おばあちゃん運ちゃんの小さな奇跡
桜庭舞香は、目覚まし時計の音より早く、自分の心臓の音で飛び起きた。
「やばい、やばい!遅刻!」
カーテン越しの朝日はまだ眠そうに光っている。
髪はぐちゃぐちゃ、パジャマは上下逆に着たまま。
昨日脱ぎ捨てたままの、しわくちゃになったスーツに着替えて、慌てて玄関に飛び出す。
道路に飛び出すと、ちょうどタクシーが停まっていた。
「乗ります!」
ドアを開けると、運転席に小さなおばあちゃんが、ぎゅうぎゅうに埋もれている。
シートに埋もれた体は、足元のブレーキなんて届くはずもない。
しかも、話しながら前を見ていないし、行き先も伝えていないのに、タクシーは静かに、しかし確実に走り出した。
「おっと、乗って、乗って!」
その声は小さいけれど、空気を震わせる力がある。
舞香の焦りが、ふっと和らぐ。
タクシーの窓から差し込む光が、まるで時間をゆっくり動かしているかのように柔らかく、舞香の胸をなでていく。
「……どうやって運転してるんですか?」
「ふふ、魔法のようなものよ」
舞香は吹き出した。
魔法……?まさか。
「ところで、舞香ちゃん。仕事のことでちょっと悩んでるでしょ?」
舞香はびくっとする。
「え、どうしてわかるんですか?それに名前……」
「背中が張ってるのよ。
上司に怒られること、最近多いんじゃない?
会議で口が滑ってしまうタイプだし、朝の通勤ラッシュに体力を持ってかれるでしょ」
舞香は息を飲む。
「そ、それは…確かに」
「そして、通勤電車で疲れてる。
昼休みはつい甘いものを食べて、罪悪感で落ち込む。プライベートも心配ね。
友達や家族ともあまり話せてないでしょ」
舞香は驚きすぎて口が開かない。
「でも、私が気になったのはそれだけじゃないの。
あなた、静岡出身よね?」
「えっ……どうしてわかるんですか!?」
「名前の由来も覚えてるわ。
『舞香』——踊るように香る、ってお母さまがつけたんでしょ。
小さい頃は花や小鳥が好きだった。
それに、たまにお菓子作りに没頭する癖も」
舞香は目を見開く。
出身地も、名前の由来も、誰にも話していないのに…!
「……どうして…」
「見たまんま。
あなたの小さな癖も、大きな悩みも、ぜーんぶ透けて見えるのよ」
タクシーは交差点をスムーズに曲がる。
舞香は半信半疑ながらも、妙に落ち着いている自分に気付く。
「でも大丈夫!
小さな行動を一つ変えるだけで、少しずつ道は開ける。焦らなくていいのよ」
会社の前で降りると、舞香は慌てておばあちゃんから領収書を受け取る。
「ありがとうございます!」
しかし振り返ると、そこには何もなかった。
おばあちゃんもタクシーも、影も――消えていた。
舞香は立ち尽くし、目を閉じる。
だけど、不思議と焦りはない。
小さなおばあちゃん運ちゃんがくれた言葉が、胸に温かく残っているのだ。
デスクに向かうと、言われた通り少しずつ行動を変える。
メールを小分けに返す。
上司の細かい要求にひと呼吸置く。
昼休みは深呼吸をして、甘いものは少しずつ楽しむ。
すると不思議と、仕事も人間関係も少しずつ回り始めた。
舞香は窓の外の光に目を細める。
「もう、朝から焦らなくても大丈夫!」
小さな奇跡は、日常の中にそっと広がっていた。
そのとき、どこからか小さな声が聞こえる。
「舞香ちゃん、大丈夫よ。きっと良いことあるからね!」
振り返ると、そこにはおばあちゃんの姿はない。
けれど、声だけがそっと胸に残る。
舞香は深く息を吐き、目を閉じる。
心の中でつぶやく。
「うん、きっと大丈夫…!」
今日も、明日も、少しずつ前に進める気がした。
そして、数日後――
お礼を伝えようと、領収書に書かれていた住所に向かったが、何もない空地だった。
小さなおばあちゃん運ちゃんは、今日もどこかを走っているかもしれない。




