4 戸惑い
学校がまた始まる。九月になり夏の照り返すような暑さは鳴りを潜め夜は少し肌寒くなってきたこの頃。四ノ宮香はここ最近リップクリームが手放せなくなっていた。建前上は乾燥してきたからと言っているが──
学校が始まるということは授業も再開するということ。つまりどうしても彼女の顔を見ることになる。教室に赴けば全員が着席して待っている。それなりに大学への進学率が高いこの高校では生徒は比較的真面目な子が多く授業がスムーズに進む。
教卓に立ち生徒たちを見下ろす形になると自然と彼女、田中秋子が視界に入ってくる。変わらない覇気の無さ。何を考えてるか分からない彼女と視線が──合わない。
こちらを見ているが交わらない瞳。いつもこちらをじっと見つめてくるというのに。しかし自分から問い質すことなどできるはずもなく授業を始める。背中に視線を感じる。これは彼女のものではない。なぜかそれだけははっきりとわかった。
課題の提出を伝え教室を後にする。物理準備室に戻り一息つく。唇へと指を当てる。どうしてもあの夏の大会、秋子の記録会を観戦しに行った日から唇を意識、無意識問わず触ってしまう。軽く押して何かを思い出そうとしているのか。爪が伸びていると偶にひっかいてしまい皮がむけてしまうのだ。白衣のポケットからリップクリームを取り出してゆっくりと塗る。もっと温かった。はた、自分の思考に戸惑う。一体何と比べているのだと頭を振る。
放課後来るのだろうか。あれから一言謝罪のメッセージ。それ以来一切接触していない。鼓動が早くなるのはきっと怖いからだろう。だが何が怖いのか、知ってしまっていいのだろうか。
廊下が騒がしくなる。放課後がやってきたのだ。グラウンドを見れば練習着に着替えた生徒たちが走っているのが目に入る。元気で自然と笑みがこぼれてしまう。なごやかな気持ちになっているとノックの音が準備室に響く。笑みが消えて緊張した面持ちに変化する。
「はい」
「課題を提出しにきました」
平坦で抑揚のない声がする。失礼しますと田中秋子が大量の用紙を抱えて入ってくる。
「……そこに、置いといてくれるかしら」
なんとか声を絞り出して秋子に促す。彼女は特に何か言うことなく課題を置いてくれる。すると彼女は香の目を真っすぐ見てくる。背筋を伸ばしてあの意志の強い瞳で貫かれる。こくりと唾を飲み込む。何を言われるか、何をされるか。身構えていると
「すみませんでした」
ゆっくりと秋子が頭を下げた。彼女のポニーテルが顔の横に垂れていく。
「えーと何に対しての謝罪かしら?」
本当に何に対してかわからないのだ。今までのこと? それともそれとはまったく関係のないこと? 顔が見れないので推し量ることもできない。しかしたとえ顔を見ていたとしてもあの感情のないかおでは分からないだろう。
「夏休みの……記録会でのことです」
夏休み。それだけで自然と指が唇に触れる。
「突然キスをしてしまったことです。前々からほっぺとかにしてましたけどさすがにあれはやりすぎました」
頭を下げたまま彼女は淡々と述べる。しかしどこか悲痛そうな感じだ。彼女なりに反省しているのだろう。
「そう、ね。あれは驚いたわ」
驚いた。けれど──
「なのでしばらくは香さん、いえ四ノ宮先生には何もしません」
「なに、も?」
何も。それは全てということだろうか。その言葉になぜだか胸が締め付けられる。
「はい。告白もキスも何もです。用もない限り決して話しかけません。この部屋に来ることもしません」
そこまで言って彼女はようやく顔を上げた。そこにいたはいつもと変わらない彼女。何を思って今の言葉を並べたのか。香には分からない。
「それでは課題を届けましたので失礼します」
ぺこりと今度は軽い会釈をして彼女はあっさりと準備室から立ち去ってしまった。あまりにも短い邂逅。物足りなさを感じてしまうのはどうしてだろうか。分からない。まだ、それに答えを出せない。
それから彼女は準備室もとい香に近づかなくなった。課題などの提出も彼女の幼なじみである雪城圭が持ってくる。質問にももちろん来ないが物理の成績は変わらず良く香から特に何か言うことはできずにいた。
これでいいんだ。これが本来の関係なんだと言い聞かせる。生徒と教師の正しい関係に戻った。喜ぶべきことのはずなのに気持ちは晴れないままでいる。
「四ノ宮せんせー。ここでいいですかー?」
「ええ、そこにお願い。ありがとうね」
「はー、これでピアノの練習ができるー」
面倒という気持ちを隠さずに喜ぶ彼に秋子と違って顔になんとも出やすいのだろうと彼女を思い出す。あの感情の読めない顔に何度揺さぶられてきたのだろうか。
「ピアノ頑張ってね。練習は学校で?」
「空いている日は学校で。特にここ最近は学校をなるべく使わせてもらってるんです」
学校の方が設備が整っていたり騒音も気にしなくて済むからだろうと香は結論付ける。
「それじゃ先生さようなら」
彼は弾んだ足取りで準備室を後にした。よっぽどピアノが好きなのだろう。自分の好きなものに対してまっすぐなのは秋子と一緒とまたも秋子が脳裏によぎる。一体どこまで侵食されているのか。失恋の隙間を狙ったようにやってきた彼女は瞬く間にその傷を埋めてしまい心を突き破ってきていた。ためらうことない真っすぐな瞳。あの瞳はとても好きだなと何度も思っていた。ずっと見ていても飽きることがない。
これが恋なのか。わからない──