3 記録会
一学期の終業式。長ったらしい校長先生の話をBGMに秋子はどうしようかと悩んでいた。
このまま夏休みなってしまえば香さんと会えなくなてしまう。せっかくレポートの提出や授業の質問を積極的に有効活用して思いを伝えた。確実にこちらを意識している。ただ押しすぎないようには気を付けた。嫌われるのは嫌だ。
校長先生の話が終わりそうになったところで思いつく。成功するとは思えないけどやってみる価値はあるはずだ。
ホームルームが終わり準備室へと向かう。そこにはコーヒー片手に窓の外を眺める四ノ宮香がいた。秋子に気づくと優しく笑みを浮かべた。その顔に秋子は心臓が握り潰されるような感覚に陥った。
「……先生、扉はちゃんと閉めないと。」
なんとか紡ぎだした言葉はいつもよりほんの少し弱かった。
「夏だから閉じていると暑いのよ。それで田中さん何を聞きにきたのかしら?」
艶やかな声だ。余裕のある、大人の表情。
秋子は感情が乏しい。無、というわけではない。どうにも振れ幅が小さいのだ。しかし、かつてないほど彼女は緊張していた。いつもなら部屋に入って聞かれないようにするために扉を閉じるのだが今日はできない。閉じたら喋れなくなる。そう確信していた。
「あ、あの……。」
酸素が足りない。音もなく口が空回る。
さすがの香も秋子の様子に首を傾げる。いつもであれば傍に寄ってきて告白の一つや二つするのに。
すでに香は毒されていた。秋子の告白に戸惑うことはなく、受け入れていたのだ。
香から近づく。体調でも悪いのかとカップを机に置いた。手を伸ばせばすぐ触れられる距離まで寄る。目が合わない。あの真っすぐで覇気がないのにどこか力のあるあの目と。
しばらく秋子の目を見ているとようやく瞳がかち合った。それが少しだけ心を震わせる。
「香さん!」
「はい!」
秋子の大きな声に反射的に返事をする。こんな大きな声出せたのね、と暢気に考える。
秋子はなぜかすごく恥ずかしかった。どうして、いつも告白してるのに何でこれはこんなにと。
「夏休み陸上の大会見に来てください!」
はあ──、と肺から空気が抜ける。体が沸騰しそうなほど脈打つ。お願いと、香りの目をじっと見る。
香は秋子の必死な様子に面食らった。いつもどこか飄々としているのに今はスカートを強く握って皺ができている。見たことのないギャップにやられたのか香は
「いいわよ。」
そう言ってからはっと気づく。私は何を──。そう手に口を当て下を見る。すぐに今のは違うと訂正しようと顔上げた。でも上げなければよかったと後悔した。そこには少ない表情筋で、嬉しい、その感情を精一杯表現している秋子がいた。年相応の子供たちと比べれば拙いものだが普段の彼女を知るものであればそれがどれほどの破顔で家族でさえ見たことのないものであるのか。
「──ありがとうございます! これ私の連絡先です。」
一枚のメモを渡される。事前に準備していたのだろう。あまりの衝撃に素直に受け取ってしまっていた。香が受け取ったのを確認するとくるりと背を向ける。
「香さんにかっこいいところ見せます。だから、来てください!」
たっ。その床を蹴る軽い音とともにポニーテールを揺らし秋子は消えた。残された香は呆然と立っているしかなかった。そして小さく
「……あついわ。」
頬に手を当てた。
夏の日差しが容赦なく照り付けてくる。アスファルトは揺らめいており気温の高さをうかがわせる。香は今陸上競技場へと向かっている。
あの終業式の日、渡された電話番号へかけ日にちと時間、それと開催場所を聞いたのだ。電話での会話は思ったよりもあっさりしていた。用件以外は離さず最後に秋子が告白をして終わった。何度か電話をしたりメッセージアプリでやり取りをしたが特に饒舌になることもなく秋子らしいものだった。
香の服装は薄紫のシャツにひざ下まである白の花柄レース。足はヒールサンダルだがあまり高くはない。片耳にはパールのイヤリングが揺れている。
会場に着くと様々な学校の選手が目に入る。観客席には人は多くなく保護者と思しき人たりがちらほらといるだけだ。
観客席の目立たない場所に腰かける。顧問でもない香がいては変だからだ。秋子も香のことを考えて告白をしている。それなら、教師で大人である香が配慮しないはずがなかった。
400までは時間があるのでそれとなくいろんな競技を眺める。誰も均整の取れた体つきで努力を重ねてきたのだなと自然と全員のことを応援していた。自分でもこんなに熱中するとは思っておらず400の招集がかかってようやく時間を忘れるほど夢中になっていたことに気づく。
スタートラインを見つめる。そこには明るいブラウンの髪を後頭で結んだ秋子がいた。走者がそれぞれの位置に着くと合図がかかる。全員が構え静寂が訪れる。緊迫した会場に胸の前で手を握る。
乾いた音が響く。選手が一斉に走り出す。秋子に目が自然と行く。教室では見ることのない真剣な表情に魅入ってしまう。最後のコーナーを超えると走者同士の距離が縮まる。もうゴールはそこだ。ぎゅ、と胸元を強く掴む。
400m走は意外にも短い。一分かからず最初の選手が白線を超えた。
全ての競技が終了して香は観客席の一階、トイレや休憩室がある。そこの入り口から離れた人から見えにくいところにいた。
「香さん。」
秋子が香の前に立つ。上は高校のジャージの長袖をまくっており下はユニファームのままだ。汗のせいか髪の毛が頬に張り付いている。
「お疲れ様。」
「ありがとうございます。本当に来てもらえるなんて、香さんのためだけではないですけど、頑張りました。自己ベストでした。」
淡々とした物言いだが競技中の真剣な顔を思い出して頑張ったんだと気づくと頭を撫でていた。ヒールのおかげで腕をそこまで伸ばす必要はなかった。
「頑張ったのね。」
香からのアクションに固まる。応援に来てもらっただけでもとてもうれしいことなのにこれはあまりに予想外だった。音が消え香の顔しか見えない。柔らかい優しい笑みで何かがこみあげてくる。
「……香さん。ご褒美ください。」
撫でる手首を掴む。どうしようもない劣情が湧き上がる。走ったせいか、日差しの熱さにやられたのか。
「ご褒美? えっと、どういう──」
その先は続かなかった。口がふさがれてしまった。柔らかな感触。けれどあまり手入れをしていないのかすこし乾燥していた。舐めたりしているせいなんどろうなと意外と冷静な思考だった。
キス。目の前には秋子の、香の、目が自分を映し出している。お互い同時に瞼を下した。
どれくらい触れ合っていたのだろう。一秒。それとも一分。二人には分からない。ただ少し形が変化した唇が元に戻った時どちらとも惜しいと寂しさを感じた。