海陵王と翟永固
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十九 列伝二十七の翟永固伝からですが、前回に続き今回も多少暴虐と思われるエピソードになります。
貞元二年(1154)の科挙で、「尊祖配天」との題で賦を作るようにと出題された。海陵王は自分に対して底意があるのではないかと疑い、翟永固を召すとこう問い質した。
「賦の題を朕は気に入らない。我が先祖は在位中に天を拝礼していなかったであろう。」
翟永固が「拝礼していました。」と答えると、海陵王は言った。
「どうして生きている間に拝礼していた者が、死んでから拝礼される側となるのだ。」
翟永固が「古くから行われてきたことで「典礼」に載っています。」と答えると、海陵王は言った。
「古くから行われていたなら桀・紂が行っていたことでも私にもやらせようというのか。」
こうして翟永固と張景仁は共に杖で二十回打たれた。
進士の張汝霖が作った賦の第八韻に「まさに今から郊祀を行う。」とあった。海陵王は「私が郊祀を行うなどと何故お前ごときに分かるのか。」と言って詰ると、杖で三十回打たせた。
しばらくして、翟永固は礼部尚書に昇進し、笏頭球文金帯を賜り、永定軍節度使に改められた。
正隆二年(1157)、二品以上の官爵を一斉に降格することとなったが、翟永固だけは光禄大夫のままで降格とならず、特別に気に入られていた。
翰林学士承旨に昇進し、直学士の韓汝嘉と共に内殿に召されて、「近いうちに自ら宋に遠征するがどう思うか」と尋ねられた。翟永固は言った。
「宋はわが国に対して敵意は無く、討伐するに名分が立ちません。仮に討伐するにしても、陛下のお手を煩わせるまでも無く、将帥を遣わすべきです。」
海陵王の意に大いに逆らったため、翟永固は即座に致仕を願い出た。
正隆四年(1159)正月丁巳、海陵王は永寿宮にて、四品以上の官人と共に宴会を催した。翟永固が宮殿の門外にまで来ると、海陵王は即座に「致仕を許す」と伝えた。翟永固は家に帰って床に臥せた。
海陵王の没後にに復帰して尚書左丞となった。