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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第17話:冬宮の会戦、和服の淑女

 凍りついたネヴァ川を吹き抜ける風は、刃のように鋭かった。

 大正五(一九一六)年、冬。ウラジオストクからユーラシア大陸を横断した特別列車は、ついに白銀の帝都・ペトログラードへと到着した。

 駅に降り立った康政たち一行は、用意された馬車に乗り換え、皇帝一家の住まう郊外の離宮(りきゅう)、ツァールスコエ・セローへと向かっていた。


 馬車の分厚い車窓から外を眺めていた康政の瞳には、かつて「北のヴェネツィア」と謳われた大都市の見る影もない、残酷な現実が映り込んでいた。

 雪の降る石畳の通りには、パンを求めて何キロも続く市民の配給待ちの列(オチェレヂ)がうごめいている。その目は一様に落ち窪み、飢えと寒さによる明確な怨嗟(えんさ)が宿っていた。列を乱す者がいれば、要所に立つ憲兵(けんぺい)が容赦なく銃床(じゅうしょう)で殴りつけている。

「凄まじいな」

 向かいの席で腕を組んでいた後藤新平が、低い声で(うな)った。

「はい。後藤大臣、この街の物流は、末端からすでに崩壊しています」

 康政は、車窓から目を逸らさずに淡々と答えた。

「いくら前線で勝利を重ねようと、市井(しせい)の人々に食糧と燃料が届かなければ、この国は内側から倒れます。……急ぐ必要がありますね」

 実務家としての冷徹な分析に、後藤は無言で頷き、葉巻を強く噛んだ。大帝国ロシアは今、確実に崩壊の淵へと向かっている。


 市中の重苦しい喧騒(けんそう)から遠く遮断されたように、アレクサンドル宮殿の敷地内は静寂と暖かな空気に包まれていた。

 控えの間へ通された一行は、ここで大きな視覚的変化を遂げた。同行していた瑞月と燕の二人が、持参した最高級の正絹(しょうけん)で仕立てられた和服へと着替えて現れたのである。

 瑞月が纏うのは、漆黒(しっこく)の生地に絢爛(けんらん)たる金糸で牡丹が描かれた、息を呑むほどに艶やかな訪問着(ほうもんぎ)。その後ろに控える燕は、深い藍色に白梅が散らされた、動きやすさと凛とした美しさを両立させる小紋(こもん)を身につけている。

 長引く戦争と病への不安から、どこか色褪せていた冬の宮殿に、突如として咲き誇った「東洋の美」。すれ違う案内役の女官(にょかん)たちでさえ、思わず足を止めてその洗練された(たたず)まいに見惚れるほどであった。

「見事なものだ」

 謁見(えっけん)の間へ向かう廊下で、後藤が瑞月を一瞥(いちべつ)して笑った。

「ありがとうございます、後藤大臣。私たちは東洋の最果てから来た名もなき客人ですもの。まずは目で、こちらの『格』を理解していただかなくては」

 瑞月は帯の乱れを指先でそっと直し、優雅に微笑んだ。


 謁見の間。そこには、軍服姿の皇帝ニコライ二世と、豪奢(ごうしゃ)なドレスに身を包みながらも、深い疲労を隠しきれない皇后アレクサンドラが座していた。

 後藤新平と内田大使による大日本帝国としての公式な挨拶が終わると、康政が一歩前へ出た。

「皇帝陛下、皇后陛下。お目にかかれて光栄の至りに存じます」

 康政の口から紡がれたのは、通訳を介さない、極めて滑らかで格調高いロシア語であった。ニコライ二世の目がわずかに見開かれる。

 康政は持参した莫大な「最新医療設備」の目録を(うやうや)しく提示し、それが東部戦線における兵士の致死率(ちしりつ)をどれほど下げるかを、明確な数値をもって理路整然と説明した。

「精神の勝利は兵士の勇気に依りますが、肉体の維持は兵站(へいたん)に依ります。大日本帝国は、陛下の誇り高き兵士たちを一人でも多く生還させるため、この支援を惜しみません」

「素晴らしい。なんという心強い申し出だ」

 軍の最高司令官として兵員の損耗(そんもう)に心を痛めていたニコライ二世は、精神論ではない「具体的で科学的な提案」に深く感銘を受けた。

 その恩義と引き換えに、康政はあらかじめ瑞月が作成していた一枚の書類を差し出す。

「この医療支援と物流を恒久的(こうきゅうてき)なものとするため、シベリア鉄道のオビ川流域、チュメニ駅を拠点とした、我々財団による合弁事業と、独自の管理運営権をお認めいただきたく存じます」

 皇帝にとって、それは自国の産業基盤を無償で整備してくれるに等しい提案であった。ニコライ二世は何の迷いもなくペンを取り、シベリアにおける瑞長財団の活動を認める全権委任状(ぜんけんいにんじょう)に力強い裁可(さいか)の署名を行った。

 ここに、極東の蜘蛛の糸は凍土へと結びつけられた。


 公式謁見の後、皇帝夫妻の厚意により、ごく身内だけの小晩餐(しょうばんさん)が開かれた。

 皇帝夫妻、皇女たち、皇太子アレクセイ、そして日本側の代表として後藤と康政、瑞月がテーブルを囲む。ここからが、孤独な皇帝一家の「聖域」に食い込むための真の外交戦であった。

 そしてこの場を支配したのは、漆黒の和服を纏った瑞月であった。

「皇后陛下。私はかつて、この後藤長官の下で、病魔に冒されていた台湾という島の衛生環境を整備する実務に携わってまいりました。大地を清潔に保つこと。それは、国という大きな家族を守る、母としての戦いでもございます」

 絶世の美貌と、柔らかな声音。瑞月は通訳を介しながらも、周囲から孤立し、ただ一人で家族を守ろうと心を砕き続けている皇后アレクサンドラの「孤独」に、同じ女性として、そして知的な淑女として深く寄り添ったのである。

「……ええ。本当に、あなたの(おっしゃ)る通りです」

 猜疑心(さいぎしん)の塊のようになっていた皇后の強張った表情が、瑞月の洗練された言葉によって次第に解け、安堵の笑みへと変わっていく。

 後藤はその様子をワイングラス越しに眺め、内心で愉快そうに目を細めた。


 その和やかな平穏は唐突に破られた。

「痛い……っ!」

 食後の茶の時間。皇太子アレクセイが突然椅子から崩れ落ち、自らの膝を抱え込んで悲鳴を上げた。ほんの(わず)かに椅子に脚をぶつけただけ。だが、血友病(けつゆうびょう)を患う彼にとって、それは関節内の内出血と、耐え難い激痛を意味していた。

「アレクセイ! 誰か、早くお医者様を!」

 皇后が悲鳴を上げ、部屋の空気が一瞬にして凍りつく。

 慌てて駆けつけてきた侍医が、痛みを和らげようと白い粉薬、すなわちドイツ・バイエル社が開発し普及し始めていた鎮痛剤であるアスピリンを水に溶かして飲ませようとした、その時だった。

「その薬を飲ませてはいけません」

 普段は温和な康政が、落ち着いているが、決して逆らえない重みのある声で侍医の手を制止した。

「な、何を血迷ったことを! これは現在世界で最も優れているとされる最新の鎮痛薬だぞ!」

 侍医は、東洋の若者に自らの最先端の処方を否定され、色をなして怒鳴った。

「ええ。この薬を選択されたあなたの判断は、最新の西洋医学として極めて正当です。あなたの優秀さの証明でもある」

 康政は、感情を交えない氷のような声で即答した。

「ですが、その最新の薬には、出血を長引かせる作用がある。血友病の患者にとって、それは毒薬に等しい」

「なっ……出血を長引かせる……?」

 侍医の顔から、さっと血の気が引いた。もし康政の言う通りであれば、自分は良かれと思って、皇太子の命を奪うところだったのだ。皇帝夫妻の視線を浴び、侍医が絶望と恐怖に顔を蒼白にさせた時、康政は、ふっと声の温度を和らげた。


「無理もありません。この事実は、我々財団の臨床研究でごく最近判明したばかりのものです。世界の医学界にまだ公表されていない知見です」

 康政は、侍医の「無知」を責めるのではなく、あくまで「我々が特別な情報を持っていただけだ」という形にすり替えた。

「今すぐ患部(かんぶ)を氷で冷やしてください。血管を収縮させて出血を止めるのが先決です。鎮痛剤はこちらの安全なものを使ってください」

 康政が革(かばん)から代用の鎮痛剤を取り出すと、侍医は弾かれたように動き出し、的確に氷を用意してアレクセイの膝を冷やし始めた。


 やがて内出血が治まり、少年の苦痛の表情が和らいで穏やかな寝息を立て始めた時、康政は安堵に震える皇后に向き直った。

「皇后陛下。関節内の出血は、先ほどのように優秀な侍医殿の冷却処置で防ぐことができます。しかし、本当に恐ろしいのは、皮膚が破れて細菌が入り込んだ際に起きる二次感染、敗血症(はいけつしょう)です」

 康政は、瑞月から受け取った小さな金属製の箱を開けた。

「私の持ち込んだこの『ペニシリン』と、徹底した衛生管理があれば、その致命的な事態から必ず彼を守り抜くことができます。……ですが」

 康政は箱を閉じ、それを真っ青な顔で立ち尽くす侍医の手に、恭しく預けた。

「私はただの物運び(実務家)に過ぎません。この薬と新しい衛生規則を余すところなく使いこなし、殿下のお体を二十四時間守り抜くことができるのは、殿下の体質を誰よりも熟知しておられる、この帝国内で最も優秀な侍医殿だけです」

「新城、理事……」

 侍医は、己の失態を隠蔽(いんぺい)してくれただけでなく、新たな「魔法の薬」の管理者という最高の地位を与えてくれた若き実務家を、震える目で見つめた。


 すかさず、隣に控えていた和服姿の瑞月が艶やかに微笑み、皇帝夫妻へ言葉を添える。

「兵站と物資の補給は、我々財団が責任を持ってシベリアからお届けいたします。あとは、陛下が最も信頼される医療陣の皆様にお任せくださいませ」

 康政の理路整然とした後押しと、瑞月の洗練された根回し。

 皇帝夫妻の瞳には、康政たちが「科学という名の奇跡をもたらした救世主」に映ると同時に、侍医もまた「新しい知識を得て皇太子を守る信頼の盾」として、その面子と地位を保つことになった。


 その夜。全ての行事を終え、用意された客室へと向かう康政たちの前に、一つの影が立ち塞がった。

 部屋の隅からずっと事の成り行きを監視していた男、怪僧ラスプーチンである。

「……東洋から来た若き実務家よ。お前たちは何者だ。この家の運命を、書き換えるつもりか」

 ラスプーチンの声には、明確な警戒と、底知れぬ探求心が混じっていた。

 康政は足を止め、背後に控える瑞月と燕を手で制すると、感情の読めない凪いだ瞳で怪僧を見返した。

「人の運命などという大層なものを書き換える気はありません。私はただ、必要な時に、必要な場所へ、必要な物を届ける。そのための道をシベリアに作るだけです」

 康政は淡々と告げた。

「あの少年が明日を生きる道が確保されれば、あなたの祈りの価値もまた、守られるのではないですか」

 その冷徹な事実の提示に、ラスプーチンの口角が不気味に吊り上がった。互いの領分を侵さず、ただ皇太子を生かすという一点においてのみ結ばれた、実務家と怪僧の奇妙な黙約(もくやく)であった。


 翌朝。アレクサンドル宮殿の車寄せには、宮殿での宿泊という異例の厚遇を受けた康政たちを見送るため、馬車が待機していた。

 康政と瑞月が皇帝夫妻と最後の実務的な挨拶を交わしている間、回廊の隅でひっそりと待機していた燕の前に、足音もなく現れた小さな影があった。

 四女アナスタシアと、昨夜の激痛から嘘のように解放された皇太子アレクセイであった。


 二人の子供は、東洋の彫刻のように微動だにしない燕を、不思議そうな、それでいて少し警戒を解いたような目で見つめている。

 燕は己を見上げる無垢な瞳に、すっと膝を折って視線を合わせた。彼女は流れるような所作で懐から一枚の白い和紙を取り出すと、魔法のような指先の動きでそれを折り畳んでいく。

 数秒後、燕の手のひらには、鋭い翼を持った一羽の美しい小鳥が姿を現した。


「……ウァウ」

 アナスタシアが感嘆の声を漏らし、アレクセイが恐る恐るその小鳥を受け取る。

「この鳥は、なんという名前なの?」

 アナスタシアの問いかけに、燕はふっと目元を和らげ、優しく澄んだロシア語で口を開いた。

「『(つばめ)』といいます。……私の名前と、同じなんですよ」

 女官たちとも違う、ひどく穏やかで綺麗な発音だった。アナスタシアは翡翠色(ひすいいろ)の瞳を瞬かせた。

「燕……。じゃあ、あなたも遠くへ飛んでいってしまうのね。また、ここへ帰ってくることはできるの?」


 少し寂しそうなその問いに、燕は微笑みを絶やさず、子供たちを安心させるように優しく首を縦に振った。

「ええ、帰ってきます。燕は、春を運んでくる鳥ですから」

 波一つない優しい声が、凍てつく回廊を温めるように響く。

「どんなに寒くて長い冬でも……一度仲良くなった方のところへは、必ず迷わず帰ってこられるんですよ」


 燕の紡いだその言葉に、アレクセイは小さな両手で折り紙の鳥を大切そうに包み込むと、安心したように嬉しく笑った。

「待ってるよ、燕」

「はい。……お約束します」

 燕は小さな皇太子へ向かって、深く、恭しく一礼をした。

 それは、大人たちが交わした巨大な権益の密約とは違う、東洋の護衛と帝国の子供たちとの間に結ばれた、国境を越えた「ひとつの優しい約束」であった。


 やがて、宮殿の重厚な扉が開く。

 外は、ペトログラードの街を白く塗り潰すほどの猛吹雪であった。

 康政は、ロシア帝国の中心から見事にもぎ取った「全権委任状」と「皇帝一家の信頼」を胸に抱き、ゆっくりと馬車へと乗り込んだ。歴史の歯車が、極東の若き実務家の手によって、音を立てて回り始めていた。

読んで頂きありがとうございます。

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