2-1 見える世界
「……痛い」
朝の目覚めは最悪だった。
国を出ていこうと真剣に考えるクラウスを他所に、居慣れた場所に帰ってきて安心したのか、気がつくとナルーシャは寝入っていた。
腕の中で寝苦しそうにしているナルーシャを起こさないようベッドに寝かせると、クラウスはぼんやりとその顔を眺めた。
人の顔の審美についてあまり考えないクラウスだが、かわいらしいと思う。
それが顔の造りによるのか、ナルーシャだからという色目によるのかは曖昧ではあったが、すやすやと眠る姿を見ていると穏やかな気持ちになれた。
そうしているうちに、クラウスはある程度の冷静さを取り戻していた。
周りの人に問題を残したまま出奔するなんてまともな人間のやる事ではないと、自らに言い聞かせる。
(……それに、精霊王のことはまだ誰にも知られていない)
今それを知るのはクラウスだけで、今日一番間近にいたオルヴァンもナルーシャの変化しか把握していない。
精霊であるフィスティテスがナルーシャと精霊王についての関係を深く言及もしなかったことも、クラウスの考えを補強する。
現状維持を望むクラウスは、口を噤むことを選んだ。
考えを纏め終え、部屋を見まわす。
目ぼしい家具はテーブルと椅子、衣類棚。狭い独身者向けの寮の部屋にソファーなんて上等なものはない。長身のクラウスがいつも身体を縮こませて眠っているベッドには、ちょうどいいサイズでナルーシャが眠っている。
いくら半身のように思っている元が蝶の精霊とはいえ、狭いベッドの中女の子の身体とくっついてのんびりと寝られるほど、流石のクラウスも鈍感ではない。
土足で歩く床に眠る気になるわけもなく、クラウスは椅子で眠ることを選んだ。
そして案の定身体のあちこちが強張って痛み、日が昇る前に起きることになった。痛みに呻きながら起き上がり、少しでも痛みを和らげようと身体を伸ばしほぐす。
「クラウス、起きてた?」
「……ナルーシャ、座ってもらっていてもいいですか?」
「ん? うん?」
起きたナルーシャをベッド端に座らせ、痛い節々をかばうようベッドに横になる。狭くて窮屈だと長年思っていたベッドだったが、きちんと役割を果たしていたのだとクラウスは身を以て思い知った。
ナルーシャの方を見れば、不思議そうにクラウスを見ていた。安心させるようにと笑顔を作る。
「……少し、休みます」
「今から寝るの? 大丈夫? ……おやすみ?」
心配するナルーシャの声を聞きながら、今夜はどうしようかを憂いていれば、いつの間にか寝入っていた。
再び目覚めたとき、東向きの窓から朝日が差していた。
普段よりも遅い時間だとすぐに気づき、慌てて体を起こせば、じっとクラウスを見つめているナルーシャと目が合った。
「おはようクラウス!」
一週間朝起きるたびに足りなかった言葉があることに、一瞬言葉が詰まる。
「……おはよう、ナルーシャ」
深く息をついてから、かろうじて声を出す。足をぶつけないように気を付けながら、ナルーシャの横に腰掛ける。
「すみません、座ったままで大丈夫でしたか?」
「うん。ちょっと暇だったけど大丈夫だよ」
ナルーシャにはそのまま座っていてもらい、クラウスは立ち上がって食料の棚に向かう。朝食の準備をする時間も惜しいと、エールと黒パンだけを手に取る。
椅子に座り、食前の祈りもそこそこに黒パンをエールで無理矢理腹に流し込んだ。
まだ痛む肩周りを揉みながら仕事の準備をしていると、部屋の前に覚えのある気配を感じた。
ナルーシャを見れば、視線はクラウスから廊下へのドアに向けられていた。
『おはよ』
「おはようございます」
ドアを開ければ、フィスティテスが待っていた。遅い時間だからか、廊下に人影はない。
『仕事の間、ナルーシャを預かるよ。オルヴァンの休憩室あるから』
「ああ、それは……助かります」
フィスの言葉はクラウスにとって天恵だった。執務室奥の休息部屋でなら、ナルーシャが見つかることはそうそうない。
思わず癖で精霊王の恵みに感謝したが、直前に見たベッドに座って枕で遊ぶナルーシャの姿が浮かび、そんな決まり文句に対してなんだか相容れない感情が生まれた。
愛らしいとは思うが、王というには違和感が拭えない。
『じゃ、昨日と同じように連れて来て。先行ってオルヴァンに話しとくから』
「はい、ありがとうございます」
一つ頷くと、白い鳥は羽を広げて外へ面した廊下の壁をすり抜けて飛び立った。
律義にドアから訪ねた精霊を見送り部屋に戻ると、ナルーシャが様子を伺おうと上半身をそらし、ドアの方を覗き込んでいた。
「フィスは何の用事だったの?」
「ナルーシャを預かってくれるそうです。今日は先生のところで留守番をしてください」
ナルーシャが首を傾げる。
「そちらのほうが、何かあればすぐに向かえますから」
「なるほど」
少し離れたこの寮よりも、教会敷地内の方がクラウスの精神衛生にいい。
納得したナルーシャを抱き上げる。
オルヴァンは力持ちだと言っていたが、クラウスはナルーシャに重さをほとんど感じていなかった。女性として一般的な背丈だというのに、風で吹き飛びそうなほどで逆に怖いとさえ思う。
そして以前と変わらず食事も必要としていない。
人の形だが、人ではないことを改めて思い知らされる。
今回はクラウスが魔法陣を使って魔法をかけて、そろそろと寮を出た。
大聖堂に近づくに連れ、人々のざわめきがいつになく大きく聴こえた。聖女の件を聞きつけた人々が参拝しているのだろうと考えながら、聖堂よりも手前にある、教会の事務所にあたる聖庁へ顔見知りの守衛と挨拶して門をくぐる。
クラウスの魔法を見破れる魔法使いはそうそう居ないが、相手が精霊となると少し事情が異なる。
精霊たちは魔法の、厳密には魔力を感知する。
もし目くらましの魔法へ言及されてしまえば、芋掘り式に露見するのが容易に想像できた。
とは言え隠さず堂々としていたところで、契約の糸の存在で少女がナルーシャだと気づかれる。
精霊を連れている枢機卿の一人ヘルムート・ヴァルトシュタインは厳格、公明正大と言われる男だ。そんな事態になって見逃してくれることはまずない。
彼の精霊ニブルムも、ナルーシャやフィスティテスとは比ぶべくもない真面目な性格で、こちらも誤魔化せるとは思えなかった。
クラウスには枢機卿に見つからないよう、速やかにオルヴァンの元へ辿り着くしかない。
不幸中の幸いは、もう一人の枢機卿が昨日から王都を離れていることだった。
聖庁は北と南で二棟が渡り廊下で繋がるように建てられている。
クラウスの使う裏口から入れる北棟の半分は、ヘルムートが長官を務めている財務省に割かれている。先ず渡り廊下を目指し、そこを抜けて南棟の中に置かれたオルヴァンの執務室に向かわなければならない。
表口は来客用で、人通りのある時間帯の関係者の利用は基本禁止とされていた。
ナルーシャに喋らないよう言い聞かせ、意を決して北棟を歩き始めたが、意外にもニブルムの気配は微かにしか感じられなかった。
クラウスは難なく渡り廊下に辿り着き、拍子抜けしながらも急ぎ足で渡り廊下を抜ける。南棟に入ると、一目散にオルヴァンの執務室へ駆け込んだ。
「おはよう。ヘルムートとすれ違わなかった? さっきまで話していたんだけど」
部屋に入って気を抜いて早々オルヴァンにそう言われ、静かに息を呑む。いないとわかりつつも、思わず執務室のドアの方を振り返った。
入れ違ったのか、顔も見たくないと避けられたのか。
どちらにしろ、今のクラウスには幸いだった。
「……いえ、大丈夫です」
「それならいいんだけど……ナルーシャのことをどう話すか、僕もまだ思いつかなくて」
「わたしのこと」
オルヴァンはナルーシャの言葉に頷きながら、椅子から立ち上がると執務室左奥の扉を開いた。
カーテンが閉め切られた部屋が、枢機卿が個人的に憩えるようにと供えられた休憩室だ。見るからに軟らかそうなソファと、数冊だけ納めた本棚が目につく。
オルヴァンは休憩時間も食堂やら庭やらへ出るので、この部屋が使われることはそうない。
しかし部屋の清掃はきちんとされているようで、埃っぽさはなかった。
「ナルーシャ、ちゃんと待てますか?」
「待てる」
うんうんと頷くので、クラウスも頷き返しナルーシャをソファに座らせた。
「フィスも一緒に待ってるらしいから、二人で遊んでいてね」
「やった。フィス、何して遊ぼう?」
『断る』
遊びを考える前につっぱねられ、ナルーシャはがっかりした顔でオルヴァンの方を見た。
フィスティテスが何と言ったのかを感じ取れなかったのか、オルヴァンは何事かと首を傾げた。
「断られた」
口を尖らせるナルーシャに、オルヴァンは目に見えて慌てた。
「ご、ごめん? フィスなんで」
『こっちのことはいいから、働けオルヴァン』
「ええ……?」
ナルーシャに謝り、理由を尋ねようとしたオルヴァンへかぶせ気味に言い放つと、ばっさばっさと大きく羽根を煽り、ついでとばかりにクラウスもまとめて人間二人を部屋の外へ追いやった。
部屋に入れないように扉の前で通せんぼをするフィスティテスを前に、無理に入ろうとする押しの強い人間はここにはいなかった。
「じゃ、じゃあよろしくねフィス」
「……ナルーシャ、夕方には戻ります」
クラウスもフィスティテス越しにナルーシャに声をかける。
「うん、いってらっしゃい」
いってらっしゃい、なんてありきたりな言葉を、ナルーシャに投げかけられるのは新鮮だった。クラウスが呆けた顔でいると、それを見つめていたナルーシャがくすくすと笑い出す。
クラウスも苦笑いを浮かべ、口を開く。
「いってきますね」
ナルーシャがひらひらと手を振ると、遠慮がちにクラウスも振り返す。
オルヴァンが扉を閉じると、真っ暗な部屋に精霊二人きりとなった。
『ほら、ナルーシャ特訓するぞ』
くるりとナルーシャの方を向き直り、フィスティテスがナルーシャに言い放った。
「なんの? 歩く特訓はフィスと二人じゃ無理だよ」
『それは勝手にやってて。やるのは蝶に戻る特訓』
フィスティテスの言葉に、ナルーシャはぱっと表情を明るくした。
「戻れるの?」
『見た感じ戻れる。けどまあ、ナルーシャは特訓しなきゃ無理だな』
「あっ……そうなんだ」
契約のある精霊の中で最も魔力の扱いに長けるフィスティテス、それがそう言うならそうなのだろうと、ナルーシャは頷いた。
クラウスが最高位の魔法使いと持て囃される裏で、契約しているナルーシャの魔法の実力はひどいものだった。
精霊王になったせいか幾分ましになっていたが、それでもフィスティテスには遠く及ばない。
そんなナルーシャでも、フィスティテスの言葉を信じるなら、頑張れば蝶に戻れるということだ。
「前に戻れたら、またクラウスと一緒にいられるね」
特訓がどれほどのものかナルーシャにはわからないが、戻れるのなら何であれ吝かではなかった。
『そうだよ。がんばれ』
「よし、がんばる!」
人知れず、ナルーシャとフィスティテスの特訓が始まった。
評価、ブックマークありがとうございます。
週2、3回のペースで投稿を続けられるように頑張ります。