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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第1章:台北の産声と、静かなる覚醒

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第11話:溶菌の奇跡、それと児玉の決断

 児玉源太郎の応接室は、僕が保冷箱を開けたその瞬間、異様な静寂に包まれた。溶けかかった氷の隙間から漏れ出す冷気が、卓上の重厚な空気をわずかに震わせる。児玉は、僕の手にある小さなガラス瓶を、まるで戦場に現れた未知の伏兵を検分するような目で見つめていた。


 児玉の指先が、卓上の書類をゆっくりと、しかし正確なリズムでめくる。カサリ、という紙の擦れる音だけが、不気味なほど大きく響いた。彼は一言も発さず、ただ口に咥えた葉巻から立ち上る煙の行く末を追っている。その煙は、僕と児玉の間で複雑な渦を描き、消えていった。


「閣下、一五分ほどお時間を。二つの証拠をご覧に入れます」


 父が、僕の肩にそっと手を置いた。その手は微かに震えていたが、声には一点の曇りもない。父は、僕という知恵の泉を自らの武器として提示する覚悟を固めている。父の合図を受け、控えていた阿長が卓上にドイツ・ツァイス社製の最新鋭顕微鏡を置いた。


 児玉は万年筆を置き、椅子を鳴らして身を乗り出す。その瞳は、得体の知れない新兵器を検分する軍司令官のそれへと変わっていた。


「まずは、こちらを。新渡戸先生、解説をお願いいたします」


 父の促しに、新渡戸稲造先生がシャーレを手に取った。横浜に上陸した後、新鮮な氷で冷やし続けながら、その効力を守り抜いた証左である。


「児玉閣下、ご覧ください。この濁った液体の中心、そこに透明な円が描かれています」


 新渡戸先生が、学術的な冷静さを持って語りかける。この円の内側では細菌が全滅し、増殖を停止している。先生が台湾の現場で立ち会い、数週間にわたって観察し続けた事実に、児玉は目を細めた。だが、児玉の指摘は極めて実務的だ。


「カビの周囲だけが死に絶えているというのか。だが、これは過去の結果だ。今、この瓶にある液体が同じ力を持っているという保証にはならん」


 そこで父が僕に目配せを送った。僕は無言で頷き、顕微鏡の調整に入る。五歳の子供が精密機械をよどみなく操る様を、児玉は瞬きもせずに見つめていた。その視線は、僕の手元から顔へ、そして僕の瞳の奥へと、何かを暴こうとするように突き刺さる。僕はあえて言葉を発さず、技術者としての役割に徹した。


「閣下、レンズを覗いていただけますか」


 父が促す。児玉は無言で椅子を引き、接眼レンズに目を押し当てた。


「うごめいておるな。これが病の正体か」


「はい。では、ここに抽出液を投じます」


 僕はスポイトで、瓶の中の透明な液体を一滴、スライドガラスの上へ落とした。


 顕微鏡の中では、劇的な変化が起きていた。薬が触れた場所から、細菌たちが溶けるようにして次々と姿を消していく。児玉は数分間、微動だにせずその光景を凝視し続けた。


 部屋には、時計が刻む秒針の音だけが不気味に響いている。児玉の指が、デスクの端をトントンと規則正しく叩く。彼は顕微鏡越しに、目に見えない敵が壊滅していく様を、冷徹な軍人の目で見つめていた。


 やがて児玉はゆっくりと顔を上げた。


「新城和也。これは、魔法の類ではないのだな」


「左様にございます、閣下。これは純然たる理学に基づく成果です。この薬を用いれば、戦地において一人の熟練兵が使い物にならなくなる損失を、最小限に抑えることが可能となります。帝国陸軍の精強さを維持するためには、弾薬の補給と同等に、兵員の衛生管理こそが肝要である。それが、私たちが台湾で辿り着いた結論にございます」


 父の声は、官邸の壁を震わせるほどの覇気に満ちていた。児玉は再び葉巻をくゆらせ、紫煙の向こうから、父と、その傍らに立つ僕を見据えた。


「兵を資源と見るか。面白い。物流の規格化で滞りを消し、この薬で兵の損耗を防ぐ。和也、貴公は本気で、この国の軍の体質を根底から作り替えるつもりか」


「はい。すべては、帝国陸軍が不測の事態に直面した際、万全の体制で臨めるようにするためです」


 あえてロシアの名は出さずとも、近代戦における兵站と衛生の重要性を説くことで、児玉の合理的な思考に深く食い込ませる。児玉は卓上の鐘を一度、鋭く鳴らした。扉が開き、副官が入室する。


「これより、この一行を陸軍省の軍医部、および兵站監部へ通せ。後藤からの紹介状は預かる。新城和也、貴公の持ち込んだこの仕組み、まずは試製として、近衛師団の一部で採用を検討させる。ただし、効果が数字に出なければ、相応の責任を負ってもらうぞ」


「はっ。ありがたき幸せにございます」


 父が深く頭を下げ、瑞月姉さんが安堵の吐息を漏らした。児玉の視線が、最後に顕微鏡の側に立つ僕のところで止まった。その表情には、武人としての敬意に似た、複雑な色が混じっていた。


「和也。その倅、大切に育てておくがいい。……この童、ただの神童ではあるまい。一体、何年先の景色を見せておるのだ」


 その言葉に、僕は一瞬だけ息を呑んだが、すぐに深々と頭を下げた。


 官邸を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ瞬間。張り詰めていた空気が、風船が弾けるように霧散した。


「っ、ふぅ……」


 父が、座席に深く体を沈め、大きく息を吐き出した。官服に包まれた彼の膝が、小刻みに震えている。帝国陸軍の巨星を相手に、彼は人生のすべてを賭けた立ち回りを演じきったのだ。隣では、瑞月姉さんが無言で僕を引き寄せ、折れそうなほど強く抱きしめてきた。


「康政、やったわね。私たちの、この会談全部の立ち振る舞い……完璧な作戦勝ちだったわ」


 瑞月姉さんが、僕の耳元で小さく、しかし誇らしげに囁いた。そう、この邸内での一挙手一投足は、基隆を出たあとの船内、そして横浜から東京への馬車の中で、僕たちが繰り返し練り上げた攻略作戦そのものだったのだ。


 父が児玉閣下の合理性に訴え、瑞月姉さんが商人の冷徹さで補給を語り、僕が技術的証明に徹する。そして阿長が背景として実務の重厚さを演出する。児玉源太郎という怪物を相手にするために、僕たちは新城家という一つの機能を、最も効率的な陣形へと組み替えていた。


 中村殿や新渡戸先生にさえ悟られぬよう、身内だけで交わした役割分担。五歳の僕がでしゃばりすぎず、かといって凡庸でもない。その絶妙なバランスを、父は父親としての威厳で見事に包み隠してくれた。


「扉は開いた。だが、本当の戦いはこれからだ。閣下は我々を軍医部と兵站部へ回された。あそこには、閣下以上に頑固で、権威に縛られた古狸どもが待ち構えている」


 父の震える手は、僕の小さな手を力強く握り返した。僕は答えようとした。けれど、極限の緊張から解放された五歳の肉体は、すでに限界を迎えていた。脳の奥が熱く、急激な睡魔が押し寄せてくる。


「はい、父さん。次は……軍の内側を壊しましょう」


 僕は瑞月姉さんの温かい胸の中に顔を埋めたまま、小さく答えた。そのまま、深い眠りへと落ちていく。次に目を覚ました時には、物語はさらなる濁流となって動き出しているはずだ。


 五歳の軍師を乗せた馬車は、夕暮れの帝都を、静かに、しかし力強く進んでいった。

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