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おばあちゃん運ちゃんの小さな奇跡

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/02/20

桜庭舞香は、目覚まし時計の音より早く、自分の心臓の音で飛び起きた。


「やばい、やばい!遅刻!」


カーテン越しの朝日はまだ眠そうに光っている。


髪はぐちゃぐちゃ、パジャマは上下逆に着たまま。

昨日脱ぎ捨てたままの、しわくちゃになったスーツに着替えて、慌てて玄関に飛び出す。


道路に飛び出すと、ちょうどタクシーが停まっていた。


「乗ります!」


ドアを開けると、運転席に小さなおばあちゃんが、ぎゅうぎゅうに埋もれている。


シートに埋もれた体は、足元のブレーキなんて届くはずもない。


しかも、話しながら前を見ていないし、行き先も伝えていないのに、タクシーは静かに、しかし確実に走り出した。


「おっと、乗って、乗って!」

その声は小さいけれど、空気を震わせる力がある。


舞香の焦りが、ふっと和らぐ。



タクシーの窓から差し込む光が、まるで時間をゆっくり動かしているかのように柔らかく、舞香の胸をなでていく。


「……どうやって運転してるんですか?」


「ふふ、魔法のようなものよ」


舞香は吹き出した。

魔法……?まさか。


「ところで、舞香ちゃん。仕事のことでちょっと悩んでるでしょ?」


舞香はびくっとする。


「え、どうしてわかるんですか?それに名前……」


「背中が張ってるのよ。

上司に怒られること、最近多いんじゃない?

会議で口が滑ってしまうタイプだし、朝の通勤ラッシュに体力を持ってかれるでしょ」


舞香は息を飲む。


「そ、それは…確かに」


「そして、通勤電車で疲れてる。

昼休みはつい甘いものを食べて、罪悪感で落ち込む。プライベートも心配ね。

友達や家族ともあまり話せてないでしょ」


舞香は驚きすぎて口が開かない。


「でも、私が気になったのはそれだけじゃないの。

あなた、静岡出身よね?」


「えっ……どうしてわかるんですか!?」


「名前の由来も覚えてるわ。

『舞香』——踊るように香る、ってお母さまがつけたんでしょ。

小さい頃は花や小鳥が好きだった。

それに、たまにお菓子作りに没頭する癖も」


舞香は目を見開く。

出身地も、名前の由来も、誰にも話していないのに…!


「……どうして…」


「見たまんま。

あなたの小さな癖も、大きな悩みも、ぜーんぶ透けて見えるのよ」


タクシーは交差点をスムーズに曲がる。


舞香は半信半疑ながらも、妙に落ち着いている自分に気付く。


「でも大丈夫!

小さな行動を一つ変えるだけで、少しずつ道は開ける。焦らなくていいのよ」


会社の前で降りると、舞香は慌てておばあちゃんから領収書を受け取る。


「ありがとうございます!」


しかし振り返ると、そこには何もなかった。

おばあちゃんもタクシーも、影も――消えていた。



舞香は立ち尽くし、目を閉じる。


だけど、不思議と焦りはない。

小さなおばあちゃん運ちゃんがくれた言葉が、胸に温かく残っているのだ。


デスクに向かうと、言われた通り少しずつ行動を変える。


メールを小分けに返す。


上司の細かい要求にひと呼吸置く。


昼休みは深呼吸をして、甘いものは少しずつ楽しむ。


すると不思議と、仕事も人間関係も少しずつ回り始めた。



舞香は窓の外の光に目を細める。


「もう、朝から焦らなくても大丈夫!」


小さな奇跡は、日常の中にそっと広がっていた。


そのとき、どこからか小さな声が聞こえる。


「舞香ちゃん、大丈夫よ。きっと良いことあるからね!」


振り返ると、そこにはおばあちゃんの姿はない。


けれど、声だけがそっと胸に残る。


舞香は深く息を吐き、目を閉じる。

心の中でつぶやく。


「うん、きっと大丈夫…!」


今日も、明日も、少しずつ前に進める気がした。




そして、数日後――


お礼を伝えようと、領収書に書かれていた住所に向かったが、何もない空地だった。


小さなおばあちゃん運ちゃんは、今日もどこかを走っているかもしれない。

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