ガラスの靴よりも油まみれの翼を
遠く離れたお城の中には美しい王子様がいるらしい。
三日前、道端に捨てられていた新聞紙には王子様の肖像画が載っていた。その顔は泥に塗れていて見えなかったけれど、だからこそ私の心は釘付けになった。
美しい王子様も私と同じように泥だらけなんだ。
「泥被り」
チュウチュウと不快な音と一緒に私を呼ぶ声がする。視線を下げると、ドブネズミが一匹こちらを見上げていた。チュウチュウ、ドブネズミは言う。
「汚れていたのは新聞さ。王子様はお城でピカピカ。綺麗なお召し物を着て、薔薇のコロンをつけているのさ」
「うるさいわね、ドブネズミ」
「お前も分かっているじゃないか。お前がどれだけ王子に親近感を抱いても、お前は俺と同じだ、泥被り」
ドブネズミはチュウとひとつ鳴いて、壁の穴に逃げていった。
ホウキで叩いてやればよかった。せめてもの嫌がらせにドブネズミの巣穴に埃を押し込んだ。
「ドブネズミに当たるなよ、泥被り」
またどこかから声がした。
あたりを見回すと、俺はここだと言わんばかりに声の主が目の前の壁を這ってくる。
「なんだ、"ゴミ"トカゲじゃないの」
「おいおい、お前らと一緒にするな。俺はただのトカゲだ」
トカゲはいつも偉そうだ。私やドブネズミと違って不名誉な名前をつけられなかったことを自慢に思っているらしい。
トカゲはいつも通り柔らかい体を左右に唸らせながら、鼻持ちならない声で私を煽った。
「拗ねているんだろう。城のパーティに参加できないから」
くだらない。私はトカゲから目を逸らす。
「拗ねてなんかないわ」
「泥被り、お前は夢を見ていたな。新聞紙の端に描かれた泥に塗れた王子様に勝手に運命を感じて、その王子様が結婚相手を選ぶって言うもんだから」
「うるさい!」
ホウキを床に叩きつける。さっきまでトカゲがいた壁を睨みつけるけれど、トカゲは逃げたあとだった。
自分が捨てたホウキを拾う。投げつけた反動で穂に溜まっていた埃が舞い上がってきて、ゲホゲホと汚い咳が出る。煙が目に染みて涙が出た。
「諦めるんだ、泥被り。お前は王子に選ばれないどころか、城に辿り着くことさえできない」
今度は一体誰だ。
涙の浮かぶ目を小さな窓に向けると、一匹のカラスが窓から私を見下ろしていた。
「そんなところにいないで降りてきなさいよ、"アブラ"ガラス」
珍しく私の言うことを聞くことにしたらしい。カラスは油で重くなった羽を広げ、二、三ばさりと動かすと、億劫そうに私の近くまで降りてきた。
「継母や継姉たちが憎いか」
カラスは真っ黒な目玉で私を見つめた。その目玉に映る私は、酷く汚かった。
「お前は本当は高貴な女だ、泥被り。男爵とは言え貴族の娘として生まれることができて、昔は悪くない暮らしをしていたはずだ。それなのに母親が死んで、父親があんなのと再婚したせいで」
カラスはくいっと首を傾げた。
「かわいそうにな」
かわいそう。カラスはいつも、私に言う。けれど、鳥のくせにアブラ塗れでうまく飛ぶこともできないカラスに、どうしてそんなことを言われなければならないのだろう。
「あんたも十分、かわいそうよ」
私がそう言うと、カラスは大きく嘴を開けて、嘲笑うようにカァアと鳴いた。
カラスは実に怠け者だ。他の鳥たちのように熱心に鳴くところを見たことがない。
それなのになぜか、今日はしつこく鳴き喚く。カァ、カァ、カァア。
いい加減にしなさいよ。私は黙らせてやろうと、ホウキを振りかぶった。
私にその気がないことに気づいていたのだろう、カラスはちょっとだけ横に移動したあとに、大きく嘴を開けた。
「お城に行きたいかい」
嗄れた老婆のような声だった。私がいつも聞いていた声とは違う、それでも間違いなく、カラスの嘴の奥から出されていた。
「あんた、誰よ」
カラスはわざとらしく「カア、」と言ったかと思うと、汚くテカった羽で頭を隠すようにぐっと縮こまった。その格好のまま、体の中にガスを流し込まれたかのようにぶくぶくと膨らんでいく。
破裂する。私は細くて頼りないホウキに身を隠す。それでもカラスは膨らみ続ける。ぶくぶく、ぶくぶく。ついにカラスは人間一人ほどの大きさになった。
カラスは頭を隠していた羽をゆっくりと開いた。中から出てきたのはカラスではなく、一人の老婆だった。
老婆は酷く醜かった。
肌には大きなシミが無数にあり、白髪は薄く、ところどころ禿げていた。大きさの違う左右の瞼はどちらも皮膚が伸び重く被さっていて、隙間からかろうじて見えるその眼球は灰色に濁っている。鷲のような大きな鼻のてっぺんには大きなイボがあった。太い首は前に出ていて、腰は大きく曲がっている。
老婆はひび割れた唇を開けて、先ほどカラスから聞こえた声を出した。
「驚かないんだね」
驚く? 私は鼻で笑う。
「当たり前じゃない。ネズミやトカゲが喋るのよ。カラスが人になったって、驚いたりしないわ」
「なんだって?」
老婆はカア、と下品に笑って、私を指差した。
「ネズミやトカゲが喋るわけないじゃないか」
私は急に、つまらなくなる。
老婆に背を向け歩き出す。部屋の隅に置いてある掃除用の溶剤が入った缶を抱え込むようにどかりと座ると、中の空気を思い切り吸い込んだ。鼻の奥が冷たくなって、ぼんやりする。気持ちがいい。
何度も吸うと、消えたはずの友人たちが私の前に戻ってきた。泥被り、俺たちを消さないでくれよ。お前の友だちなんて、俺たちだけだろう。
「やめな。幻覚から帰って来れなくなるぞ」
老婆の声だけがはっきりとしていて、嫌になる。
「あなたは私の幻覚のくせに、どうして私の幻覚を否定するの」
「そうかい、私を幻覚だと思ってるんだね」
老婆はやっと納得したようにそう言うと、私の方に手を差し出した。
「おいで、泥被り。本当の夢を見せてあげるよ」
ふわりと、体が浮いた。
溶剤を吸った時に起こるあの浮遊感かと思ったけれど、事実、私の体は浮いていた。四肢も胴も何一つ床につくことなく、視界が上がっていく。
「う、そ……」
「嘘じゃないさ」
老婆は私の隣で慣れたように空中遊泳をたのしんでいた。
「これで幻覚じゃないと分かったかい」
ただでさえシワだらけの顔をくしゃくしゃにして笑う。
「ついに私の頭はやられたのね」
「お前の頭はどうしようもないが、これは現実さ」
「あなたは誰」
老婆は得意げに笑った。
「私は魔女。お前を救いに来たよ」
魔女。
唇だけで繰り返す。私を救いにきた、魔女。
魔女は横になっていた体をくるりと回して手を大きく開いた。私たちの体はのんびりと降りていく。両足が地面につくと、魔女は言った。
「さあ、泥被り。願いを言ってごらん」
私の、願い。
「私も魔女にして……!」
時間なんて必要なかった。心臓が強く鼓動していた。数秒前の光景が、頭にこびりつく。
魔女は驚いたように、右目に被さる瞼を上げた。
「へえ、珍しい子だね。綺麗なドレスを着て王子様の待つお城にだって連れていってやることもできるのに」
「要らない、そんなの要らないわ」
ドブネズミが言っていた。泥に塗れているのは新聞紙で、王子様は美しいまま、お城の中で裕福に暮らしているのだと。ドブネズミの言うことを、私が知らないわけがない。美しい王子様なんて、どうでもいい。
「あなたの仲間にして、魔女。私をここから連れ去ってよ……!」
魔女はにやりと笑った。
「いいだろう。お前は十分に魔女の素質がある」
「素質?」
「ああ」
そうして少し、哀れんだ。
「世界で一番、醜い女」
世界で一番醜ければ、魔女になれるというのだろうか。目の前の魔女をじっと見つめる。
「あなたも、そうだったの?」
「ああ」
「嬉しい」
私は自分の手の平を見た。ひび割れて、あかぎれていて、治療もすることができないから、ところどころ黒くなっている。醜い。私はもうずっと、醜かった。
「私、ずっと醜い友だちがほしかったの」
ドブネズミでも、"ゴミ"トカゲでも、"アブラ"ガラスでもよかった。私と同じ醜い友だちがほしかった。
「連れていって、魔女」
「仰せの通り」
魔女はいつの間に持っていたのか、細長い木の杖を掲げた。
「目を瞑りな。そう、いい子だね。お前は魔女にするには美しすぎる。さあ、私の言うことを繰り返すんだ。それ」
私は魔女に習った魔法の言葉を、復唱する。
「ドビドゥ、ダディリ、ドゥー」
体が熱くなる。皮膚がボコボコと沸騰したように膨らんで、私を私でなくしていく。痛い。耐えきれなくて叫ぶと、溺れた蛙のような声になった。
体の痛みはすぐに引いた。
それでもどうも、体が重い。何枚ものボロ布で包まれているみたいだ。
魔女は呪文を唱えた。ドビドゥ、ダディリ、ドゥー。
目の前に、魔女とは違う、骨に皮だけが被さったような老婆が現れる。新しい魔女が来たのかと頭を下げると、老婆も私と同じように頭を下げた。手を振ってみる。老婆も手を振る。鏡だ。この老婆は、私だ。
「お気に召さなかったかい」
魔女が揶揄うように言った。
私は重い首を振った。ゴキッと、鈍い音が鳴る。
「気に入ったわ」
「そう、よかった」
魔女はまたカァ、と笑って、私の手を取った。水膨れの魔女の手と、骨だらけの私の手が重なる。ふわりと体が浮いて、私たちはカラスが入ってきた窓から外に出た。
体の下には夜の街が広がっていた。
遠くには煌びやかなお城も見える。あの城の中にあるどんな美しいものたちも、全部偽物のように思えた。
「さあ、行くよ。魔女は忙しい。お前の次に醜い女を救いに行かないといけないんだ」
魔女はいつのまにかカラスの姿になっていた。
もしかしたらさっきの呪文で私もカラスにもなれるかもしれないと思ったけれど、今はもう少し、醜い人間の体で空を飛んでいたかった。
「待ちなさいよ、魔女」
お城が近づいて、また小さくなっていく。私は醜い友人に置いて行かれないよう、精一杯に両手をばたつかせた。
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