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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第27話:泥濘のトボリスクと、春を告げる燕

 四月中旬。西シベリアの大地を、分厚い氷の割れる轟音(ごうおん)が揺るがし続けていた。


 一冬の眠りを終えたトゥラ川は、膨大な雪解け水と鋭い流氷を飲み込み、猛烈な勢いで渦を巻く濁流(だくりゅう)へと姿を変えている。

 その荒れ狂う水面を、一隻の薄汚れた蒸気船が、黒い(すす)を吐き出しながら強引に突き進んでいた。


 甲板には、粗末な外套を羽織り、顔に油汚れをなすりつけた男たちが忙しなく動いている。運送組合(アルテリ)の川舟乗りに変装した、財団の特務班であった。

 船首に立つ燕は、容赦なく吹き付ける冷たい水飛沫を浴びながら、前方の両岸を睨み据えていた。


 陸地はもはや、道としての機能をすっかり失っている。

 シベリアの春がもたらす悪路(あくろ)、ラスプーチツァ。見渡す限りの大地が底なしの深みと化し、馬の脚は腹まで沈み、軍隊の車両は一歩も進むことができない。

 モスクワからの監視網すら物理的に届かない、一年にわずか数週間だけ現れる巨大な「陸の孤島(ことう)」。そこに、幽閉の地トボリスクがある。


 燕は双眼鏡を下ろし、懐に忍ばせた銀の髪飾りにそっと触れた。

「陸に人影はありません。動けるのは、この狂った河の上だけです」

 背後に立った高柳が、揺れる甲板に足を踏ん張りながら声をかけた。


 燕の視線の先、分厚い灰色の雲に覆われた空の下に、トボリスクの街の輪郭が(かす)かに浮かび上がり始めていた。


 トボリスク旧知事公舎。

 冷たい隙間風が吹き込む薄暗い部屋の中で、かつての全ロシアの専制君主(せんせいくんしゅ)ニコライ二世は、力なく椅子に腰掛けていた。


 悪路のせいで外への道が完全に絶たれてから、数週間。

 館を包むのは、静かで重い絶望であった。差し入れられるはずの食料は途絶(とだ)え、暖炉にくべる薪も底を突きかけている。


「……うぅ……痛い、お母様……」

 部屋の隅の寝台から、ひどく(かす)れた少年の(うめ)き声が漏れた。

 皇太子アレクセイの持病である血友病が、寒さと疲労から最悪の形で牙を剥いていた。鼠径部(そけいぶ)に生じた内出血はどす黒く腫れ上がり、わずかな身動きすら激痛を伴う。

 皇后アレクサンドラは蒼白(そうはく)な顔で息子の手を握りしめ、ただ神に祈り続けることしかできなかった。清潔な包帯すら残されていないのだ。


 部屋の窓際では、四女のアナスタシアが膝を抱えてうずくまっていた。

 彼女の冷え切った両手の中には、銀色に光る(ツバメ)の折り紙が握られている。


『どんなに長く寒い冬でも、ツバメは必ず春に帰ってくる』


 二年前の冬宮で、あの東洋の少女が残した言葉。

 同盟国からも親族からも見捨てられ、神すらも沈黙するこの暗闇の中で、十四歳の少女には、その美しく温かい記憶だけが唯一の救いであった。

(……どうか、春を連れてきて。お願い……)

 凍えた手の中に銀の折り紙を包み込み、彼女はただひたすらに祈り続けていた。


 不意に、乱暴な足音と共に扉が蹴り開けられた。

 汚れた軍服を着た革命軍の監視将校が、苛立ちを隠そうともせずに踏み込んでくる。

「荷物をまとめろ、元皇帝。明日、貴様らをエカテリンブルクへ移送する」

「……移送だと。」

 ニコライが重い頭を上げた。

「アレクセイの容態が見えないのか。こんな悪路の中を運べば、この子は死んでしまう」

「知ったことか! モスクワからの厳命だ!」

 将校は床に唾を吐き捨てた。

「俺達も、ろくな配給もねえままで限界なんだ。夜明けとともに出発だ。遅れれば、引きずってでも連れて行くぞ」


 扉が乱暴に閉められる。

 エカテリンブルク。それは、過激派が支配する、処刑のための街。そこへ連行される意味を、誰もが理解していた。


 ニコライは深く目を閉じ、アレクサンドラは声にならない悲鳴を上げた。アナスタシアの指先から、銀の燕が力なく滑り落ち、冷たい床板の上で乾いた音を立てた。深い絶望が、一家をすっかり呑み込んだ。


 その日の夜。

 トボリスクの足場の悪い船着き場に、一隻の川舟が接岸した。


「おい、何だあの船は!」

 監視の兵士たちが小銃を構えて集まってくる。

 船の渡し板が下り、顔見知りの地元運送組合の元締が、両手を高く上げながら上陸してきた。


「撃つな! 同志諸君、悪路で遅れていた冬営用の追加配給を持ってきたんだ!」


 積み上げられていくのは、乾燥した薪の束、大量のジャガイモ、そして脂の乗った肉。極めつけは、人夫たちが転がしてきた巨大な木樽であった。栓が抜かれると、氷点下の空気に、ウォッカの強烈な香りが漂い始める。


「ウォッカだ……!」

「肉もあるぞ!」


 数週間にわたり飢えと寒さに晒されていた兵士たちの目に、理性の光はなかった。

 小銃は無造作に土の上に放り出され、彼らは樽へ群がり、手づかみで肉を(むさぼ)り、ウォッカを喉に流し込んだ。

 兵士たちは酒と肉に群がった。

 もはや、見張りの役目を果たす者は一人としていなかった。


 酔いつぶれて歓声を上げる兵士たちの横を、顔に煤を塗った小柄な人夫が、薪の束を背負って黙々と通り抜けていく。燕は音もなく、旧知事公舎の勝手口へと滑り込んだ。


 二階の幽閉部屋。

 ロウソクの火さえ尽きかけた暗闇の中で、一家は互いの身を寄せ合い、ただ夜明けという名の死刑執行を待っていた。


 微かに、扉の鍵が外れる音がした。

 ニコライは弾かれたように顔を上げ、娘たちを背中に(かば)った。


 ひっそりと開いた扉の隙間から、顔を黒く汚した労働者が入ってきた。

 労働者は扉を閉めると、背負っていた薪をそっと床へ置き、顔の煤を粗末な布で素早く拭い去った。

 アナスタシアが、はっと息を呑む。

 ロウソクの微かな光が照らし出したのは、(りん)とした佇まいと、真っ直ぐで澄んだ瞳。


「……あ……」

 燕は床に落ちていた銀の折り紙を拾い上げ、少女の震える掌にそっと握らせた。


「お迎えに上がりました」


 落ち着いたロシア語が響く。

 アナスタシアの瞳から、涙が溢れ出した。

 彼女が絶望の中で握りしめていた祈りの通りに、本当に「ツバメが春を連れて現れた」のだ。


「……本当に、来てくれたのね」


 アナスタシアの声に、アレクサンドラは声にならない嗚咽(おえつ)を漏らし、ニコライはもはや言葉も出なかった。


「時間がありません。兵士たちが正気を失っている間に、荷箱に入っていただきます。陛下、殿下をお運びに」


 燕の指示に、躊躇(ちゅうちょ)する者は誰もいなかった。一家は財団が用意した巨大な荷箱の中へ身を潜め、特務班の男たちによって無言のまま運び出された。中庭では、狂ったような酒盛りが続いていた。酔い潰れた監視兵が木箱を担ぐ男たちに絡んだが、特務班は手慣れた笑みと追加の酒で、あっさりとその目を欺いた。


 川舟の甲板に運び込まれた一家は、船倉の奥深くへと導かれた。

 煤けた船倉の隠し扉が開いた瞬間、眩しい光と熱気が一家を包み込んだ。


「……これは……!」

 ニコライが息を呑む。

 外観からは想像もつかない、分厚い絨毯(じゅうたん)と上質な寝台。煌々と燃える石炭ストーブが、春の夜の冷気をすっかり遮断していた。


「殿下をこちらへ!」

 待機していた高柳少佐が、即座にアレクセイを寝台に横たえさせた。

 高柳は手際よく患部を冷水で冷やして腫れを引き締め、清潔な包帯で適切な圧迫を加えた。内出血の拡大を抑える、冷静な軍医としての処置であった。


「温かい紅茶を。皆様も、ストーブの側へ。もう大丈夫です」


 高柳の落ち着いた言葉に、アレクサンドラは何度も十字を切り、高柳の手にすがりついた。アレクセイの苦悶の表情は次第に和らぎ、安らかな寝息を立て始めていた。


 出航の直前、燕は船着き場に残る運送組合の元締へ歩み寄った。

 燕は彼の手の中に、ずしりと重い革袋と、一枚の封筒を押し付けた。

 中身を確認した元締が、息を呑んで目を剥く。


「金貨です。これまでの見事な差配に対する、我々からの報酬(ほうしゅう)です」

 それは、ただの紙幣とは違う、どこでも通用する黄金の輝きであった。

「夜明け前に、仲間を連れてトボリスクを離れてください。東へ、極東のウラジオストクを目指すのです。そこには我ら財団の支店があります」


 燕は元締の目を見つめ、落ち着いて告げた。

「その封筒を見せれば、支店があなた方の身分と、これからの生活を保証しましょう。我ら財団が忠誠(ちゅうせい)を尽くした者を、見捨てることはありません」


 元締は震える手で封筒を握りしめ、深く頭を下げた。彼らが朝を待たずに闇へ消えていくのを見届け、燕は船へ戻った。


 直後、船の底から重低音が響き始める。

 大量の無煙炭をくべられた機関が、力強い音を立てて外輪を回す。


 夜の闇の中、偽装川舟は猛烈な速度でトボリスクを離れた。

 荒れ狂うイルティシュ川の濁流を切り裂き、川舟は北へ向かう。

 目指すは、遥か二千キロの彼方。氷の海の下で息を潜めて口を開けて待つ、迎えの船の元へ。

読んで頂きありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
ぎりぎりだったか。あぶないあぶない。アレクセイは回復するのか。
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