荒波
この荒波がお前は見えないのか?
ああ聞こえないね。この揺れが楽しいから。
こんなにも雷がなり、舟は沈んでいく。お前はそれに目をそらすのか?
目をそらすわけでない。しっかり見ている。ぷかぷかと駆け抜ける舟ともがき苦しみ沈んでいく舟。
その差が、沈んでいく舟の違いさ。
人を脅しふるいにかけている番人こそ「牛」の正体さ。
心得ている者にとっては、取るに足らない。神でもなければなんでもない。
まるで迷子になった仔牛のようなものさ。
鼻はならせど、角はない。
取るに足らない存在さ。
牛の仕事もなかなか酷なものだね。
人様には、敬遠されがちだ。
とくに、死を恐怖としてる者たちとっては「牛」から逃れようとするあまりに存在に執着する。
恐怖の存在として記され、隠された存在それが「牛」。
恐怖に執着するのが「ヘビ」。ヘビに寄って、人間たちのなかでは牛は何処かへ行ってしまったようだね。
牛もへびも一時的な体験であり、この荒波の中の雨や雷、海の一部でしかない。
牛が現れたということは、生と死の一体に近い物質世界≒人間界≒666から555・777と変化する。その世界を肉体を通じ見せてくれる。
だから、この荒波に恐れるわけがなくぷかぷか浮かぶゆかいな舟に乗っていられるといわけだ。
牛さんは黙り込んで笑顔で溶け込んだ。
一体となった自分がいるのだ。
そこは、ゆかいな牛の牧場になった。
この牧場は、ヘビも鳥も牛、万物の生物がお互い許容され生きている。
嵐がすぎ、雷がすぎ、また緑の木が一本生えていた。
その木は、リンゴと名付けら智慧の食べ物だった。
ヘビにそそのかされることもなく、永遠の果実となったのだ。
へびになり牛になり、りんごになる。
リンゴの視点から物事をみて体験し、へびの視点で物事を体験し、牛の視点で物事を体験する。
万物の霊長とは、地球の生物の記憶を持つ霊長。
だから私は、ぷかぷか浮かぶ舟できょうも駆け抜ける。
沈んでいく冒険に飽きてしまったのだ。
沈みゆく果てしない冒険をしたければ味わえばいい。それも果てしない冒険の一つだからだ。
その時がくればそんなものすらわからなくなる。
消えるのだ。
恐れるものでもなく、ただ消えるのだ。
空と呼びたければ呼べ。無と呼びたければ呼べ。
文字に表せないのであれば◯とせよ。
けど、それすれも存在させている。
語れない真実を語ろうとするな。
根源を知りたくないときに、何をしても無駄になる。
ぷかぷか浮かぶ舟に乗っていればいいのだ。
沈没した舟すらもプカプカした舟なのだ。
沈没した舟は、肉体のないプカプカした舟なのだ。
だからといって、生命を粗末にすれば当然粗末をあじわう。
起きるすべての出来事はあなたの作り出した残像の舟なのだから。