第1話:零歳児の「お節介」と、手探りの絆
意識がふわりと浮上したとき、最初に僕を包んだのは、肺を焼くような重く湿った熱気だった。
(……あれ、僕は寝ていたのか。会議の資料は、まだ途中だったはずだが)
令和の日本。霞が関の古びた庁舎。深夜の執務室で、僕は最後の一枚の決裁書を閉じ、そのまま深い眠りに落ちたはずだった。けれど、次に目を開けたとき、視認できたのは無機質な液晶画面でも蛍光灯でもなく、煤けて鈍い光を放つ、立派な木製の梁だった。
「和也様、見てください。……とても優しそうな、綺麗な目をしていますよ」
耳に届くのは、柔らかく、けれどどこか古風な響きを持った日本語。自分の手を見れば、それは驚くほど小さく、瑞々しく、握りこぶしを作ることさえおぼつかない。
(転生……。物語の中だけの話だと思っていたが、どうやら人生を最初からやり直すことになったらしい)
三十代半ばまで、僕は経産省の実務家として、誰かの不便を解消することに喜びを感じて生きてきた。そんな僕が、明治二十八年の台湾という、激動の地で新しい命を得た。
康正と名付けられた僕を抱き上げる若い父母――和也と和子。その瞳には、打算のない純粋な愛情が溢れていた。前世で数字と理屈に囲まれて生きてきた僕にとって、その温かさは、何よりも守るべきものに思えた。
(まずはこの部屋の環境を整えないと。この重たい臭いと湿気は、衛生的に見過ごせないな)
僕が最初にこの時代の過酷さを知ったのは、家の中を支える二人の若者の姿を通してだった。
一人は、下女の林 鈴。
没落した商家の養女だった彼女は、何かに怯えるような、けれど誰かの役に立とうと必死な、痛々しいほど生真面目な少女だった。
そしてもう一人は、雑務を一手に引き受ける青年、阿長だ。
父・和也が現地で雇ったという彼は、普段は寡黙で目立たない存在だった。しかし、彼が書斎を整える無駄のない所作や、時折見せる理知的な眼差しに、僕は「彼なら、僕の意図を正しく汲み取ってくれるのではないか」という予感を抱いた。
生後数ヶ月。僕の世界はまだ布団の上だったが、二人の所作はよく見えた。
リンは汚れた雑巾を使い、阿長は汲み上げたばかりの生水を食卓へ運ぶ。当時の台北は風土病の巣窟だ。父・和也が持ち帰る書類には、同僚たちが病に倒れた暗い記録が絶えなかった。
(阿長さん。その水、そのまま飲むと危ないんだ。リンさん、その布も熱いお湯で洗わないと……。君たちが倒れたら、この家は立ち行かなくなる)
僕は、二人が不衛生なことをするたびに「悲しそうな顔」をし、逆に清潔なことをしてくれたときだけ、精一杯の笑顔で彼らの指を握った。
リンは僕の反応を不思議そうに見ていたが、阿長は違った。
ある日、阿長が庭の水瓶から水を運ぼうとしたとき、僕は全力で顔を背け、泣き真似をした。阿長は一瞬、足を止め、僕の視線の先にある水面を凝視した。
「……康正様。もしや、この淀みを厭うておいでなのですか?」
阿長は僕のそばに静かに跪き、品格のある声で問いかけた。その口調は使用人のそれというより、深遠な理を語り合う同志のように真剣だった。
(……そうだ、阿長さん。そこにボウフラが湧いている。それは病を運ぶんだ)
僕は彼の手元を指差し、何度も首を振った。阿長はその瞳に宿る意志を読み取ったのか、ハッと息を呑んだ。
「……失礼いたしました。この水は捨て、清浄なものに替えて参ります。……坊ちゃんは、万物の摂理を視ておいでだ」
阿長は即座に水を捨て、瓶を磨き上げた。それ以来、彼は僕の「視線」を道標にするかのように、家の中の動線を整理し始めた。リンもまた、阿長の毅然とした変化に触発され、熱湯での煮沸を徹底するようになった。言葉のない僕の「お節介」が、阿長という理知的なフィルターを通し、具体的な改善へと変わり始めたのだ。
二歳。僕は少しずつ言葉を操れるようになった。
父・和也は、港の物流が滞り、腐っていく物資を前に頭を悩ませていた。
「困ったな。いくら人を増やしても、荷が山積みになるばかりだ。……島の人々に届ける薬さえ、どこに紛れたか分からん」
晩酌の席で憔悴する和也。僕はその足元へ、よちよちと歩いて行った。背後には、僕が積み木で示した「規格」を忠実に再現した木箱を捧げ持つ阿長が控えている。
「パパ。これ、お船。……こっちは、ハコ。……ハコにいれると、お片付け、はやいよ」
僕は同じ大きさの箱に、バラバラの積み木を収めて見せた。
前世の知見。それを「お手伝い」の形に変えて提示する。
「パパ、お仕事、楽になる。……アチョも、運びやすいでしょ?」
阿長が、静かに一歩前に出た。
「旦那様。……坊ちゃんが仰せなのは、空間の等分、すなわち『規格化』にございます。荷を個別に扱う煩雑さを廃し、一定の容積を持つ箱として扱うことで、輸送の流動性を劇的に高める。……誠に畏るべき、至当な合理性にございます。私に、この箱を用いた実証をお許し願えませんでしょうか」
和也は、酒の猪口を置いた。阿長の流暢で気品ある補足に、彼は息子の、そして使用人の異質さを初めて正面から受け止めた。
「……阿長。お前、これほどの知恵をどこで……。……いや、康正。お前は、本当にお父さんを助けようとしているんだな」
和也は僕を抱き上げ、その頬を僕の頭に寄せた。
僕はその温もりに包まれながら、傍らで僕に深々と一礼する阿長を見た。
(阿長さん。君がいてくれて助かった。……これからも、僕の『手』になってほしい)
三歳になる直前。
我が家の玄関を、勢いよく叩く音が響いた。
「新城和也はいるか! あの『空間等分』の建白書、あれを書いたのはどこのどいつだ!」
地を這うような力強い声。和也が慌てて玄関へ向かう。僕はリンに手を引かれ、そして阿長に背後を守られながら、その後に続いた。
玄関に立っていたのは、巨躯の男――後藤新平だった。
阿長は一瞬、鋭い観察眼で後藤を見据えたが、すぐに「場」を弁え、僕の斜め後ろに静かに控えた。
「……ほう。……和也、その陰に隠れている小僧が、あの案の主か? ……そして、その背後に控える男……。ただの従僕ではあるまいな」
後藤はニヤリと笑い、土間にどっかりと腰を下ろした。
僕は、阿長の知的な静寂に守られながら、穏やかに微笑んだ。
(……こんにちは、後藤さん。……僕と阿長さんが考えたハコ。……誰かのためになるなら、使ってみてください。……みんなが少しでも、楽に暮らせるようになるなら……それが一番、嬉しいから)
新城康正。
明治二十八年の台北。
僕の二度目のキャリアは、頼もしいリンと、知略に長けた阿長。そして現れた「怪物」と共に、本格的に動き始めた。




