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与えられた聖女の部屋には、一週間の間に間に合わせたのであろう真新しい家具が並ぶ。ごく普通の一般家庭で育った真理にも、上等なものなのがなんとなく見て取れた。
案内されてすぐは恐る恐る触れていたが、半日も経つ頃には気兼ねはなくなっていた。改まって部屋を見渡している今も、クッションのきいた皮張りのソファに人には見せられないようなだらけた格好で座っている。
昔読んだファンタジー小説のような、真理の想像する中世の世界がここにあった。
現代社会に慣れ切った人間にはところどころ不便ではあったが、侍女を付けるという話は断った。家族以外が常に傍にいることに慣れると思えなかった。
真理がこの世界に呼び出されたのは、浪人生となって2か月経った変わらない日々の中だ。
ルーチンワークとして部屋で数学の参考書を睨んでいると、なんの前触れもなく視界が暗転した。次の瞬間にはもう、見知らぬ場所が目に映っていた。
戸惑う真理のまわりには、喜び湧き上がる魔法使いたち。
そんな中、一人だけなぜか怒ったような、やるせない顔をしているエミール・アスランはとても印象的だった。
他の魔法使いたちを尻目に、エミールは困惑している真理を別室に連れ立って、真理の置かれた状況を説明しだした。
真理が、精霊と対話し契約する聖女として呼び出されたこと。
呼び出した理由が政治的意図によること。
今はまだ、帰る方法がないこと。
まるでどこのマンガやアニメの話だと真理は他人事のように思った。あまりその手のものに馴染みのない真理は、子供の頃に読んだ童話や小説を思い浮かべた。
一週間たった今の真理であれば帰せと騒いでいただろうが、呼び出されてすぐは「帰りたい」という思いが持てず、ぼんやりと話を聞いていた。
高校を卒業し、部屋や塾で勉強に明け暮れる日々に倦んでいた。逃げ出したい――あの日、真理は確かにそんなことを思っていた。
エミールは事情を説明したこの時に、真理に一つ約束をした。
「すぐには無理だが、必ず君を元の世界へ帰す」
思いつめた様子で、拳を強く握りしめて彼は最後にそう言った。
言われたとき、真理はすんなりと信じた。そして今もエミールの言葉を信じて、落ち着いた気持ちで目まぐるしいこの世界で過ごしていた。
「エミールだが、入っても?」
ノックと同時に、聞き覚えのある声が耳に届く。
「エミール? ……っと、どうぞ」
ソファで寛いていた真理は、おおっぴらに広げていた脚を慌てて閉じ、姿勢を正し深く座り直した。自身の周りを見回し、特に散らかったものがないことを確認するとドアの方へ声をかけた。
「失礼する」
シンプルな服をきっちりと着込んだ男が、部屋に入ってくる。気を張り詰めていた昨日までと違い、少し気が抜けているようにも見えて、それは出会ってから一週間たち初めて見る姿だった。
「今日は休めたか?」
「そこそこ」
「そうか」
式だけでなく会食や挨拶の為、一週間という短期間に世界の知識とマナーを押し込められてきた真理にとって、この世界に来て初めての丸一日の休日だった。当事者である真理は勿論、後見をしているエミールもずっと気を張ってそれに付き合っていた。
「昨日俺が君から離れていた間、変な誘いはなかったか?」
片時も、とはさすがにいかず数度エミールがそばを離れたときがある。一度目にお手洗い? と尋ね、白い目で見られたのは思い出したくない出来事だ。
「なかったと思う。社交辞令のお茶のお誘いぐらい」
変の定義はわからないが、大した話が振られることはなかった。真里の体感では、みな接し方を考えあぐねているように見えた。
何かを考える素振りのエミールは、黙り込んでしまう。放っておかれた真理も、昨日一日を振り返ってみることにした。
「昨日のあの背の高い人、かっこよかったな」
そして、なんとなしにそんなことを呟いていた。
「……誰だ?」
「ほら、きれいな長い黒髪の人。手入れとかそんなしなさそうなのに髪つやつやでさ。顔もかっこいい、っていうより綺麗系? 見とれてたらエミールが急かしてきた人」
「背が高くて、長くて綺麗な髪……」
エミールは真理の言葉を繰り返しながら視線を空に彷徨わせ、ふと不機嫌になって眉間にシワを寄せた。
「クラウスはやめておけ」
「なにが?」
確かにクラウスと名乗っていたと思い出しながら聞き返す。
「あいつとは同期だった。寮で同室のときもあったが、君が思うような奴ではないぞ。髪の手入れにかける時間はすごいし、あんな顔でも一応髭だって生える。毎朝先に鏡の前を占拠されたし……」
エミールがまくし立てた内容に、真理はぽかんとした。
真理はクラウスという青年に対して、アイドルを鑑賞するような気持ちだった。
確かに幻滅する話と言えなくもないが、いかんせん予想していない話の内容に戸惑う真理の様子を、納得していないと見て取ったのかエミールはさらに言葉を重ねる。
「それに、クラウスは女が苦手だ」
「え?」
「……いや、違うぞ、別に俺もあいつも同性愛者と言うわけでもない。ただ、あいつは精霊と契約しているから、女に興味がなくて」
「ああ、そうなんだ」
エミールのクラウスを語る様子に、悪感情は感じられなかった。寮で同室でこの言いようなら、仲がよかったのだろうと真理は当たりをつけた。
とはいえ、それを突然それを聞かされても真理は返事に困るだけで、うんうんと適当に頷く。慌てるエミールは新鮮で面白くはあるが、興奮して声が大きく耳に優しくない。
「別にクラウスさんとお近づきになりたいとか、そう言うのじゃないからそろそろ落ち着いて。ほら、ソファ座っていいから」
コーヒーテーブルを挟んだ向かい側のソファを勧めたが、エミールは首を横に振る。
「いや、門限があるからそう長居はしない」
窓の方を見やれば、外は赤い日の光が差す夕方だった。
エミールが言うように、座ってお茶を飲むというような時間は過ぎていた。
「……その、君は後見人にディースベルク卿を選ぶと思っていた」
「え、ああ……」
エミールが口にしたディートレフ・ディースベルクは、聖女認定の日にエミールの横にいた、高貴そうで笑顔を湛えた老人だ。あのあとすぐに、エミール以外の魔法使いに紹介され簡単な挨拶を交わした。
いい人そうだと思ったものの、精霊の言葉がいつまでも引っかかる。後見人の打診があると言われたが、結局真理は精霊の言葉と直感を信じることにした。
その後、お披露目式の時には彼の孫だという青年ヨハンを交えて、真理は相づちをうつばかりではあったが長く話もした。後見を断られた後だというのに、終始穏やかな笑顔を絶やさず、この国と教会についての知識を披露してくれた。
彼から申し出ていた後見人についての話が、その口から上ることはなかった。別れ際に真理が謝罪して、それきりだ。
「……まあ、ちょっとね」
「そうか」
はぐらかすように視線をそらして答えた真理に何を思ったのか、エミールが少し笑った。いつも不機嫌そうな男の唐突な笑顔に、真理はぽかんとした。
「今笑うところ?」
「いや、見直したんだ。人を見る目はあったな」
上から目線だとむっとしたが、返す言葉もない。真理は精霊の助言を受けてから、徐々に胡散臭く感じていくディースベルグを避けただけだ。
「近づいてくる人間、特に貴族や城の連中には用心しろ。何かあったら枢機卿に頼れ、あの人たちなら精霊もついているからな……彼らがいなければ、クラウスを頼ってもいい」
言い終えると、エミールは踵を返してドアへと向いた。
「もしかして、それを言いに来たの?」
「ああ、このタイミングしかなかったからな。近いうちにまた来る」
慌てて見送ろうと立ち上がった真理も待たず、エミールはさっさと部屋から出て行ってしまった。
言い捨てのような言葉を反芻する。そしてやっぱり彼が枢機卿と同じぐらいにクラウスという青年を信頼していることがわかって、少し笑ってしまった。
「いやぁ……あなたも城の人間じゃん」
思わず独り言が漏れる。
(でもいい人だと思うんだよね、多分)
あの生真面目ささえ抑えてくれれば、などと思いながら真理は再びソファに腰を下ろした。