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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第30話:南国の庇護者

 大正七(一九一八)年、五月。

 

 夜明けの(もや)が白く立ち込める台湾・基隆港。

 

 人目を避けるように停泊した客船から降ろされた舷梯(げんてい)を、数名の男女が音もなく降りてくる。

 

 南国特有の湿気を帯びた潮風が、彼らの簡素な衣服を揺らした。目立たない灰色や茶色の服で異国の港町に溶け込もうとしているが、その洗練された足運びには隠しきれない気品が漂っている。

 

 木の埠頭(ふとう)に降り立った元ロシア皇帝ニコライ二世は、出迎えた二つの影を見て、その足をぴたりと止めた。

 

 深い青色の着物をさらりと着こなした若き実務家(じつむか)と、漆黒(しっくろ)の和服を纏う絶世の淑女。

 

 康政が一歩前に進み出ると、流麗なロシア語が朝の空気に静かに響いた。

 

「よくぞ、ご無事で。極東の島へようこそ」

 

 

 その響きと青年の(たたず)まいに、ニコライの脳裏へ、吹雪くロシアの記憶が鮮明に(よみがえ)る。二年前。アレクサンドル宮殿の冷たい廊下。医療支援という名目で、遠い北の大地へ救いの手を差し伸べてくれた東洋の客人。あの日の静かな約束だけが、凍てつく大陸を横断して彼らの命を繋いだのだ。

 

 

「……君たちは」

 

 

 ニコライの唇が微かに震える。

 

「あの氷の地獄へ、我々を救うためだけに、手を伸ばしてくれたというのか」

 

「我々は商人です。約束を反故(ほご)にするようでは、商売になりません」

 

 康政の落ち着いた返答に、ニコライは深く息を吐き、震える右手でゆっくりと胸の前に十字を切った。

 

 一行を乗せた特別仕立ての汽車が、柔らかな日差しの中を台北へと走る。

 

 車窓を流れる瑞々しい緑と、陽光を反射する水田。ニコライも、妻のアレクサンドラも、四人の娘たちも、誰一人言葉を発することなく、絵画のような平和な景色をただ静かに見つめていた。

 

 

 同じ頃、帝都・東京。

 

 新緑の香る永田町の料亭では、煙草の煙と重苦しい沈黙が部屋に立ち込めていた。

 

 上座(かみざ)に陣取る山県閥の重鎮(じゅうちん)たちの前に、一枚の『極秘』の朱印(しゅいん)が押された報告書が投げ出されている。

 

「馬鹿な。イギリスの軍艦すら手を出せなかったのだぞ。それを、一介の商会がどうやって」

 

 白髪の老議員が、声を震わせて(すご)んだ。手にした青磁(せいじ)湯呑(ゆの)みが、かちかちと微かな音を立てている。

 

「事実です。彼らは現地の監視の目を欺き、皇帝一家を極東へ連れ出しました。現在、台湾の某所に匿われているとのこと」

 

「表沙汰にはできんぞ、こんな代物……列強(れっきょう)諸国に知れれば、我が国の外交は根底からひっくり返る」

 

 重鎮たちは、額に滲む冷や汗を拭おうともしなかった。武力による威圧しか知らぬ古き軍閥たちの喉元に、見えない刃が突きつけられている。

 

「新城和也……恐ろしい男だ。あ奴の張り巡らせた金と物流の網の目は、もはや我々の手の届かぬ深さまでこの国を侵食(しんしょく)しておる」

 

 障子越しに聞こえる三味線の音が、権力者たちの動揺をあざ笑うかのように、ひときわ甲高く響いた。

 

 

 台北の新城邸(しんじょうてい)

 

 阿長が落ち着いた足取りで康政の元へ歩み寄り、短く頭を下げた。

 

「康政様。周囲の警備体制、および各所への人員配置は完了しております。特段の異常はございません。どうぞ、皆様でごゆっくりお食事を」

 

 有能な大幹部からの引き締まった報告を受け、康政は小さく頷いた。

 

 食堂の長大な紫檀(したん)の卓には、繊細な出汁の香る椀物(わんもの)、香辛料が食欲をそそる鮮やかな台湾の海鮮、そして琥珀色(こはくいろ)に澄んだ上質な日本酒が並べられていた。

 

 ニコライは手元の切子杯(きりこはい)を傾け、小さく息を吐く。

 

「……こんなに温かく、体に染み渡る酒があるとは」

 

 向かいの席に座る皇太子アレクセイが、少しだけ赤みの差した頬を(ほころ)ばせた。

 

「お父様、少し酔っていませんか」

 

「ああ。生きている実感が、ここにあるからな」

 

 ニコライは微笑み返した。財団の医療班による迅速な治療と、豊かな食事が、少年の命を確かに強くしている。

 

「サクサクしておいしい!」

 

 卓の端から、弾むような声が上がった。未知の料理に目を白黒させている年長の皇女たちに対し、和子が優しく微笑みかける。

 

「これは康政が考案した『カレー』というもので、子供たちには大人気なのですよ」

 

 アナスタシアと沙絵子の前には、香ばしく揚げた豚肉を乗せたカツカレーが湯気を立てている。二人の少女は(さじ)を握りしめ、言葉の壁などないかのように、満面の笑みで顔を見合わせていた。

 

 その和やかな空気の中、瑞月が年長の皇女たち、オリガ、タチアナ、マリアに穏やかに語りかけた。

 

「もし貴女たちが学びを続けたいと望むなら、この街には『台北帝国大学』という立派な学び舎があります。もちろん、今はただ、何も考えずにゆっくりと休んでいただいても構いません。貴女たちの未来は、これからいくらでも選べるのですから」

 

 自分たちの人生が凍てつく大地で終わるのではなく、選べる未来がまだ続いている。その事実を知った皇女たちは、瞳に涙を浮かべながら、何度もうなずき感謝の言葉を返した。

 

 食後の静かな廊下。

 

 夜風の吹き込む柱の影で、康政は歩みを止め、背後を無音で付き従っていた燕に向き直った。

 

「過酷な役目を強いた。君の働きがなければ、あの家族の命はなかった」

 

 康政はただ一人の青年として深く頭を下げた。

 

「心から感謝する。よく、生きて戻ってきてくれた」

 

「……勿体(もったい)なき、お言葉です」

 

 燕はいつものように淡々と返そうとしたが、声がかすれ、微かに震えていた。康政の瞳を正面から受け止めることができず、視線を古びた床の板目へと逃がす。張り詰めていた緊張が、南国の風に触れてゆっくりと解けようとしていた。

 

 数歩離れた場所。瑞月は白檀(びゃくだん)の扇子でそっと口元を隠し、水を差すような真似はせず、大人の女性としての穏やかな眼差しを二人に送っている。

 

 

 数日後。

 

 客室を訪れた康政は、ニコライの前に座し、おもむろに切り出した。

 

「陛下。この島で安全を確保し続けるためには、台湾の最高権力者に一度、筋を通しておく必要があります」

 

「分かった。君の判断を信じよう」

 

 総督府へと向かう馬車の車内。

 

 滑らかな車輪の音だけが響く中、康政は現在の台湾総督の名をロシア語で告げた。

 

「ノギ・マレスケ、という将軍です」

 

 その響きを耳にした瞬間、ニコライは息を呑み、自身の膝を強く握りしめた。

 

 旅順。二〇三高地。かつて自国の要塞を陥落させ、帝国を敗北へと導いた敵将の名。車内の空気が急速に凍りつくが、康政は何も弁解せず、ただ黙って前を見据えている。

 

 重厚な真鍮(しんちゅう)の取っ手が回り、総督府の執務室の扉が開かれる。

 

 広い部屋の中央で、軍服に身を包んだ白髭の老将が立っていた。

 

 かつて数多の命を奪い合った、ロシア軍の「最高指導者」と日本の「第三軍司令官」。

 

 互いの視線が空中で交錯する。刻まれた深い(しわ)、無数の死を見届けてきた重い両眼。部屋の空気は張り詰め、呼吸の音すら不敬に思えるほどの沈黙が落ちた。

 

 やがて、乃木希典が、動いた。

 

 彼は両足を揃え、深々と頭を垂れた。

 

 ニコライの目が驚愕(きょうがく)に見開かれる。

 

「……かつての激戦の地で、私の愚息(むすこ)は死の淵を彷徨(さまよ)いました」

 

 通訳の声を介し、乃木の落ち着いた、しかし熱を帯びた声が響く。

 

「その命を救い、今も欧州の空で人命を救う翼を与えてくれたのは、康政殿です。命を繋ぐという恩義(おんぎ)の前に、かつての勝敗など……(かえり)みるに(あた)いません」

 

 乃木は顔を上げ、ニコライを真っ直ぐに見つめた。

 

 

「命の恩人が繋いだ(えにし)。この島において、貴方方は、この乃木が生涯(しょうがい)()してお守りする賓客(ひんかく)にございます」

 

 

 かつての戦場で息子を失うはずだった父親の、魂を絞り出すような感謝の念。

 

 その熱が、二人の老将の間にあった見えない壁を、音もなく溶かしていく。

 

 

「……素晴らしい息子の命が繋がれたこと、私も嬉しく思う」

 

 

 ニコライは小さく息を吐き、自らもまた、深く首を垂れた。

 

 窓の外では、南国の太陽が、過去の悲劇を洗い流すかのように二人を暖かく照らし出していた。

読んで頂きありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
 皇帝一家救出はまだ公表しないのか。普通に考えれば、ロシア帝国は滅んでないというメッセージになるのだが。
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