2-5
「城壁って何のためにあるの?」
「最近の大都市では基本的に作られている。ただ、ここは平野の端だからな」
「へぇ」
マリの質問から、アスランによる城壁についての説明が続く。
王宮勤めであるアスランの話す内容は、クラウスも知らないことも多く、メモを書く手を止めてマリと一緒になり話に聞き入った。
話が一段落つくと、アスランがそんなクラウスに気づき視線を向ける。それにつられてマリもクラウスの方を見た。
「あっ」
そこでクラウスがずっと黙っていたことに気づき、マリは困った顔をした。
しばらく話からはぶられていた形のクラウスに気を使ったマリは、クラウスに言葉を投げかけた。
「クラウスさんは、どこかおすすめのスポットとかあります?」
「私のおすすめですか?」
そんなマリの質問は、今まで考えもしなかったことだった。
クラウスは口元に手を当てて考える。
また黙り込む形になったが、アスランもクラウスの答えが気になるのか急かすことはせずに話し出すのを待っていた。
「大聖堂の塔の展望室から見える夕暮れは、好きだと思います。元々はナルーシャに連れられて行ったのですが」
夕暮れ時に連れられて高所から見た街は、真昼よりも暗く、鮮やかな赤に染まっていた。
薄暮の空は鮮やかな紫色で、地平線に沈む赤い光に照らされたナルーシャの青い翅が羽ばたく動きに合わせて不思議な色に輝いていた様を、クラウスは昨日のことのように思い出せる。
懐かしさとあの日の美しさに、クラウスは思いがけず微笑みを浮かべた。
「……ちょっとエミール、クラウスさん笑うだけで顔の威力すごいんだけど」
「精霊と話してるときは割と笑っている。気にするな」
気に入らない、というふうにアスランは吐き捨てるように言う。
「なんで?」
身を乗り出して話す二人の声は小さく、クラウスの耳には単語がとぎれとぎれにしか聞き取れなかった。
自分の名前は聞こえたが、何を話されているかまではわからない。アスランへ問いかけるように視線を向けたが、アスランはため息をつき、
「気にするな」
と、一言答えただけだった。
「ところでそのナルーシャさん、という方は?」
マリとしては初めて聞く名前に対し、当然の疑問を口にした。
今まで常に傍にいたナルーシャを知らない者がいなかった為、そんなマリの反応はクラウスには新鮮だった。
「私が契約している精霊です。青い蝶の姿をしています」
「へえ、ちょうちょですか。いろんな見た目があるんですね」
魔法使いと同様に希少な存在である精霊を、クラウスもそう頻繁に見るわけではない。
身近な生き物の形をとることは知っていたが、今の指摘で今まで見た精霊は確かに見た目が被っていなかったなと思い出す。
「ここって、魔法と精霊がいるファンタジ―世界じゃないですか。やっぱり、人を襲うモンスターとかいるんですか?」
クラウスが首を傾げたのを見て、マリも同じように首を傾げる。
疑問の解決の為、二人はアスランへ視線を向けた。
「……そのファンタジーやらモンスターやらの定義がわからないんだが。どういったものを指すんだ?」
呆れ顔のアスランの指摘に、マリはあっと声を上げた。
「ファンタジーっていうのは気にしないで。モンスターっていうのは大きいスライムとか、ドラゴンとか? そういう魔法を使って人を襲う怪物」
スライム、ドラゴンとクラウスが聞き慣れない言葉を反芻する。
「……その名前に聞き覚えはないですね」
「いないのかぁ」
ほっとしたような、しかしどこか残念そうなマリを見て、アスランがぽつりと呟いた。
「……魔法を使って人を襲う怪物なら、名前だけはある」
「ああ、一つだけありますね」
クラウスがアスランの言葉に頷くのを見て、びくっとマリは顔を強張らせる。しかし、好奇心が勝ったのかマリは二人の方へ身を乗り出した。
「やっぱりいる?」
「いえ、子供のおとぎ話の存在です。私も見たことはありません」
クラウスがその名を口にしようとしたそのとき、突然部屋に風が吹いた。
その異変にクラウスとアスランはすぐさま立ち上がり、臨戦態勢をとる。
「え、何」
アスランが戸惑うマリのすぐそばに立ち、剣の柄に手を置いて周りを警戒するよう見回す。がたがたと鳴り出した窓は締め切られており、風が外からのものではなく、内部で発生しているのが判る。
魔法使いか――咄嗟の思考は、ある気配を感じたことで打ち消される。
クラウスとアスランは何もない壁の方を見た。
「精霊?」
アスランがつぶやくと同時に、壁から現れたのは鳥のような生き物だった。
鷲のような頭と羽を持ち、獅子の体を持つその生き物は、猛禽の目でじっとマリを見ていた。
精霊は実在する生物の姿を形取る。
この世にはあり得ない姿に、全員が息を呑む。
「……っ!」
アスランが動いた次の瞬間、クラウスへと立つのが精一杯の突風が吹きつけた。
クラウスは踏ん張り顔を守るよう腕を掲げたが、あまりの風に思わず目を閉じる。
ふっと急に風が止み、再び目を開けるとさっき立っていた場所に二人の姿がなかった。
咄嗟に吹いた風の下手へ視線をやれば、マリをかばうように抱えたまま、壁にもたれ掛かるアスランがいた。
クラウスに吹き付けた風が、二人を襲った余波に過ぎなかったのだと気づく。
「マリ様!」
『……王…………よ』
精霊の立てた音に振り返る。
猛禽の目に明確な殺意を感じて、クラウスは思わず身を震わせる。
精霊の喉が鳴き声のような音を響かせているのに、クラウスにはそれが言葉として聞き取れない。初めてのことに当惑しながらも、二人の様子をちらちらと窺う。
痛みに顔をしかめたアスランだったが、マリを精霊から隠すように壁側へと身体を寄せさせていた。
「アスラン、剣を!」
叫び、クラウスは剣をよこすように手を伸ばした。
精霊を相手にするとなると、アスランは戦力にならない。その腰の剣さえ、そのままでは精霊の体を素通りする。
「ちっ」
「んぎゃっ!」
舌打ちしたアスランは、マリの潰れたような声も無視して彼女を自身のマントで包み無理矢理屈ませた。
腰に佩いた剣の柄に手をかける。
「クラウス、なんとかしろ!」
怒号とともに、鞘から抜いた剣がクラウスの方へ床を滑らせるように放り込まれた。
「言われなくとも」
足元に落ちた剣を拾うと、弾かれたようにクラウスは走り出す。
精霊はクラウスの存在を気にも留めず、ただマントに包まれたマリの方だけを見据えている。
次の魔法を繰り出そうとしているのか、再び風が渦巻いた。それが放たれれば、マリを庇うように身体を呈して立つアスランがたたでは済まない。
剣を両手で握り直す。
精霊を剣の間合いへ捉えた瞬間、クラウスは剣へと魔力を込め、握りしめた剣を振り上げた。
不格好に振るった剣は、動かず無防備な精霊へ刃を滑り込ませた。
クラウスの魔力をまとったそれは、音も手応えもなく精霊を二つに切り裂く。
『……!!』
猛禽の目が、クラウスを見る。
何かに驚いている気配はわかるが、相変わらず何を言っているかが聞き取れない。
叫びのような音を出したのを最後に、その姿はすぐさまかき消えた。
精霊の気配がなくなり、室内に吹いていた風が収まる。まだ辺りに注意を払い厳しい顔を崩さないアスランとマリの傍へ、クラウスは駆け寄った。
「……悪霊、か?」
「そうなのかも、しれません」
クラウスがついさっき、名を口にしようとした怪物。
おとぎ話に描かれる人に害なす精霊。
存在を謳われながらクラウスもアスランもついぞ見たことがなかったそれは、この世界で唯一モンスターと呼べるものだった。
「怪我は?」
先ほど壁に叩きつけられていたことを思い出し、クラウスが問う。アスランは確かめるように肩を前後に動かし、すぐさま顔をしかめた。
「痣にはなりそうだが、動けないほどじゃない。お前は?」
なにもないとクラウスが首を横に振れば、アスランはそうかと頷く。
「なになに! モンスターはいないって今言ったじゃないですかぁ!」
もぞもぞとマントからマリが顔を出したかと思えば、床に臥せったまま叫んだ。
そんなマリの姿が気の毒になり、クラウスは申し訳ない気分になった。
アスランも不憫そうに彼女を見たが、すぐにいつも通りの表情を作った。
「お伽噺の存在だ……実在していたようだが」
「今いたよ、私狙われてたよ……なんで私?」
マリの言うとおり、彼女が狙われていたことは二人も気づいていたことだ。
「聖女だからか、異世界の人間だからか」
「それどっちも私」
アスランの答えに、マリはがっくりと力を抜いてうめき声のようなものをあげる。
一度溜息をついたアスランは、跪くとうずくまったままのマリへと手を伸ばした。
「俺が絶対に守る、だから落ち着いてくれ」
(ナルーシャがいたら、キザだと言っていただろうな)
そんなことを思っている場合ではないと思いつつ、そんな風に考えたのはクラウスだけではなかった。
マリは赤く染まった顔を両手で包んで、アスランをぼうっとした目で見上げた。
「あざといのに今それ言われると、エミールがかっこよく見えてきた……生真面目面倒くさい人なのに」
「どさくさに紛れて喧嘩を売っているのか?」
半眼になって面倒臭そうに応えるアスランの様子は普段のものだ。
そのことにマリは安心したようで、差し出された手に捕まって立ち上がると、そのままアスランにソファの方へを腕を引かれていく。
クラウスもしずしずとその後ろに続いた。
「失礼します、台下」
マリがソファへ座ろうとした瞬間、扉の向こうから男性のものと思われる声がかけられた。少しくぐもっていて、誰かまでは判別できない。
聞き慣れない聖女への敬称の呼びかけに、マリはとっさには反応できなかった。
「君のことだぞ」
「あ、はい……どうぞ!」
思わずアスランが声をかければ、マリははっとして慌てて部屋の外へ返事をする。
扉が開くより先に、扉をすり抜けて狼が部屋へと入ってきた。
さっきの襲撃もあり三人は一瞬狼狽えたが、すぐにそれが見慣れた精霊の姿だと気づく。
「ニブルム?」
『はい、そうです』
クラウスの呼びかけに、狼の精霊ニブルムは人のように頷き答えた。
やおら扉が開かれて、入ってきた人物はその契約者である枢機卿ヘルムートだった。厳格さを表したような常の生真面目な顔に、普段ともまた違う厳しさがあった。
彼が部屋に足を踏み入れるのと同時に、クラウスとアスランはすぐに略式の礼をとる。
「私に気にせずにお掛けなさい」
ヘルムートにそう言われるも、枢機卿を立たせたまま座るわけにもいかない。取り敢えず礼を解いたアスランは、混乱して立ちつくしているマリをソファへ座らせた。
ニブルムは部屋を見渡し、三人に構わず先ほどの精霊が現れた場所へ進んでいく。
『やはり悪霊が出ましたか』
「やはり……?」
クラウスの声に応えるように、ニブルムは振り返った。
『我が気配が聖庁、教会内になかったことは?』
怪訝な顔をしたまま、クラウスは頷く。
『マリ様が悪霊に狙われる可能性について懸念していましたので傍にいたのです、王宮にいる間から』
「えっ」
その言葉に、マリが思わず声を上げた。
昨日ニブルムが見つからなかったことにクラウスは納得はしたものの、たった今起きたことを考えれば新たな疑問が浮かぶ。
「なら、今日に限って何故離れたのですか? あなたの懸念通りマリ様は襲われました」
クラウスとしては珍しく強い語調の言葉を、ニブルムは粛々と受け止めた。
『おっしゃる通りです、申し開きもございません。ヘルムートに話があり離れておりました。とはいえ、悪霊が入れないように仕掛けは施していたはずなのです』
ニブルムは再び、先程の精霊が入ってきた壁に向き直る。
『それを確認して参りますので、改めてのお叱りはその後に。ヘルムート、あとを頼みます』
ヘルムートが答えるのを待たずに、ニブルムは壁を通り抜けて姿を消した。
部屋には、それぞれまた違った険しい顔をした四人が残された。