃう。でも、同じ形に削って隙間なく積めば、大きなお城の壁になって、外の国からみんなを守れるって、お父さんが言ってたの」


 ピタリと、渋沢翁の動きが止まった。

 子供の無邪気な例え話。しかし、日本経済の頂点に立つ男の脳髄に、その言葉は冷たい稲妻のように突き刺さった。


(……バラバラの小さな石は、大きな岩にぶつかると砕ける……外の国から守る壁!)

 渋沢翁の目が、驚愕に見開かれた。


 彼が直感したのは、遠い未来に必ず訪れるであろう「国家総力戦」の気配。そして、列強という巨大な岩がぶつかり合うブロック経済の時代において、日本の内なる力を規格化し、一つの強固な「城壁」として統合しなければ、この小さな島国はあっけなく粉砕されるという残酷な地政学の真理だった。


 渋沢翁は、信じられないものを見るような目で、父を見つめた。

「和也君……。君は、この国にどれほど恐ろしい景色を見せようとしているのだ……」


 父は何も答えず、ただ静かに、覚悟を決めたような視線を返し、深く頭を下げた。

 すべては「父の深遠な思想」として、渋沢翁の中で完璧に結実した。背後で積み木をいじりながら、僕は心の中で小さくガッツポーズをした。大成功だ。


「……はっ、ははははっ!」

 やがて、頭取室に渋沢翁の豪快な笑い声が響き渡った。

「よかろう! その狂気じみたまでの国への憂い、私が買おうではないか! 瑞長商会と言ったな。私の名を自由に使え。日本郵船、そして各鉄道会社に、私から直接話を通す。帝国の物流を、君たちのその『同じ形の箱』で統一してみせろ!」


 第一国立銀行を出た時、日本橋の空は美しい茜色に染まっていた。

 陸軍、そして財界。この国の両輪を、僕たちはついに手に入れた。


「康政。お前、またとんでもない合いの手を入れたな。寿命が縮むかと思ったぞ」

 馬車の中で、父が呆れたように、しかし誇らしげに僕の頭を撫でた。


「えへへ。でも、父さんと瑞月姉さんの『数字』が完璧だったからだよ。僕はただ、おじいさんの背中をちょっとだけ押しただけ」


「その『ちょっと』が、一番恐ろしいのよ、康政は」

 瑞月姉さんが、クスクスと笑いながら僕の頬をつついた。


 これで、帝都での大仕事は終わった。あとは台湾へ帰るだけだ。

 だが、僕たちの泊まる築地精養軒の部屋には、もう一人の「怪物」が、噂を聞きつけてお忍びでやって来ようとしていた。

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