1-8. 試験という名のクエスト
扉を潜った先は、思いもよらぬ青々とした森だった。
見渡す限り、樹齢百年を超えるような立派な木々が生い茂っている。
人工物らしきものは何一つない。
目を閉じれば、さまざまな小鳥のさえずりと心地よい風が肌をなでる。
まるで心が洗われるようだ。
これが手つかずの自然というものなのか、そんな感覚さえ覚える。
「ゴブリンは単独ならさほど強くない。
だが群れになると厄介だ。
今回は君の実力を知りたいから、群れからはぐれたやつをとっとと探そう」
エイルが景色を味わっている間も、アインツは淡々と歩みを進めていく。
置いていかれまいと急ぎ足を踏み出した瞬間、足元で硬い感触があった。
慌てて視線を落とすと、思わず声を上げそうになった。
人間の頭蓋骨だった。
よく見れば、一つだけではない。
草むらの奥には、いくつもの冒険者の成れの果てが散乱している。
美しい風景の裏で、この世界には死神が潜んでいる。
少しでも気を抜けば、すぐに命を刈り取られる――
屍たちが、そう訴えかけてくるようだった。
「ダンジョンの中はどこもこうだ。
早く慣れた方がいい」
アインツの声は冷たく、表情にも一切の揺らぎがなかった。
その無関心さが、エイルには恐ろしく思えた。
エイルは一瞬、冒険者になったことを後悔した。
ダンジョンの過酷さは、想像をはるかに超えていた。
もっとよく考えてから、ルイの提案を受け入れるべきだったのでは?
他の方法で魔剣を制御する道を探せばよかったのではないか?
足元を見つめたまま動けなくなるエイルに、アインツはため息をついた。
「なんだ、もう怖気づいたのか?
君の覚悟はそんなに脆かったのか?」
その言葉に胸が抉られた。
そうだ、自分はあの惨劇を繰り返さないためにここに来た。
それは命よりも大切な決意だったはずだ。
エイルは強く首を振って震える足を無理やり前に出し、アインツの方へ歩み寄った。
とにかく今は、進むしかない。
そう自分に言い聞かせていると、アインツが不意に声をかけてきた。
「そういえば言い忘れていた。
この世界にいる間、俺は基本的には戦わない。
一人で魔物を倒すんだ」
「……え?」
思わず息を呑んだ。
「ここの魔物なら、俺一人で簡単に殲滅できる。
だがそれだと君が強くなれないだろ?
危なかったら助けなくもないが、あまり期待するなよ?」
事実を淡々と述べるその口調は、どこか冷ややかで突き放すようだった。
親切心なのかもしれないが、その無慈悲さに胸が締めつけられる。
「それと、絶対に魔剣の力は使うな。
絶対だ。
何が起こるかは保証できないからな」
「でも、それじゃあ制御の訓練にならないんじゃ……」
彼の懸念は最もかもしれない。
エイルとて危険を冒したくはないが、そもそも使わずに制御できるのか?
「剣を始めるとき、いきなり模擬戦から始めないだろ?
まずは基礎を固める、それと同じだ。
俺の知る限り、魔剣には膨大な力が秘められている。
まずは、それを扱うための精神力、体力、耐久力――
それらを鍛えることが先決だ」
アインツの説明は冷静かつ的確だった。
どこにも反論の余地がない。
エイルは小さく息を飲み、頷くしかなかった。
そうしているうちに、アインツが急に足を止めて木陰へと身を隠した。
声をかけようとしたエイルに、アインツは人差し指を唇に当てて合図を送った。
彼がそっと指し示す方を見ると、そこには一体のゴブリンがうろついていた。
緑色の肌、小柄な体、醜く歪んだ顔。
本で見たそのままの姿だった。
右往左往しながら、空中に向かって何度も威嚇するように棍棒を振り回している。
何をしたいのかは分からないが、どうやら群れからはぐれた個体のようだ。
「心臓の位置にコアがある。
そこを狙え」
アインツが小声で短く告げた。
エイルは大きく息を吸い込んだ。
これまで人間相手には負け続きだったが、相手は魔物だ。
知能はかなり低い。
動きだって読みやすいはず。
いや、そうでなくては困る。
必死にそう言い聞かせながら、音を立てないようにゆっくりと間合いを詰めた。
数メートルまで近づいた瞬間、ゴブリンがこちらを向いた。
敵だと認識したのか、すぐさま棍棒を構える。
目には殺意しか宿っておらず、そこには理性は感じ取れなかった。
エイルは恐る恐る、腰の剣を抜いた。
手の震えが止まらない。
冷や汗が背を伝い、全身の力が抜けそうになる。
本当に倒せるのか――そんな疑念が、心の奥を支配していく。
(いや、そんなこと考えちゃダメ。
目の前の敵に集中しないと――)
先に動いたのはゴブリンだった。
甲高い叫び声を上げながら、獣のように飛びかかってくる。
――速い!
ギリギリのところで、エイルは体をひねって攻撃を避けた。
「グルルルル……」
攻撃をかわされたゴブリンは、ますます狂気を帯びた目でこちらを睨む。
その殺気は人間のそれとは根本的に違う。
ただ”殺す”ことだけを目的とした、むき出しの暴力。
その恐怖が、冷たい棘のように肌を刺した。
「ひっ――!!」
思わず声を上げると、ゴブリンは再び突進してきた。
知能が低いというのは、厄介だった。
動きがまったく読めない。
本能のままに繰り出される攻撃は、むしろ理性的な人間よりも遥かに危険だった。
エイルは必死に防御するだけで精一杯、反撃どころではない。
「!?」
足元の石につまずき、体勢を崩した。
衝撃で膝を強打し、激痛が全身に走った。
息が詰まり、立ち上がれない。
ゴブリンは口角をつり上げ、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
そしてそのまま飛びかかり、渾身の一撃を振り下ろそうとする。
「あ、あぁ……」
恐怖が限界を超え、エイルは無意識に目を固く閉じた。
「――ちっ」
鋭い舌打ちが、どこか冷たく響いた。
来るはずの衝撃が、なかなか来ない。
おそるおそる目を開くと、目前に迫っていたゴブリンの体が崩れ落ち、灰となって消えていった。
何が起きたのか理解できないまま、エイルはその場に座り込んだ。
そんな中アインツが後ろから歩み寄り、灰の中からゴブリンの角を取り出してポケットに収めた。
「帰るぞ」
アインツは、こちらを一瞥もせずに背を向けた。
「あ、あの…………」
かすれる声で呼びかけると、彼は呆れたように小さく呟いた。
「はぁ……こりゃ話にならない。
頭が痛くなりそうだ」
(――また、負けた…………)
誰でも倒せるはずのゴブリン一体に、完膚なきまでに打ちのめされた。
アインツが失望するのも当然だ。
剣を抜いたものの、一度もまともに攻撃できなかった。
これでは育てる価値もないだろう。
自分には、もう何も残っていない。
希望も、生きる価値も、全て――
エイルは呆然と空を見上げた。
動くこともできず、ただ静かに絶望に飲み込まれていった。
<<リコリスの一言メモ>>
ギルドは冒険者が提出頂いたドロップアイテムを主な資金源としております。
余分に回収されたものは冒険者が自由に持って帰ってよいことになっておりますので、多くの方は必要以上の魔物を狩って生計を立てているのですよ。
……ところでハイパー様は初任務でかなり緊張されているご様子でしたが、大丈夫でしょうか?




