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明治~昭和? リノベーション記 ――温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第1章:台北の産声と、静かなる覚醒

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第10話:帝都上陸、そして巨星・児玉源太郎との会戦

 明治三十四年(一九〇一年)、九月下旬。

 台北を出港し、荒れ狂う遠州灘を越えた定期船は、灰色の空の下、帝都の玄関口・横浜港へと滑り込んだ。


 船のデッキに立ち、石炭の黒煙に霞む横浜の街並みを見つめる父・和也の横顔には、幾重にも重なる複雑な感情が刻まれていた。和也にとって、ここはかつてエリート官僚として「理」を語り、そして古色蒼然とした組織の壁に敗れて去った、痛恨の地である。


「……変わらんな、内地は。進んでいるように見えて、その実、何も変わっていない」


 和也が、金糸の刺繍が施された官服の襟を正し、独り言のように呟いた。その言葉を裏付けるかのように、接岸した船からの荷揚げ作業は、僕たちが台湾で作り上げた「理想」を、残酷なまでに打ち砕く混乱から始まった。


 台湾の基隆港では、僕たちの指導とSSコンテナの導入により、荷役は整然とした舞踏のように進んでいた。しかし、ここ横浜の桟橋は、属人的な力仕事と経験則が支配する、混沌の海だった。


「おい! そこのデカい箱、邪魔だ。端に寄せろ!」

「寄せられねぇよ、重すぎて持ち上がらねぇ!」


 鉢巻きを締め、刺青を覗かせた荷揚げ人足たちが、見たこともない鋼帯補強の木箱を前に悪態をつく。彼らにとって、荷役とはバラの袋を背負って走ることであり、四角い「規格」を積み上げるという発想そのものがない。


「そこだ、角を合わせろと言っている! 下に隙間を作るな、二段、三段と積み重ねるんだ!」


 阿長アチョが、人足たちの怒号の間を縫うようにして、的確な指示を飛ばす。だが、現場の設備がそれを拒んでいた。クレーンのフックは規格が合わず、待ち構える大八車や馬車は一台ごとにサイズが異なり、コンテナを載せると不安定に傾く。


「若君、これは……ひどいものです。道具コンテナが良くても、仕組みがこれでは、宝の持ち腐れにございます」


 台湾では四時間で済んだ作業が、丸一日経っても終わらない。阿長は、内地の港湾インフラの立ち遅れに、深い絶望と苛立ちを隠さなかった。同じ船に乗っていた中村是公が、眼鏡を拭きながらその光景を冷徹に見つめていた。


「新城殿、これこそが我々が後藤長官と共に戦わねばならぬ敵だ。内地の停滞は、我々の想像以上に根深い。血管が詰まった老人のように、この国は動けなくなっている」


 僕は、膝の上で大切に抱えていた特製の保冷箱を強く握りしめた。木箱から染み出す僅かな冷気が、僕の手のひらを痺れさせる。時間が惜しい。この混沌とした停滞を、実務の刃で切り裂かなければならない。


 翌日。一行は、新橋駅から馬車を連ね、麹町にある陸軍大臣官邸へと向かった。


 馬車の窓から覗く東京の風景は、前世の記憶にある摩天楼とは似ても似つかぬ、しかし強烈なエネルギーに満ちたものだった。煉瓦造りの三菱一号館が聳える銀座通り。その横を、人力車と馬車、そして開業したばかりの路面電車が危ういバランスですれ違っていく。ガス灯の煤に汚れつつも、急速に「近代」を纏おうとする帝都。だが、その路地裏に目を向ければ、江戸の名残を残す木造長屋が密集していた。


(この街が、数年後には大国の首都として、世界を相手に戦争を始めるというのか……)


 僕は、保冷箱の中の氷の状態を確認した。基隆で仕込んだ氷は、横浜での荷役遅延のせいで半分以上が溶けている。ペニシリンの安定限界は、刻一刻と近づいていた。


 馬車が麹町の静謐な一角に入り、重厚な石造りの門をくぐる。陸軍大臣官邸。そこは、帝国陸軍の意思が決定される、冷徹な「心臓」であった。


 案内された応接室。窓から差し込む午後の光は、立ち上る葉巻の煙を白く染め上げている。壁には、大陸の広大さを物語る巨大な東アジアの地形図が貼られていた。そこには軍機に関わる書き込みこそ一切ないが、北方に広がるロシア帝国の圧倒的な領土が、無言の圧力となって部屋に満ちている。


 部屋の奥、大きな黒檀のデスクに鎮座していたのは、帝国陸軍の至宝、児玉源太郎その人であった。児玉は、卓上の書類に万年筆を走らせたまま、僕たちの入室に顔を上げることすらしなかった。ただ、部屋全体を支配する戦場のような静寂と、児玉が放つ圧倒的な殺気が、僕たちの肌を刺した。


「後藤の部下が、休暇のついでに何の用だ。台湾の政務がそれほど暇になったのか」


 児玉の低く、つぶてを投げるような声が響いた。ページをめくる紙の音だけが、不気味に大きく聞こえる。まずは、中村是公が毅然として一歩前へ出た。


「中村是公にございます。児玉閣下、本日は後藤民政長官よりの直筆の書状を携え、帝国の物流と衛生に革命をもたらす実務の提案に参りました。閣下、まずはこの書状をご一読願いたく」


 中村が恭しく差し出した書状を、児玉はようやく手を止めて受け取った。後藤新平が「この者たちの知恵は、国難において数個師団に勝る戦力となる」とまで書き連ねた内容に、児玉は初めて顔を上げ、一行を値踏みするように見渡した。


「ふん。糖業の改良で浮かれていると聞いたが、随分と奇妙な連中を連れてきたものだな。新城和也、貴公がその中心か」


 児玉の視線が、和也を射抜く。和也は微塵も怯まず、官服の背筋を伸ばした。


「台湾総督府文官、新城和也にございます。閣下、私は左遷された台湾の地で、一つのことわりを形にして参りました。新渡戸博士、お願いいたします」


 ここで新渡戸稲造が、高潔な人格を盾に静かに口を開く。


「児玉閣下、お久しぶりでございます。新渡戸稲造です。私はこの一ヶ月、彼らが台湾の現場で成し遂げた、物流と衛生の統合管理をこの目で見て参りました。これは単なる商売ではなく、国家の損耗を抑えるための、極めて合理的な仁術にございます。私が、その証言者としてここに控えております」


 児玉の表情が、わずかに和らいだ。国際的な名声を持つ新渡戸の言葉は、無視できない重みを持つ。


「新渡戸君がそこまで言うか。だが、理屈はいい。軍が必要としているのは、机上の空論ではなく、戦場で機能する現物だ。新時代の女性実務家とやらは、何を差し出すつもりだ?」


 児玉の矛先が瑞月に向く。瑞月は、女の愛嬌を一切排した、鉄のような商人の顔で答えた。


「瑞長商会代表、陳瑞月にございます。閣下、私がお持ちしたのは、いかなる泥濘でいねいの中でも補給を止めないという供給能力の証明でございます。台湾での一ヶ月の生産実績、そして横浜港での荷役遅延のデータ。これを帝国軍の標準となさるなら、戦場での兵站は、今この瞬間から生まれ変わります」


 児玉は鼻で笑い、葉巻を灰皿に押し付けた。


「勇ましいことだ。だが、戦場は商売ほど甘くはないぞ。数字で割り切れないのが戦というものだ」


「だからこそ、父は私をここへ連れて参りました」


 一行が児玉の重圧に気圧されそうになった、その時。僕は膝の上の保冷箱を抱え直し、ゆっくりと、しかし確実に一歩前へと歩み出た。児玉は初めて、自分の机のすぐそばまで歩み寄ってきた五歳の幼児に、真正面から視線を落とした。


「新城の倅か。和也、公務の場に幼子を連れてくるとは、随分と余裕があるようだな」


 児玉の言葉には、侮蔑よりも、異質なものへの警戒が含まれていた。僕は、和也に一度誇らしげな視線を送り、それから背筋を伸ばして児玉に答えた。


「閣下。父は、自らが台湾で築き上げた『理』の最後の一片を証明するため、あえてこの私を同席させるという決断をいたしました。父がその身を賭してまで守ろうとしている、帝国軍兵士たちの命。不潔な泥にまみれて失われるはずの命を救う術が、この箱の中にございます。閣下のような名将であれば、父の志の先にあるものを見極めていただけると信じております」


 五歳の幼児の口から漏れた、あまりにも冷徹な現状認識。児玉の瞳が、獲物を捉えた猛禽のように細まった。彼は、目の前の幼児が子供という枠には収まらない、未知の知性であることを悟ったのだ。


「ほう。父親の面目を立てつつ、この児玉に向かって退路を断つか。和也、貴公はとんでもない隠し玉を持っていたようだな。面白い。その自信、どこから来る」


「この箱の中にございます」


 僕は、保冷箱の蓋をゆっくりと開けた。溶けかかった氷の中から、冷気を纏った小さなガラス瓶を取り出し、児玉の目の前へと掲げた。


「これは、現段階では世界に一つしかない、細菌の増殖を劇的に抑える薬にございます。閣下。軍務の合間に、わずか十五分だけ、お時間をいただけますか。この場でご覧いただきたいのです」


 明治三十四年。帝都・東京。歴史の巨星と、五歳の軍師による、一歩も引けない実務の対決が、今ここに幕を開けた。

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