2-6
「ニブルムは何と?」
アスランはまっすぐとクラウスを見据え、問いかける。
精霊の言葉が聞き取れないアスランだが、クラウスの言葉やマリの様子から不穏な様子を既に感じ取っており、既に眉間にしわを寄せていた。
ニブルムの話したことを知ればアスランが怒ることが目に見えており、クラウスはとっさには答え倦ねた。
どう伝えるか言葉を探すクラウスに追従するように、不安そうな表情のマリも黙っていた。
そんな沈黙を破った声は別の場所からだった。
「悪霊が現れることを、我々はある程度予測しておりました」
それまでほぼ黙して扉の前に立っていたヘルムートは、おもむろに口を開いた。
クラウスが予想した通り、アスランは厳しい表情でヘルムートへ向き直った。
「そんな話、今まで聞いておりませんでした。そのことを知っていて……俺や、当事者である聖女にまで今まで黙っておられたと?」
鬼気迫ったアスランに対し、ヘルムートは鷹揚にうなずく。
「あくまで予測であり、無暗に伝えることは憚られる内容だ。ニブルムの話だけではクラウス卿も把握しきれておりますまい。きちんと話しましょう、二人とも掛けなさい」
「……」
ヘルムートの委細を説明するという言葉に、アスランは尚を不機嫌さは隠せないではいたものの、先ほどまで座っていたソファに乱暴に腰を下ろた。
そんなアスランの横に座る気になれないでいたクラウスだったが、アスランは胸の前で腕を組むとクラウスへ座るように視線を寄越す。
ヘルムートの手前もあり、仕方なくクラウスもゆっくりとソファに座った。
ヘルムートは相変わらず部屋の入口に立ったまま、二人が座るのを待っていた。
「あの、ヘルムートさん」
マリが声をかけ、自分の隣りの空いたソファを叩いて示したが、ヘルムートは首を横に振っただけだった。
「まずは謝罪を。大変申し訳ありません」
「えっ! あの」
ヘルムートが深く頭を下げたことにマリは慌てた。一方、クラウスとアスランは驚いた顔でそれを見つめていた。
ヘルムートは滅多に人へ謝る立場でもなければ、謝罪を必要とする事態を起こさないように手回しの出来る男だ。そこまで深く人へ頭を下げる姿を、二人はついぞ見たことはなかった。
「ヘルムートさんもなんとかしようとしてくださってたみたいですし……それに、クラウスさんとエミールがなんとかしてくれましたから」
「ええ、彼らがいたことは幸いでした。生身の人間で、悪霊をどうにか出来るのは彼ぐらいでしょう」
ヘルムートの視線が一瞬クラウスに注がれるが、一つ瞬きをすると再び三人を見渡す。
「悪霊は通常の精霊には近づきません。ですので、ニブルムが傍にいる間は安全でした。今日ニブルムには私の元に来てもらうために、この館に予めそれと同じ働きをするものを置いてきていたはずでした。結果はこうなりましたが」
「同じ働きをするもの……?」
「それについては、ニブルムが戻ったときに。先に本題を済ませましょう」
最初よりかは落ち着いたアスランの疑問にヘルムートは答え、続けて話を始めた。
「卿らは不思議に思ったことは? 100年……いえ、250年の間に聖女がたった一人しかいなかったことを」
教会の歴史を知るものなら、誰もが一度疑問に思うことだ。
聖女となりえる女性の魔法使いは、そこが空位の間は存在していなかった。魔法使い自体が希少とは言え、過去聖女が存在していた以上男しか魔力を持ちえないわけではない。
百年前には確かに聖女が存在しており、教会には精霊を従えた肖像画も残されている。
二百年近い間、空位の時間があった理由が明確に語られたことはない。
アスランが険しい顔で口を開く。
「……魔力を持って生まれた女性は、すべて悪霊に殺されていたと?」
「百年前の聖女を除いて、そうであろうと私は考えております」
悪霊は一般的にお伽噺の存在であり、またその悪霊が魔力を持つ女性を襲う理由も定かではない。
しかし先に悪霊と遭遇し、マリへの明確な殺意を見ていたクラウスとアスランには、ヘルムートの説は納得出来るものだった。
「殺されてるってわかってて、放っておいたんですか?」
マリが思わずといった風に、大きな声をあげた。
クラウスが驚き目を丸くしている横で、アスランが少し困った顔をした。
「違う、そういう意味ではない。どこに魔力を持った女児が産まれて、いつ現れるかわからない悪霊を追うのはほとんど不可能だ。ただでさえ魔法使いの素養は判別が難しい」
アスランがヘルムートに代わりに話の補足をすれば、マリは納得はしたものの心の蟠りは解消しきれていないようで、複雑な表情をして考え込んだ。
この世界の常識への認識、そしてその様子から確かに彼女は別の世界から来ているのだと、クラウスは改めて思い知らされる。
「魔法、使えるんじゃないの……?」
ぽつりと、マリが呟くがアスランは首を振る。
「魔法を使うには魔法陣が必要だし、魔力を扱うのには訓練がいる。それよりも、もっと簡単で確実な方法がある」
「もっと簡単……精霊?」
「教区内で生まれた子どもは五歳から七歳の間に、聖体拝謁という儀式を行います。これを見ることが出来れば魔法使いの素養があるとされます」
「……精霊じゃなかった」
ヘルムートの説明と答えに、マリが何とも言えない顔をした。それを見たヘルムートは、僅かにだが表情をやわらげた。
「精霊は魔法使いよりもさらに希少ですので。まあ、聖体はほぼ精霊のようなものです」
「何が見えるの?」
見たことがないマリが疑問をそのまま口にする。
口にはしないまでも、それはクラウスも以前から持っていた疑問だった。聖体拝謁について内容は知っているものの、生まれた時より精霊と契約していたために彼がそれを受けたことはない。
これまで教会でそれなりに過ごしてきたが、何故か彼がそれに関わることもなかった。
アスランが答えていいのかとヘルムートへ視線で問えば、ヘルムートは頷いて返す。
「……灰だ」
「灰」
反芻したマリが不思議そうに首を傾げる。
クラウスも顔色を変えないまでも、同じように心の中で不思議に思う。単純に考えれば精霊の灰かと思うところだが、死を迎える精霊は後になにも残さないからだ。
『戻りました』
そんな何とも言えない雰囲気の中、消えた壁の方からニブルムが再び姿を現した。
ニブルムはそんな部屋の空気も気にせず、ヘルムートの足元へと部屋を横断する。
「どうだった?」
『器ごと持ち去られていた』
ニブルムの言葉に、ヘルムートの眉間に強くしわが寄せられた。
厳しい表情になったヘルムートの様子によからぬことが起きたことに気づきつつも、アスランは自身の疑問を口にする。
「それで、悪霊が近寄らない手段とは?」
「件の聖体です。しかし、設置したものは消えていたようです」
ヘルムートの簡潔な答えに、アスランが目を見開き驚く。
「希少なものだったはずでは?」
円筒状の器に収められている聖体は、教会では全て合わせて十二個存在する。拝謁を受ける子供の年齢に幅があるのは、その数の少なさから二年周期で各教区を巡っている為だ。
その十二の内の一つとなれば、教会にとって大変な出来事となる。
聖女を守る為とは言え、このまま行方不明となれば枢機卿といえど責任は逃れられないものだろう。
「ええ。ですが、悪霊を遠ざけるのであれば精霊よりも効果がある」
『……悪霊はあれには近づきません。断言してもいい。ですから、他の手で持ち去られたと考えるのが妥当でしょう』
持ち去られた、という単語をきいたクラウスの脳裏に、今日この館で不自然な場所にいた人物がふと浮かぶ。
「……猊下、ここに来る途中庭から戻ってくるリヒャルト殿に会いましたが、彼は何かこちらに用事が?」
クラウスの言葉に、表情の動きは少ないまでもヘルムートは訝しそうな顔をした。
「儀典室の者でもない者に、こちらへの職務を与えた覚えはないですな。庭……ふむ」
ヘルムートがニブルムへと視線を向ければ、ニブルムが頷く。
ヘルムートは思い悩むように瞑目した。
「戻り次第、リヒャルトには確認しましょう」
「リヒャルト、とは?」
アスランが声を上げる。
「リヒャルト・ゾルゲ。教会の魔法使いで、確か南の方の貴族の出だったはずです」
アスランとマリは聞き覚えのない名前に訝し気にしていたので、クラウスは簡単に説明した。
もともと周りにそれほど意識を向けないために、クラウスが客観的に語れるリヒャルトについて知る情報はそれぐらいだった。リヒャルトが教会に来た頃は話すこともあったが、クラウスから積極的に話しに行くこともなく、やがて疎遠となっていった。
リヒャルトが聖体を持ち出した者だと仮定すれば、今日の常にない彼の様子も不思議ではない。
しかし、リヒャルトがそうする理由が、クラウスとそれ以上に彼を知るヘルムートにさえも予想だにできない。
「クラウス卿」
「はい」
考えに耽っていると、突然ヘルムートに名を呼ばれクラウスは体を一瞬びくりとさせながら応えた。
「しばらくはこちらの館に住み込みで、台下の護衛につくよう命じる。通常の聖務は、他の者へ回すようにオルヴァンにも話は通しておく」
「……わかりました」
持ち運べる聖体が持ち出された今、それが不可能な精霊をそばに置くことが確実である。クラウスはおまけで、ナルーシャをここに連れてくるようにと暗に命じられたのだと理解した。
意味を理解しても、教会指導者の言葉を跳ねつけることはクラウスに出来ない。
そもヘルムートの命令は合理的なもので、断るべくもない。
枢機卿の精霊であるニブルムが、常に彼女の傍にいることは難しい。今はまだよくても、この先ずっととなればヘルムートの聖務に支障を来し、おいては教会全体への支障となる。
問題があるのは、クラウス側だけの話だ。
「え、と……取り敢えずその悪霊は今クラウスさんが倒してくれたから大丈夫ー……じゃないんですか?」
「悪霊が一体とは限りませんし、聖体を持ち出した者の正体と理由もわからない。そもそも、悪霊を滅ぼす明確な方法を我々には与り知らぬところです」
ヘルムートの言うことは一々もっともで、マリはしょんぼりと口をつぐむ。
クラウスは魔力を纏わせた剣を振るいこの場から退散させたが、悪霊を倒したのかと問われれば、頷くことはできない。
精霊を滅ぼす方法を知り得る者はいない。
「それは、精霊王にのみ許された御業です」
ヘルムートの言葉に、クラウスは強く口を引き結んだ。
クラウスは一人館をあとにし、オルヴァンの執務室へ向かう。
今回の異動によって、確実にヘルムートとニブルムに接する機会が増える。それだけでもクラウスの気は重いことに加えて、目下一番の問題は相変わらずナルーシャのことだ。
アスランにまで話が伝われば、ややこしくなるのが目に見えていた為クラウスは口をつぐんだままでいた。
だが、流石にこの状況で黙っていられるはずもない。
ヘルムートと二人になったときに、きちんと話を切り出さなくてはならない。
何より、精霊王なら悪霊を消滅させられるというのなら、鍵となるのはナルーシャのはずだ。
ナルーシャの正体と人の命とを天秤にかけ、そこで自分たちのことを選ぶほどクラウスの心は強くはない。そして、異世界から来て戸惑いながらも生活をする少女を、そんな風に見捨てることも出来ない。
纏まらない考えに頭を悩ませながら歩いていれば、気づくとオルヴァンの執務室が目の前だった。
しばらく扉の前で立っていたが、一つ息をついてノックをする。
「先生、いらっしゃいますか?」
オルヴァンは留守のようで、ノックに返事はない。ただ、奥から精霊二体の気配だけがある。
仕方なくクラウスは扉を押し開け、主が不在の部屋へ足を踏み入れた。
先ず目に入ったのは光だった。夕焼けも近い窓から漏れる赤い陽光の中、懐かしい青い色がはためいていた。
「クラウスおかえりー」
青い光がふわふわとクラウスに近づき、その肩にとまった。
クラウスはしばらく声を出せずに、その光をじっと見つめていた。肩に止まった青い色の翅は、見慣れた蝶だった。
「ナルーシャ……?」
「びっくりした?」
名前を呼べば、いたずらが成功したという風にくすくすと笑いながらナルーシャが応える。
「……はい、びっくりしました」
翅を押しつぶさないよう、そっと蝶を両手で包み込んだ。