2 出会い
短編の2です
「オンユアマーク。」
夕刻。橙色の日が照らす中グラウンドのスタートラインで秋子はクラウチングスタートの構えを取る。
「セット──ゴー!」
風を感じる。後ろ足で地面を蹴り前へと突き出す。それを繰り返す。
単調な動きだからこそ実力差が明確に出る。さらに精神の状態も直結してくる。ただ白線を目指す真っ直ぐな競技。体が白線に届く。それと同時に教師がストップウォッチを止める。
100メートル走り終え力が抜ける。酸素が口から大量に溢れ出し新鮮な空気を求める。少し遠回りに歩き教師からタイムを聞く。
「──自己ベストと同じだ。いい調子だ。」
「そうですか。計測ありがとうございます。」
「だが、どうして突然100を測って欲しいなんて? 400のタイムが縮んだか?」
秋子の種目は400メートル。100だと短すぎ800だと長すぎた。
「何も考えずに済むので。」
「ん? よく分からんが悩みがあったら大会までにどうにかしろ。あ、部活関連だったら聞くがそれ以外は無理だからな。400の選手の一人だからな頼んだぞ。」
背中を思い切り叩かれる。男の教師でそれなりの体格の良さなので当人にとってそれほど強くないにしても秋子にとってはよろけてしまうほど。
「おっと、悪い。とりあえず400の練習に戻れ。計測もやるんだろ?」
「そうです。鳴子──菅さんと競いますので。失礼します。」
軽く頭を下げ鳴子の元へと向かう。黒髪のショートカットの鳴子がこちらに気づく。癖毛のせいであちこちに跳ねた髪が印象的だ。
「突然100測ってどうしたの。」
「測りたくなって。」
特に理由にもなってないがふーん、そう。とさして興味がなかったのか練習するよ、と暇なく練習が始まる。計測もあるのでそこまでハードではない。軽く200を走ったりと体を温める。
ある程度お互いの体が温まったところで計測を始める。秋子と鳴子の実力は拮抗している。だがどちらも勝負をするのは己とだった。
秋子は走るのが好きだ。ただ真っ直ぐとゴールへと向かうのが幼い頃から性に合っていた。何かに一直線に進むのが好きなのか一つのことに取り組む、目標が定まっているものは好きだった。なのでゲームも一つのものを完璧になるまでやり込んでいた。
ゴールまで少し横並びの状態。ラストスパートをかけていく。そして僅かに鳴子がゴールに到達した。
「──自己ベストに届かず、ね。」
記録を見て納得がいかない様子の鳴子に特に落ち込んだ様子もない秋子がクールダウンにストレッチをしている。
「それにしても今日は調子が悪いみたいね。」
秋子の自己ベストは鳴子よりも早くそれ故彼女は少し心配した声音で聞いた。
「100測ったせいかも。」
そう言っても鳴子は納得しない。それはもちろんのこと。以前大会当日に足全体に擦り傷を作りながら当時の自己ベストをたたきだしたのだ。秋子自身も100メートルを走ったせいとは思っていない。
ちらりと校舎の一室の窓を見る。鳴子もそちら見るとそこは物理準備室だった。
「誰かいるの?」
「……誰も。たまたま見た先がそこだっただけ。」
「ふーん、そう。」
特に気にすることも無く彼女は流してくれる。部活以外では関わりがないので気にならないのだろう。さらに文系なので物理準備室ということもきっと知らない。その部屋に香さんがいることも。
初めて見たのは一年生の物理基礎の授業。一目見て綺麗な人だと思った。口から紡ぎ出される声も澄んでおりいつまでも耳に脳内に染み込んで忘れなかった。それもあってか物理基礎の授業は成績が良かった。この時はその程度。ただ綺麗で好きな先生。それだけだった。婚約指輪をしており結婚するのかお幸せにと祝っていたほどだ。
二年生になって文系、理系の選択で迷わず理系の物理を選択した。元より数学が好きだったこともあり後悔は少しもなかった。そして運良く香さんが担当になった。教科係を男子生徒から勝ち取り香さんに名前を覚えてもらうまでになった。
そして教科係になってすぐ四月の終わり物理で分からないことがあったので質問のため準備室へと向かった。行くと扉が少しだけ開いていているかどうかの確認のためそこから覗いた。準備室の真ん中立っている女性、香さん。いてよかった、そう思ってノックしようとしたところで気づく。香さんの肩が震え婚約指輪を強く握り涙を落としていることに。
とても喜びの涙に見えない。なら、その意味は──。
そこまで考えて秋子の体は勝手に動き出す。音を立て扉を開ける。
「失礼します。」
「──た、田中さん!」
慌てて香が目を拭い秋子を見る。秋子は後ろ手で扉を閉めると香へと近づく。
「何か授業で分からないことでもあった?」
あった。でも今聞きたいことは、言いたいことは。
「先生。」
迷いはない。ただもう前を向いて突撃することしか知らない。
「好きです。」
するりと吐き出された言葉に驚くことはない。そうだ私はずっと四ノ宮香さんが好きだったんだ。
「と、突然どうしたの?」
困惑するしかない。突然告白をされたのだ。もちろん混乱しながらも教師としてか、と自然と思ってる。もしかしてと、泣いているところを見られて慰められているのかと。そして秋子も自分の気持ちが伝わっていないことに気づく。
「四ノ宮香さんが好きです。」
先生としてではない。それをはっきりと伝える。香も肩をびくりと跳ねさせ気づく。それだけで今は満足する。
「今日の授業で分からないことがあったので質問いいですか?」
本来の目的を果たさなければ。
「え、ええ。そ、それでどこが分からなかったのかしら?」
秋子の切り替えに戸惑いながらも質問に答える。ただどうしても先程の真っ直ぐな目と迷いない言葉で紡ぎ出された告白が頭の中を支配する。泣いているところを見られた。その慰め? しかし、その考えはすぐに打ち消される。あんなはっきりと名前を呼ばれてそんなものと思えるわけがなかった。
「──ありがとうございました。」
ぺこりと頭を下げる。特徴的なポニーテールが首にかかる。
「これぐらいならいつでも聞きにきてもいいから。」
教師として笑顔を浮かべる。頼られるのは嬉しいのだ。
秋子は部屋を出る際くるりと振り向き香を見る。まだ何かと目を見たのが間違いだった。その目は先程と同じものだった。
「四ノ宮香さん、好きです。忘れないでください。」
忘れるなんて無理だ。こんな真っ直ぐ見られて。
「それでは失礼しました。」
扉が閉められ一人取り残される。頭の中に別れを告げてきた婚約者はもういなかった。
部活は既に始まっていた。前もって先生に質問すると連絡していたので特に怒られることもなく基礎練習に加わる。
「いい事でもあったの?」
鳴子の隣に行くとそう聞かれる。いい事? それはもちろん。
「あった。目標ができた。」
ふーん、そう。とすぐに興味を失くす。
まずは先生に私の好意を知ってもらう。覚えてもらう。私を認識させる。
そう決意を抱いて二ヶ月ほど進展と言えばさしてない。他人の気持ちなど分かるはずもなくただ相も変わらず香さんに告白をするだけだ。この間は桂木先生に取られてなるものかとほっぺにキスをしてしまった。
と意外と反省をしていた。部活が終わり制服に着替える。登下校は制服と定められているので面倒くさいが制服を着なければならない。
「そういえば。あれ、目標は達成できそう?」
「目標? タイムのこと?」
首を傾げる。鳴子は知っている。秋子は特に目標タイムは定めていないことを。ただ少しでも早く、それだけを目的に走っていることを。
「四月に言ってたじゃない。目標ができたって。」
驚く。なぜなは自分に関係ないことはほとんど覚えないのだ彼女は。
「達成はまだかな。ただ必ず叶えてみせる。どれだけかかっても。」
ふーん、そう。と彼女は更衣室から出ていく。後を追うように秋子も出た。
まだ時間はある。絶対に落とす。
決意を胸に鳴子の隣を歩く。しかし不安が常に付き纏う。でもそれさえも香を思ってのことなのでわりと楽観的に過ごすのだ。