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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第25話:暁の目録と防波堤の礎

 一九一七年、大晦日。

 波の荒い冬の地中海は、月明かりすら届かぬ漆黒(しっこく)に包まれていた。


 吹き荒れる寒風の中、巨大な鉄の塊が、荒波を力強くかき分けながら十五ノットの速力を保って進んでいる。瑞長財団の社旗を掲げた二万トン級の大型病院船、蓬莱丸(ほうらいまる)である。

 純白の船体に描かれた巨大な赤十字は、ドイツの無制限潜水艦作戦下においても堂々と掲げられ、暗闇の中で威容(いよう)を放っていた。彼らは戦闘には一切関与しないが、海中に潜む脅威を避けるため、決して船足を緩めることはない。ただひたすらに、艦隊並みの機動力で戦火の海を駆け抜けている。


 氷のように冷たい海風が吹き荒れる甲板とは対照的に、船内の隔離病棟は、機械式換気装置が立てる低い駆動音と、強い石炭酸(せきたんさん)の匂いに満たされていた。

 薄暗い寝台に横たわるのは、最前線から運び込まれたイギリスやフランスの将兵たちである。彼らは土と血に汚れた毛布にくるまり、苦しげな息を漏らしている。毒瓦斯(どくがす)や銃弾による負傷者だけではない。ここ数日、原因不明の高熱と異常な咳に苦しむ者の数が、急速に増え始めていた。


「本日未明に収容した兵士のうち、三割が発熱。咳の症状はこれまでの感冒(かんぼう)とは明らかに異なります。また、寄港地での燃料および小麦の取引価格は先月比でさらに二割上昇しました」


 船の一角に設けられた事務室。財団から派遣された実務官が、手元の書類に万年筆を走らせる。

 拾い上げられる命の数、未知の熱病の広がり、そして物資の枯渇(こかつ)具合。彼らはそれらすべての事象を冷徹な数字へと変換し、帳簿を埋めていく。


「記録をまとめろ。数字はいつものように財団の商用略号(りゃくごう)に変換して打電(だでん)しろ」

 実務官の落ち着いた指示により、燃料の価格や熱病の患者数といった記録は、淡々と意味を持たない英字の羅列へと書き換えられていく。

 それらの一見すれば無害な日々の業務報告は、蓬莱丸の無線室から中継港へと放たれ、列強(れっきょう)の国際電信網(でんしんもう)を通って、東洋へと送られていった。


 同じ頃、台湾は新しい年の夜明けを迎えようとしていた。

 大正七(一九一八)年、一月一日。

 台湾・台北の東にそびえる山々の輪郭が、暗闇からゆっくりと朝焼けに染まり始めている。


 瑞長財団本部、最上階の露台(バルコニー)

 身を切るような冷たい冬の空気に包まれながら、康政は東の海から顔を出し始めた黄金色の光を黙って見つめていた。その傍らには、豪奢(ごうしゃ)な毛皮の外套(がいとう)を羽織った瑞月と、仕立ての良い洋装に身を包んだ翠玲が(たたず)んでいる。


「康政様。お冷えになりますゆえ、こちらを」

 背後から音もなく歩み寄った阿長が、分厚い外套を康政の肩へそっと掛けた。その横では、燕が温かい台湾茶の入った茶器を手際よく盆に並べている。


「ありがとう、阿長。燕も、朝早くからご苦労様」

 康政が労うと、燕は茶器を差し出しながら、深く頭を下げた。

「滅相もございません。今年も康政様や瑞月様たちの傍で、この穏やかな日を迎えられたこと、喜ばしく存じます」

「はい。皆様が健やかでいらっしゃることが、私どもの何よりの誇りですから」

 阿長もまた、穏やかにそして控えめに微笑んだ。彼は今や財団の重鎮として、主の背中を守り抜いている。


 和やかな空気が流れる中、康政は再び東の空へと視線を戻した。

「……見事な御来光(ごらいこう)ですね。ですが、この光が地球の裏側へ届くまでには、まだ半日以上の時がかかります」


 康政の横顔に、実務家としての影が差す。

 その言葉を待っていたかのように、背後の扉が開き、夜通し通信室に詰めていた劉が姿を現した。その手には、数枚の紙片が握られている。


「康政様、瑞月様。地中海の蓬莱丸から定時の報告が届きました」

 翠玲が手袋を外した手でそれを受け取り、視線を落とす。太陽の光よりも早く、他国の電信網をすり抜けて届いた地球の裏側の情報。欧州は今、大晦日の深い真夜中にある。


「未明に収容した兵士たちの間に、未知の熱病が蔓延(まんえん)し始めているとのこと。さらに、各港湾での燃料の重油および石炭、小麦の取引価格は先月比で二割上昇。物資の枯渇は深刻ですわ」

 翠玲が淡々と読み上げる欧州の窮状を、康政は朝陽から目を離さずに聞いていた。


(どうやら、僕の知る歴史から大きな狂いはないようだ)

 康政は、誰にも悟られぬよう、わずかに安堵の息を吐いた。

 自分がこの時代に介入し、財団という巨大な機構を動かしたことで、世界の歴史が予測不能な方向へ変わる可能性は常にあった。だが、情報網が吸い上げてくる現実は、彼の記憶にある『一九一八年秋の終戦』という未来の歴史を、狂いなくなぞろうとしている。


「イギリスもフランスも、そしてドイツも、もはや国家の体力を使い果たしています。前線では謎の熱病が牙を剥き始めた。秋を待たずして、列強は内側から限界を迎えるでしょう」

 康政の言葉に、劉と阿長、燕が神妙な面持ちで頷く。


「ロンドンとニューヨークの株式市場は、今が熱狂の頂点です」

 翠玲が、手元の帳簿を開きながら涼やかな視線を向けた。

「このまま大量の空売(からう)りを仕掛けておけば、秋の休戦の報せと共に相場が崩れ落ちた瞬間、海外から莫大な外貨を吸い上げることができます」


「ええ、その手筈で進めてください。……ですが、翠玲さん」

 康政は卓上に広げられた内地(日本)の新聞へ視線を移した。そこには『造船特需、過去最高益』『新工場の乱立』といった、浮き足立った見出しが踊っている。

「帝都の企業は、まだこの大戦景気が続くと信じて借金を重ね、際限なく設備投資を広げている。秋に休戦の知らせが届けば、彼らは余った在庫と負債を抱え、行き詰まるでしょう」


 窓の外に広がる青空を見つめながら、康政の顔に憂いの色が差した。

「放っておけば、日本の産業基盤そのものが崩れ落ちかねません。彼らが休戦の衝撃で倒れそうになった時、我々が海外で得た資金を用いて手形を買い取り、すべて下支えしてやる必要があります」


 その言葉の真意を読み取った翠玲が、そっと頷く。

「彼らを救い上げるための、巨大な受け皿が要るということですね。……すでに帝都で経営難に陥っている中堅銀行をいくつか選定してあります。来月中に買収の手続きを済ませ、行員と金庫をそのまま流用し、春には『瑞長銀行』として帝都の中心で窓口を開けましょう。内地の相場が弾けた際、そこから救済資金を流し込みます」


「頼みますよ。真の金庫はこちらに置いたまま、帝都に拠点を構えましょう」

 康政の温和な笑みの奥には、嵐の後の日本をひそかに束ね上げる、実務家としての底知れぬ凄みが宿っていた。


 それから数日後。帝都・東京。

 正月気分の抜けない繁華街の喧騒(けんそう)から少し外れた、煉瓦造りの西洋建築。その一室である頭取室は、暖炉に火が入っているにもかかわらず、凍りつくような緊張感に包まれていた。


「全株式の譲渡。ならびに、当行の暖簾(のれん)を『瑞長銀行』へと掛け替える、と」

 帝都商業銀行の頭取が、額に滲んだ脂汗を手巾(ハンカチ)で拭いながら、目の前の男を見上げた。


「はい。無論、既存の顧客や行員の雇用はそのまま維持します。我々が求めているのは、帝都の中心における窓口と、大蔵省の認可を得た枠組みだけですから」

 上質な背広に身を包んだ和也が、革手袋を外しながら淡々と告げた。その傍らでは、霧島が分厚い契約書の束と、莫大な額面が記された小切手を机上に並べている。


「しかし、我が行は先代から続く暖簾が……」

「頭取。御行が台湾方面の事業投資で巨額の焦げ付き(こげつき)を出していることは、すでに調べがついています」

 和也の冷たく、しかしひどく透き通った声が、頭取の言い訳を断ち切った。


「大戦景気に沸く帝都の銀行が、手元の資金繰りに窮している。それが世間に知れ渡れば、明日にでも取り付け騒ぎが起きるでしょう。我々は時間を買っているのです。名残と引き換えに、行員と顧客の生活が守られるのであれば、悪い取引ではないはずです」

 和也の言葉には、威圧や悪意は微塵も含まれていない。ただ純粋な実務の論理と、救済への確固たる意志だけが、逃げ場のない事実として頭取の目前に突きつけられていた。


「…………承知、いたしました」

 長い沈黙の後、頭取が震える手で万年筆を握り、実印を引き寄せた。


 和也はゆっくりと立ち上がり、窓の外へと視線を向けた。

 ガラスの向こうでは、新年の特需に浮かれる帝都の商人たちが、足早に行き交っている。世界が未知の病と疲弊で悲鳴を上げているというのに、彼らはまだ、自分たちが歩を進めている先の崖に気づいていない。


 和也の視線の先で、乾いた冬の風が巻き起こり、埃を空高く舞い上がらせた。

 海の向こうから恐慌の足音が間近に迫る中、瑞長財団は溺れゆく者たちを確実に拾い上げ、嵐の後の日本を救うための巨大な器を、黙々と、そして着実に造り続けていた。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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