第12話:権威の城塞と利権の迷宮
翌朝、目を覚ました僕を待っていたのは、築地精養軒の窓から差し込む眩しい朝日だった。
昨夜、児玉閣下との会見を終えた馬車の中で、僕は泥のように眠ってしまったらしい。瑞月姉さんの温かい香りと、揺れの中で聞いた父の安堵の声が、夢の境界線で微かに残っていた。
だが、安らぎの時間は一瞬で終わる。
父はすでに官服に袖を通し、鏡の前で襟を正していた。その背中は、昨日の「個」との戦いを経て、さらに鋭く研ぎ澄まされている。今日から始まるのは、帝国陸軍という巨大な組織機構、その深淵との戦いだ。
「康政、起きたか。今日は昨日よりも泥臭い戦いになるぞ。児玉閣下の名代として、まずは軍医部、そして兵站監部を回る。準備はいいか」
「うん、父さん。いつでもいけるよ」
僕は寝ぼけ眼をこすりながら、阿長が磨き上げてくれた顕微鏡のレンズを確認した。
再び訪れた陸軍省本庁舎。
児玉閣下の副官が先導する僕たちを迎えたのは、冷徹なまでの官僚主義だった。
最初に訪れた軍医部の会議室。そこは、高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き抜かれた机を白々と照らす「学閥の城塞」だった。白衣を纏った男たちは、僕たちが持ち込んだ顕微鏡や抽出液を一瞥し、鼻で笑った。
「新城君。君は行政官として有能なのだろうが、医学をいささか軽んじてはいないか」
中心に座る軍医総監が、傲慢な響きを含んだ声で切り出した。
「我々がドイツで学び、心血を注いで築き上げた帝国陸軍の衛生学を、台湾の現場から生まれた『カビの薬』ごときで汚されては困るのだよ。医学とは、権威ある研究と統計に基づくものであり、素人の思いつきを試す場ではない」
父が静かに、しかし断固とした口調で応じる。
「総監。私は学問の正しさを競いに来たのではありません。今この瞬間も、演習地や過酷な任地で、小さな傷の化膿から貴重な兵員が失われている。その損失を埋めるための実務を提案しに来たのです」
「実績も根拠もない薬など、言語道断だ。万が一、兵に副作用でもあれば誰が責任を取るのだ?」
権威という盾、そして保身という名の防壁。彼らは「科学的根拠」という言葉を、現状を変えないための言い訳に使っていた。僕は、顕微鏡から顔を上げ、あえて首を傾げて問いかけた。
「先生。この顕微鏡の中で細菌が溶けていくのは、医学ではなく『魔法』なのですか?」
部屋が静まり返った。
「父が言っていました。児玉閣下は、難しい言葉よりも『何人の兵隊さんが助かるか』という結果が知りたいのだと。もし、先生たちがこのお薬を試すのを止めて、その間に兵隊さんがたくさん亡くなってしまったら……児玉閣下は、先生たちの『権威』を褒めてくださるのでしょうか?」
総監の顔が、怒りと戸惑いで赤黒く染まった。児玉閣下の不興。それこそが、権威にしがみつく彼らが最も恐れる毒薬だ。父が、僕を嗜めるふりをして最後の一撃を加えた。
「児玉閣下より『試製』を命じられた以上、その不実施の理由を報告なさるのは軍医部の皆様になります。……よろしいですね?」
沈黙の後、総監は苦虫を噛み潰したような顔で、近衛師団の隔離病棟での限定的な試用を許可した。学閥の城塞に、最初の亀裂を入れた瞬間だった。
だが、息を吐く間もなく訪れた次なる扉、兵站監部はさらに厄介だった。
そこは「知」のプライドではなく、予算、利権、そして既存の仕組みという「筋肉」の固執が支配する場所だった。
「物流を規格化すれば便利だというのは分かる。だが、現場にはすでに契約している運送業者や荷役人足とのしがらみがある。SSコンテナだか何だか知らんが、そんなものを導入して現場が混乱すれば、責任を取るのは我々だ」
将校たちの言い分は、より現実的で、より狡猾だった。既存の業者との癒着や中抜き。それを壊すことへの恐怖。ここで瑞月姉さんが、商人としての真価を見せた。彼女は傍らの阿長から受け取った分厚い試算表を、卓上に叩きつけるように置いた。
「瑞長商会代表、陳瑞月にございます。将校の皆様。私がここへお持ちしたのは、商売の提案ではなく『投資』の話です」
瑞月の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭くなる。
「今回の試験導入にかかる費用――コンテナの製造費から、現場への技術指導、人員の派遣に至るまで――すべて私の商会で負担いたします。帝国陸軍の予算は一銭も使いません」
「何だと? 損をしてまで軍に尽くすのか。怪しい宗教か何かか」
「とんでもございません。私は商人です」
瑞月は不敵に笑った。
「この試験で有用性が証明された暁には、全軍への導入、ならびに我々を唯一の指定製造業者として認めていただく。そのための『独占権』を得るための先行投資です。加えて、もう一つ。このコンテナには、輸送途中の略奪や汚損を防ぐための『封印』機能を持たせてあります」
瑞月が図面を指し示す。
「これが導入されれば、下端での不明瞭な紛失……いわゆる『中抜き』が物理的に不可能になります。それは、管理責任を負う将校の皆様にとって、余計な疑いをかけられずに済むという最大の利益になるはずです」
将校たちが、互いに視線を交わした。予算を使わずに実績が作れ、かつ部下や業者の不始末による責任問題を回避できる。瑞月の提案は、彼らの「私利」を正確に射抜いていた。
「瑞月姉さん、お見事です」
僕は心の中で呟いた。父の実務的な正論と、瑞月の商人としての冷徹な取引。これが、巨大な組織を動かす「両輪」なのだ。
沈黙を破り、最も位の高い将校が鼻を鳴らした。
「よかろう。自分たちの腹を痛めてまで大口を叩くというなら、その『算盤』、拝見しよう。ただし、場所はこちらで指定する。近衛師団の秋季演習だ。帝都を守る精鋭、その最も規律に厳しい連中を納得させてみせろ。あそこの兵士や下士官は、民間の知恵など最も嫌うぞ」
「望むところにございます」
父の返答は、短く、しかし鋭かった。
それは「門前払い」に近い挑戦状だったが、僕たちはついに実地への切符を手に入れたのだ。
陸軍省を出て、馬車に乗り込んだ瞬間。
「……っ、ふぅ……」
父が、座席に深く体を沈め、大きく息を吐き出した。児玉閣下の時とは違う、ドロドロとした組織の摩擦に、父も疲弊していた。
「康政、瑞月。よくやってくれた。あいつらの顔……傑作だったな」
父の震える手は、僕の小さな手を力強く握り返した。
「扉は開いた。だが、本当の戦いはこれからだ。近衛師団という現場で結果を出さなければ、あの古狸どもに格好の餌食にされる」
「うん、父さん。次は、現場の常識を壊しにいこう」
五歳の軍師を乗せた馬車は、夕暮れの帝都を、静かに、しかし力強く進んでいった。




