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外伝Ⅱ アインツの日常

 エイルが初心を思い出そうとしていた頃。

 アインツはルイから頼まれていた古い魔導書の翻訳に勤しんでいた。

 翻訳自体はルイにもできるが、アインツの方が理論の解釈や表現が丁寧で評判は高い。


 特に今回の本は魔力の扱い方に関するものだ。

 学生時代にそれを専門としていた彼にはうってつけの仕事だった。




 今日も朝から早速、翻訳に取り掛かろうとした。


「……おっと、アレ忘れてた」


 散らかった部屋の中を少し漁った。

 そして医者のパナサーにもらった紙袋を見つけ、試験管を一本取り出した。

 中には赤い液体が入っている。

 アインツは一瞬躊躇したが、蓋を外し一気に飲み干した。


「……うっ!

 げほっ、げほげほっ!」


 薬が舌に触れた瞬間、思わずむせた。

 独特の苦味と粘りで、吐き出しそうになるのを必死にこらえる。



 この薬には、もう何年も世話になっている。

 だが慣れることは一切なかった。

 吐瀉物を喉に流し込むような気分だ。

 できることなら、二度と飲みたくない。


 けれど飲まなければ、動悸、息切れ、心拍の乱れなどの症状が出てしまう。

 アインツにとってこの薬は、まさに命綱だった。

 ダンジョンに行くときはもちろん、普段も必ず予備を持ち歩いている。


 彼にとってこの瞬間が一日の中で一番憂鬱だった。




 ようやく落ち着いたころ、机に向かい翻訳を再開しようとした。


「……しまった」


 インク瓶の中はすっかり空。

 棚や引き出しを探すも、予備はどこにも見当たらなかった。


「仕方ない、買いに行くか」


 幸い今日は快晴だ。

 アインツは簡単に身支度を整えると、久しぶりに外へ出た。




***




「いらっしゃい」


 雑貨屋に入ると、やる気のなさそうな店主が奥から出てきた。


「インク瓶を3つ頼む」

「あいよ、いつものね」


店主は渋々面倒臭そうに、奥から品物を持ってきた。


「銀貨3枚だ」


 妥当な金額だ。

 アインツは懐から財布を取り出して開いた。




 ――貨幣が一枚も入っていない。

 ひっくり返しても、ポケットを探しても、何も出てこない。

 アインツがゆっくり顔を上げると、店主は呆れ顔でため息をついた。


「はぁ、またかよ?

 いい加減、出かける前に財布ん中を確認する癖を付けたらどうなんだ?」


 もっともな指摘だ。

 アインツは過去にも何度もお金を忘れ、そのたびに謝っている。

 本気で反省しているのに、翌日にはすっかり忘れているのだ。


「悪いんだが、今回は急ぎなんだ。

 後でちゃんと払うから、大目に見てくれないか?」


「あのな、それ前も言っていただろ。

 あんたが嘘つかねぇのは分かってるが、毎度となるとなぁ……」


 店主は頭を抱えてしまった。


 インクがなければ翻訳は進まない。

 だが魔法店までそこそこの距離があって、時間が勿体ない。

 アインツは苦い顔をして黙り込んだ。



 そのとき、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。


「銀貨三枚で間違いないかしら?」


 声の主はアインツの隣に来ると、店主にお金を手渡した。

 パナサーだった。


「……あいよ。

 今度はちゃんと持って来いよ?」


 店主はそれだけ言うと、のそのそと店の奥へ引っ込んでいった。


「すまない、助かった」


「全く、あなたって魔法に関してはすごいのに。

 どうして普段はここまでポンコツなのかしら?

 それだから他の冒険者パーティーから怪訝にされるのよ?

 今回はたまたま私が通りかかったから良かったけど、少しは日常のことにも関心を持ちなさいな。

 ルイ君も甘やかさないで、少しは厳しくしてあげた方が絶対にいいわ」


「ぽ、ポンコツ……」


 その言葉が心に突き刺さった。

 天才魔術師のプライドを持つ彼にとって、耐えがたい一言だ。

 みるみるうちにアインツの顔が沈んでいく。

 それを見てパナサーはため息をついた。


「もし反省しているなら、少し付き合ってもらえないかしら?」


 パナサーはどこか意地悪そうな笑みを浮かべている。

 嫌な予感がする。




***




 パナサーに連れられてきたのは、近くの洒落た喫茶店だった。

 彼女曰く、この店にはカップル限定のメニューがありとても評判らしい。


 もっとも、彼女は医者一筋の人生だ。

 艶やかな見た目とは裏腹に、パートナーがいるわけでもない。

 つまり前から気になっていたものの、誰とも行けずにいたらしい。

 そんなとき偶然アインツを見つけて、渡りに船というわけだ。



 運ばれてきたのは、巨大なイチゴパフェ。

 カップルメニューというだけあって、そのボリュームは凄まじい。

 二人がかりでも食べきれるかどうか、怪しい量だ。


「アインツちゃん、一緒に食べる?」


「俺が赤い食べ物苦手なのは知っているだろ?

 遠慮せず全部食べればいい。

 それと、いい加減“ちゃん”付けはやめろ」


 パナサーはとても満足げな様子だった。

 聞くまでもないことを訊くのは、テンションが上がっている証拠だ。

 最後の要望は、まるで聞いちゃいない。


 アインツはジト目を向けながら、蜂蜜とマーマレードをたっぷりと入れたコーヒーを啜った。




「そういえば、入院中の患者さんが魔力の扱い方に困っているってこの前愚痴をこぼしていたの。

 どういうわけか、すぐ魔力切れになってしまうみたい。

 とーっても悩んでいるようだったわ」

「へぇ、そうか」


 雑談を装っているが、アインツには分かっている。

 要するに、その患者の相談に乗ってあげてほしいということだ。

 ここで下手に食いついたら、彼女の思う壺である。


「あら、冷たいわね。

 エイルちゃんだったかしら?

 あの子には丁寧に指導しているってルイ君から聞いたわよ?」


 パナサーは何かを探るような目で、にやりと微笑む。

 その肩にいる黒蛇までもが、同意を示すかのようにアインツを睨んでいた。


 アインツは呆れた。


「俺はそこまでお人好しじゃないぞ。

 あいつの件はルイの頼みだし、俺の目的にももってこいだからだ。

 見ず知らずの他人に、無償で労力を割く趣味はない」


 それを聞いたパナサーは、少し残念そうにパフェの中層のコーンを口に運んだ。


「あら、残念だわ。

 その患者さん、アインツちゃんの論文についても質問したいと言っていたのに……」

「ん? 今なんて言った?」


 反射的に反応したアインツを見て、パナサーはしてやったりと笑う。

 ……やられた。




 彼の論文は、魔法学校の卒業時に提出したものだ。

 魔力の生成と使用効率の向上について書かれており、評価は真っ二つに割れた。


 大半の学生や若い魔術師たちには理解されず酷評された。

 一方、一部の老練な教師たちは「前例のない革新的な論文」と絶賛した。

 将来“天才魔術師”として名を残す逸材だと評価され、特別なループタイまで贈られたほどである。



 そんな集大成の論文に関心を持ってくれた者がいる。

 その事実に喜ばない人はいるだろうか?

 こうなれば、どんな言い訳も通用しない。


 アインツは熱いコーヒーを一口飲み、観念した。


「はぁ、分かった降参だ。

 今度時間があるときにそっちに行く」


「うふふ、感謝するわ」


 彼女には日頃から薬を処方してもらっているし、信頼もしている。

 とはいえ、油断すると今回のように巧妙に丸め込まれる。

 喫茶店に来る前に感じた嫌な予感は、案の定だった。



 その後も雑談をしていると、話題は「性格診断」に移った。

 最近、パナサーはその手の遊びにハマっているらしい。


「この前、面白い質問をいくつか見つけたの。

 良かったら相手になってくれない?」


「コーヒーが飲み終わるまでならな」


 アインツが仕方なく了承すると、彼女はパフェの底のゼリーを楽しげに掬った。

 2人の押し問答はこのような感じだった。



 Q. お店で水、お茶、オレンジジュース、コーヒー、正体不明の紫色のジュースが売られている。あなたならどれを買う?

 A. 水。


 Q. 家に強そうな強盗が押し入ってきた。どう見ても勝てそうもない。あなたはどこに隠れる?(魔法で迎撃するのはダメよ?)

 A. 自室のドアの裏。


 Q. ある男の子が誕生日にかっこいい靴を貰った。だけど喜ばなかった。いったいなぜ?

 A. その子に足がなかったから。



 他にもいくつか質問が続いたが、アインツは淡々と答えていった。

 やがてコーヒーを飲み干すと、パナサーは満足げにうなずいた。


「……質問はこれで終わりよ。

 うん、やっぱり信憑性はありそうね。

 全部あなたらしい、ぞくっとするような答えだったわ」

「そうか? だが一体何を診断するテストだったんだ?」


 彼女は「内緒」と言いながら、赤い唇に人差し指を添えた。

 気になるなら、自分で調べたら?

 そんな含みを感じる微笑みだった。


 アインツは少し不満だったが、調べるのも面倒なので追及はやめた。




「あら、そろそろ帰らないとみんなに小言を言われそうね。

 この辺でお開きにしましょうか」


 気づけば、あの巨大なパフェを見事に平らげていた。

 一体彼女の細い体のどこにあの量が収まったのだろうか?



 所持金ゼロのアインツに代わって、今日はパナサーの奢り。

 会計を終えた後患者の相談の件を忘れないよう念を押されながら、二人は店を後にした。






 外に出ると、通りは相変わらずの賑わいだった。

 買い物袋を抱えた人々が、楽しげに行き交っている。

 重そうな荷物を引きずる者もいたが、皆どこか満たされた表情だった。

 正に、平和な日常だ。



 ふと、足元に何かが転がってきた。

 拾い上げると、それは傷んだ青りんごだった。

 ところどころに変色があるが、食べられなくもない。




 全く、ここの人間は綺麗なものばかりを好む。

 まだ使える物でも、少しでも欠陥があればすぐに捨ててしまう。

 そうしてこの都市は繁栄してきたのかもしれない。

 でも、アインツには理解しがたい価値観だった。


 資源は有限だ。

 時には、傷物のほうが新しいものよりも価値がある。

 だが、それに気づく者は少ない。

 ここにいる人たちは恵まれていて本当に羨ましい。



 彼は今日の夜食にしようと、青りんごをポケットの中にしまった。






 ……翌日、アインツはお腹を壊して死にかけた。


<<人物紹介>>

名前:パナサー・グッタス

性別:女性

年齢:「レディに年齢を聞くなんて失礼よ?」

種族:ヒューマン

所属:グッタス医院(医院長)

特徴:(適度に)仕事をさぼるのが大好き

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